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2026年8月13日木曜日

それなりにわかった事

 Stable Dffusionを動かすために、必要なハード環境を到底そろえる事ができないので、ここでは、GeminiとGrokをメインに使ってみて、それなりにわかった事を書いていきたいと思います。

まず、大前提としてGrokはやや緩めですが、両者とも露骨なエロとロリ(未成年系の性描写)は言語道断で、残虐な内容の絵(例えば人体切断・凶器の保持など)も生成できません。これ・・・私が積極的にそういうプロンプトを入力しようとしたという意味じゃないですよ(汗)で、Geminiでプロンプトを入力し続けると、イラストが作成されるうちに線がガサガサになり、着色も溶けたようになってしまいます。
絵を売るには「絵柄」とか(これは、私みたいに下手という言い訳で機能しやすいですが)「個性」とかいった信用もついてまわるし、AIイラストってそこら辺が苦手だと思うんですよ。「可愛らしい」とか「萌え系」といっても、均一化されやすいですし。 

最近でも熊本の地震におけるピース写真のように、著作権問題やモラル面でも白い目で見られやすいAIイラストが、商業の土壌に上がるかといえば個人的にそうでもない気が・・・。

なら、自分で描いた方が早いじゃん・・・という風になり、ああいうのはあくまでも遊び程度で・・・という結論になりましたが(課金もしてないザマなんで・・・)、だからといって反AIという立場かといえば・・・そうでもないんですよ・・・。

何か絵が描けない人がAIイラストを制作する事について、前者の人がその能力や才能を誇示するポストをXでちょくちょく目にしますが、ああいうのも何かね~と思います・・・。大体、絵が描けなくて小説が書ける人は、この世にごまんとおるのに・・・。全員が全員、あんびるやすこ氏や岡本 淳氏とは違うし、手描きを必要以上に特別視している徒党性も、何か嫌だな・・・とも・・・。そこら辺言語化できてないんですが、自分も手を出したから余計に感じるのか・・・。

2026年8月12日水曜日

『ヤンときいろいブルンル』の記憶

 小学生の時に、『ヤンときいろいブルンル』という絵本を買ってもらった事があります。何か、『いやいやバスの3ばんくん』とか『しょうぼうじどうしゃ じぷた』みたいな乗り物絵本かと思っていましたが・・・結構刺さってしまう話でした・・・。

なんか、とある家族にヤンという猫が飼われていました。で、ヤンはその家族が所有している黄色い小型車のブルンル(ズバリ、ワーゲンビートルです)と仲良しでした。ですが、旧型車のブルンルは故障が頻発し始め、堪忍袋の緒が切れた家族はブルンルを手放して、ついに新車を買います。ヤンはブルンルを探すために家から飛び出して、街を彷徨い、ついにブルンルと再会しますが・・・。

(ちょっとネタバレ恐縮ですが)ここに、作者であるやすい すえこ氏のシビアな問いかけがあるように思われました。ブルンルと再会したヤンは、ブルンルとの絆を優先し、結果として飼い猫という守られた生活を蹴ってブルンルに住み着く野良猫になります。これでブルンルが運よく誰かに拾われてレストアされ、ヤンもそのオーナーに飼われるというラストであれば、スカスカの美談になってしまいますが、安易な救いを用意しないラストだからこそ、痛みを理解させる深さと美しさが、『ヤンときいろいブルンル』にあるのだと思います。

ここで、ちょっと話が飛躍するようですが、私は「楽園追放」というアニメを思い出しました。あれだって、アンジェラはフロンティアセッターを助けた代わりに、ディーヴァを敵に回してしまい、(マテリアルボディに意識が閉じ込められたが故に)いつかは死ぬ生活を過酷な地上の世界で(ディンゴと一緒に)送らなければならなくなります。ですが、仁義の為に修羅の道を選ぶという面では、何か『ヤンときいろいブルンル』と共通点があるかな・・・とも・・・。

