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2026年9月2日水曜日

『僕らのヘリオトロピズム』を読みました

―自分がちょっとふざけたいからといって、野放図に人を傷つけていいわけがないんです。

             ロマン優光氏『90年代サブカルの呪い』より 
 

―強姦ってのは その後も精神を繰り返し犯す 心の殺人だからな

 一方  加害者のお前は 今の今まで俺に言われなきゃ 思い出しもしねえ

 正真正銘のクズだ

 原作:石井 光太氏 作画:今野 涼先生『鬼畜の街』より 

 

みずの 瑞紀氏の児童書『僕らのヘリオトロピズム』を読みました。 

まぁ・・・今日は前の文章とは違って2回更新になっちゃいますが、約束通り、川島 誠氏の『電話がなっている』と絡めて書いていこうかね・・・と思います・・・。当然、性質が違うし、どっちかといや後者は児童書という性質上、かなり私はネガティブに見ています。こことかここでも「いっちょ噛み」はしてるわけだしな・・・。

で、最初に書いておきますが、『とにかくさけんでにげるんだ』とか、『いいタッチわるいタッチ』 といった絵本、そして、『アナザーヴィーナス』という児童書が大人から子供への性暴力を告発・対策法を表明してきたように、『僕らのヘリオトロピズム』もその流れを汲んだ作品です。尤も、『アナザーヴィーナス』は青木 和雄氏の監修で、吉富 多美氏が執筆したものですが、正直、加害者に優しい結末を用意するような展開より、『僕らのヘリオトロピズム』の方がきちんと被害者と性加害のリアルが描けていると思いました。

で、『僕らのヘリオトロピズム』のストーリーですが、直人という少年が小学生時代にサマーキャンプでボランティアの青年から性加害を受けたという闇を抱えている所から、物語が始まります。で、直人は塾帰りにクラスメートであり、同じ塾に通うようになった女子の琥珀が、同じく男性に襲われているのを目撃してしまいます。 

そういう目に遭っていなければ、単純に「じゃあ、警察にいやぁいいじゃん」でしょうが、性暴力は(語弊を恐れずに書けば)その性質上、みんながみんな同情や憐憫の目で見てくれるわけではありません。 それらを軽く見るつもりは絶対にないですが、殺人や傷害以上に、被害者も好奇の目で食い荒らされる事になります。だからこそ、簡単に告発できないジレンマに直人は直面していきます。男性から男性からの性暴力に、一体世間がどんな反応をするのかという事も加えて。自分もそれはわかるような気がします。「ゲイヴン」とか「真夏の夜の淫夢」とかいったネットスラングが流通しているように、特にそういう事が歪めて茶化される確率って、かなり多い気がしますから。

で、ストーリーが進むにつれ、実際の事件を明らかに参考にしたと思しき、漫画家の性加害事件が発生します。 それは、直人が愛読していた漫画の作者で・・・。すみません・・・私は『モリのアサガオ2』を買ってるんで、同罪かもしれん・・・。これから書く事を考えれば、矛盾の極み・・・。

はっきりいえば、戦争(例えば、イスラエルのガザ虐殺やロシアのウクライナ侵攻など)や東日本大震災を題材にした話より、こうした問題を扱った児童書は、例えそのスタンスが真面目であったとしても、かなり人を選ぶし、もしかすれば必要以上に読者がダメージを受けるリスクがかなりあると思います。だって、身近にいる人が最悪な形で自分に牙をむくという苛烈さはともかく、そういう目に遭った人が読むと、重大なセカンドレイプになる可能性も、否定はできませんから。
 

だからこそ、この『僕らのヘリオトロピズム』は全くもって常識的で当たり前の事しか書かれていません。一番弱い立場の子供を性の捌け口にするような大人は唾棄すべき外道であり、裁きを受けるべき存在である事、その犠牲になった子供達が、守られなければいけないのは当然の事、だからこそ、他者のセクシャルな部分を安易に口にしてはいけない事などです・・・。
それは、最初に書いた、川島 誠氏の『電話がなっている』の実験的タブー破りや、そういう作品を子供に勧めてダークヒーローぶろうとする、無責任な児童文学愛好家の態度(場違いかもしれませんが、現実における被害と加害の関係の「美味い部分」ばかり相対化して持て囃した人たちは、コミックLO編集部の爪の垢でも煎じて飲んだ方がいいと思います)より、遥かに優先されるべきものであり、みずの氏のようなテーマを選んだ大人達には、例え合意があっても、子供同士のキスやHだって、肉体や精神の発達段階や責任能力を考えた上で、絶対に許されないという拳にもなって欲しいと思います。
『僕らのヘリオトロピズム』は、合意のない性行為を扱っていたので・・・。 