まぁ・・・「楽園追放」の方が何かラストは前向きだったし、どっちかというと楽しみを優先した作品でしたけど・・・。 

2026年8月11日火曜日

今日は接近メロディーが変わっていました

(8月12日:ちょっと内容を加筆修正しました) 
今日、JRを利用した所、接近メロディーがいつの間にか変わっていて・・・まぁ・・・別にいいですけど・・・。

何か色々とメンドい事が起きてるな・・・と思います・・・ホントに・・・。 

ああ、そういや『みい山』みたいな話と実際の障害児にまつわる問題を繋げるのは、それこそあんな作品で現実を理解しようとする「横着」をしているようで嫌ですが、一応なんか腹の底から感じてきたものを出しますね。そこら辺のデカい声でされる障害者語りには思う事は色々ありましたから・・・。
 

ここからは、障害者やその福祉関係においてデータや学力を加味せず、経験則ありきで書いているので、同じようなスタンスで『みい山』を擁護している層と同罪だという後ろめたさを持ち、敢えて書いていきたいと思います。それで誤解があれば、私も加害者であるという自覚と覚悟を持って・・・。

私が小学生の時です。私より年下で知的障害を持っていましたが、敢えて特殊学級ではなく普通学級に通っている子がいました。その子はすぐ癇癪を起して泣きだしたり、他の子に抱き着いたりしていて、それを他の子達から逆手に取られ、「エイリアン」 とからかわれ、追いかけ回されていました。彼が狙われるのが主に登校中だったので、担任の先生が車でその間パトロールしていたんですが、ここで問いたいのは、パニックを起こしたり、誰彼無しに抱き着こうとする子が悪いのか、それとも、彼を取り囲み「エイリアン」といって囃し立てた子が悪いのか・・・?という話です。 
正直にいうとあんな漫画をソースに、障害者や福祉を「わかった気」になるより、そういう事について突き詰めて考えて欲しい・・・そう思っています・・・。

 ああ・・・それとこの文章も知的障害者が誰彼無しに抱き着くとか、癇癪が起きやすいみたいな話がしたい訳じゃないです・・・特性は人それぞれですし・・・。だから、「やらん子」もいるという事こそ、「真実」であり、みいちゃんやツバサのようにお店のものを無断で食べたり、教室で奇声を上げる事(そして、保護者も迷惑な存在として描く)「ばかり」を障害者の特性として描いた『みい山』で学ぶと、問題を100%見誤ると思います。

 これだって(上にも書いたように)経験則で書いてる危うさはあるし、障害者が直面している現実は、彼らの自己責任じゃなく、健常者とその社会が孕む問題でもある・・・という事がいいたかったんです・・・すみません・・・拙い書き方で・・・。 



2026年8月10日月曜日

殺す愉悦

先日刃物を持った男を警官が発砲し、容疑者が死亡した事件がありましたね?大阪で・・・。で、その警官に対して一方的な礼賛と左派嘲笑が行われていたのを見てから、やっぱり法治主義は民意とは距離を取ったインデペンデントな存在じゃなきゃ・・・と思う訳です・・・。

同時に、私は、宮下 洋一氏の『死刑のある国で生きる』という本がオーバーラップしたんですね。その中の8章で、死刑制度の無いフランスで犯人射殺という死刑が行われているというのを見て、ニュアンスは違うかもしれんけどまさにそうした状況が・・・とも・・・。

そして、警官は公僕であり、その給料は市民の財産です。容疑者の発砲はそのお金で賄われたのであって、納税者が単なる(殺意に基づく)愉悦を叫んでいるのであれば、そこら辺の自覚や責任感の欠落も厳しくチェックしなければ・・・と感じています。まだ不明な部分(或いは、調査中の部分)がある状況で、結果として公権力が武力行使ともいえる状況に発展した事に、脊髄反射で一方的な礼賛を送るのを見て、そうした民意の俗情が法治主義と結託するような状況なんて、社会にとって有害でしかないなとも・・・。

やっぱり「12人の怒れる男」っていう映画でも、差別発言をまくしたてた有罪派の陪審員に、みんながそっぽを向くシーンがあるじゃん・・・。ああいう純度の維持はあっていいんじゃないかと・・・ある程度は・・・。

それと、これは感情論になっちゃいますけど、この記事に概ね同意です。 
容疑者が警官に撃たれて死亡した時に、大喜びで礼賛する人は、その銃口が自分に向く事を想定していないし、何か関東大震災の時に現れた自警団みたいだな・・・とも・・・それと、坂上 香氏の『ジャーニー・オブ・ホープ:被害者遺族と死刑囚家族の回復への旅』でも、アメリカの刑務所で死刑執行が行われる時、第3者の賛成派がスポーツ観戦でもするかのように大はしゃぎしよった下りを思い出します・・・今の騒動を見よると・・・。

 





2026年8月9日日曜日

トンネルが多い?

 よく、山陽新幹線は東海道新幹線と比べると、トンネルが多いといわれます。まぁ・・それは私もよく思いますが・・・。外が見えたと思ったら、すぐ轟音に包まれるというか・・・。

でも、そのおかげで時速300キロ出せるんですよね・・・。

帰りの新幹線で、姫路を通過したら急にちょっとGがかかりはじめるけど、まさにそれなんですよ・・・。逆だとわずかなスピードダウンというか・・・。

そういえば、8両編成化したN700系は、カラーリングを変えるらしいですね・・・。まぁ、差別化の為にはありかと・・・。 

2026年8月8日土曜日

少年漫画の棚に置かれてました

(8月8日:最後あたりの方に加筆修正しました) 
(8月9日:また、最後辺りの文章を大幅に変えました)
まぁ・・・亜月 ねね先生には申し訳ないけど、もうダイアナとかじゃなくて、あんな表現をオモテに出すのはともかく、アニメ化だけは大概にして欲しいと思うんですよ・・・。まぁ・・・別部門の編集者さんの発言と含めて、ネットリンチそのものが目的化しよるのを見ると、何だかなーとは感じますが・・・。一番問題にすべきは知的障害者への差別が作品(内の表現)をステップに拡大している状況で、そういう漫画から更にみんなの目に届くような、アニメ化という手段が行われようとしている事だと思うんで・・・。

大体、編集者さんが東大学院卒だからじゃなくて、問題は天然で人の苦境を面白がるような事をいった発言そのもので、批判に属性とか容姿を持ち出すのはアカンでしょと・・・。それ・・・首相が理事長に便宜を図ったんか図ってないんかみたいな話で、偏差値やレベルをあげつらって、学生や教職員を罵倒していたX民と同じかと・・・。一応、親戚に東大卒の人がおるしなぁ・・・。

ここで、『みい山』に話を戻しますが、 実は、地元の書店(某所の〇伊〇屋書店)の少年漫画コーナーに、『みい山』が並べられたんですよ・・・。ですが、最初にも書いた通り、知的障害者が淫獣(みいちゃんやツバサみたいなキャラクターが)みたいな存在として描かれ、際どいエログロがかなりあるような作品を子供の手に置けるような場所に置くようなやり方に・・・ちょっとどうかねと思ったんですよ・・・。紀〇国〇書店の店員さんに、いおうかいうまいか考えましたが、結局後者を選びました・・・。

アニメ化に反対というのは・・・そういう意味もあって・・・ね・・・。もしあんな作品のアニメの特集記事がニュータイプとかアニメージュで組まれるような未来も、正直来んで欲しい・・・そう思います・・・。 
なんで反対しとるんかっていえば、ここでも民意とか表現の自由についての私感を書きまし、正直にいいますが、私もセンシティブな事を粗雑に扱うような表現や、良識に楯突くようなエログロ系の表現は好きです。

ここからは自戒として書きますが、あんな表現を享受しているからこそ、どうして差別やいじめが許されないのかが正しく理解していない人達に、悪趣味な創作物は都合よくできていないわけです。だから、「みいちゃん」が知的障害者を揶揄するスラングとして急成長し、あの(福祉や知的障害者関係について)いい加減な描写が「真実」と祭り上げられて、大ヒットと共に偏見の正当化や助長に繋がっている現状があると思います。
だからこそ、一番人権問題や社会問題の被害者になりやすい人達の人権や尊厳を侵害してしまう形になる(この記事みたいに)という現実があるわけであり、作り手にしろ受け手にしろ、わかっている人達同士が限られた場所で楽しむべきものじゃないのか・・・ああいうのは・・・と思う訳ですよ・・・。

そんなものが表社会で容認されてアニメ化までいくと、このポストが指摘しているように、けじめがない人や無責任な人も簡単にそうしたコンテンツに参入できることを意味していて、人権侵害の助長のみならず、表現の自由全体が更に劣化していく事にならんか・・・という危惧も抱いているんですよ。それと、アニメ化って事は国際社会にもその名をしられるという話であって、もしもの時に結局全ての創作者と受け手が、成人向けだろうと商業だろうとバカを見るという事態にもなりかねんという不安もあって・・・。
それと、亜月 ねね先生の『みい山』における表現手法はともかく、編集部のアニメ化発表の日とかアクスタでの悪乗り、ヤンマガ編集者の発言などに起因する、障害福祉に対する分野の粗雑な姿勢から見ても、企業の社会的責任に照らし合わせ、アニメ化は到底・・・という気分です・・・。

俺だってアレ系のイラスト(まぁ、そっちは趣味としてですが)を別の世界でやってるけど、それが表に出れば性暴力や性犯罪に対して間違った情報を垂れ流してしまう(ちょうど、『みい山』に真実を見出す読者のように)事にもなるし、当事者へのセカンドレイプにも繋がってしまうからな・・・。 何でも表に出せばいいってもんじゃないし・・・。

それと、日本国憲法第12条では、自由と権利について「濫用してはならない」と書かれていて「公共の福祉のためにこれを利用する」責任も科されています。これは左翼のヒステリーでも正義も暴走でもなく、曲がりなりにも日本が民主主義国家で、行為の自由が責任として逆流しているにすぎません。それが嫌なら、民主主義や人権の理念を理解していない駄々っ子というわけで・・・。

 

2026年8月7日金曜日

子供に見せるな?

 まぁ・・・こういう事は昨日書けばよかったんでしょうけど・・・何か、平和記念資料館に子供向けのエリアが新設されるという事ですが、広島市の在住者(ついでに祖父も入市被爆している)としては、OKじゃないかという思いです。これは他の戦災や震災関係にもいえる事ですが、そろそろショッキングな感傷で無理やり背負わせるという教育方針には検討が必要なんじゃないでしょうか?「怖くない資料」を選択するというのは無関心ではなく、それだけ他者への想像力があるとも考えられるし、一律にインパクトを狙い、情動ばかりに訴える教育手段が美談とされている風潮が、じわじわと古典に近づきつつあるのでは・・・とも・・・?

デイヴィッド・ソベルの『足もとの自然から始めよう』という本でも、環境破壊に対する大人の使命感が先行しすぎ、小さな子供に石油流出や山火事などの悲惨な映像を見せる事の弊害が、まっとうな思いやりで書かれていましたし、こうしたポストにも書かれている通り、「ただ鬱になるだけ」が平和教育関連において目的化している部分はあると思います。

私だって、そういうショック療法が今になって役に立っている部分はあります。ですが、 獲得した結果は所詮は生存バイアスだし、教育というのなら、トラウマ的ダメージを与えた結果に対して、アフターケアやリカバリーにかかるコストを都合よく放置するのは無責任だし(そういうのは、スポ根のような根拠の無い精神論と紙一重だとも感じます)、できないのなら子供への配慮という形で展示エリアが新設される事は、甘受すべきだと思うんですよ・・・。
藤原 正彦氏の『国家の品格』ではありませんが、平和教育の結果とメリットを考えるなら、単にショッキングな事実の情緒的な羅列ではなく、全ての教育機関が学年別に行っているように、子供の発達段階や年齢に合わせた資料提供や情報の選択は必要だと感じています・・・。それって、「自分は子供の頃、サーフィンで20メートルもの波を乗り越したので、子供達もそうなるべきだ。もし溺れてもその恐怖は人生の糧になるからいい」っていうのと同じかと・・・。