 

尤もと最も

 まぁ・・・最近書こうかとは思っていましたけど、この公開日記や、自作小説内で、「尤も」と「最も」を混同して書いていたんですね・・・漢字については、恥ずかしながら自信があったので・・・もう・・・という感じです(汗)修正したいが、この公開日記の文章はやりません・・・なんせもう投稿の数が膨大なんで・・・。間違いを見つけたらどうか笑ってやってください・・・。


で、今日ちょっと、ロマン優光氏の『90年代サブカルの呪い』という本を読みました。

自分自身、あの辺りに精通しているかといえばちょっと自信はないですが、何か知らず知らずの内に、逆張り的な表現が加害にシフトしていくみたいなのって、サブカルじゃないんですけど、川島 誠氏の『電話がなっている』はともかく、あの表現を持て囃す大人達を思い出しました。まぁ・・・『90年代サブカルの呪い』でも背徳をただ楽しむだけではなく、何か他者への加害行為すら武勇伝として美化するような当時の風潮に「でも、やっぱりどうなんかね?ああいうのって面白いんかもしれんけど、傷つく人っていたじゃない?」 という感じの言及がなされていましたが、某読書日記はともかく、ああいうもの(つまり、『電話がなっている』みたいな、際どい文学的実験)を子供に読ませて悪趣味ぶって面白がるような風潮に、そういうのを感じます。
自分だってそういうゲスい部分があるから自戒として書きますが、児童書や絵本にオタクが群がり、エルサゲートの提供者みたいに振る舞うのは結構見苦しいなと・・・。 

これについては、みずの 瑞記氏の『僕らのヘリオトロピズム』を読んだ事と併せて、後日位に書いていきたいと思いますが、上に書いたように、子供をダシにしたチキンレースみたいなものへの、私もお気持ちも表明しておきたいという感じがせんでもない・・・。 
ていうか、『電話がなっている』にはこの公開日記で数度批判的な感想書いたけど、タイミングが合えば2つくらいリンクは貼りたいです・・・。 

2026年9月1日火曜日

2日遅れでした

 まぁ・・・アレに関係した事が・・・2日遅れで・・・気をつけな・・・。

 この調子で、気温が下がればいいんですけど・・・。 

2026年8月31日月曜日

顔を出していないという事

 最近、『みい山』のヤンマガ編集部炎上に関して、うなずける記事を見ました。

ヤンマガ・・・高校の時に、よく押切 蓮介先生の『でろでろ』とか押見 修造先生の『ユウタイノヴァ』とかいった作品を読みよったな・・・と思います・・・。

で、同じ執筆者さんが・・・こういう記事も書いていたので、「やっぱり・・・」という思いでした。 

で、本題に入りますが、特に初めのリンク先の記事は、編集者への発言に対して、一定の批判意識は持ちながらも、「顔と名前の見える編集者個人に対しては匿名で人格攻撃を行う投稿も見られたことには、私は強い違和感を覚えた。これ・・・私が一番ドキッとした上に、強く共感した部分なんですよね・・・。だって、記事が指摘している通り、学歴や顔も出ている状況で、「いっちょ噛み」している俺達はプライベートな事死守してるじゃん・・・。アイコンの陰に隠れてね・・・。
実際、『みい山』の作者である亜月 ねね先生の過去作品どころか、(真偽不明であり、今の問題とはほぼ場違いの)プライベートまで暴露されてる状況ですが、本人特定している人達、ネットに本名と住所書け!本職も書け!ついでに顔も出せ!っていわれたら、する勇気あるんでしょうか・・・?自分は好き勝手に晒しながら、匿名のぬるま湯に守られている事の非対称性は、もっと論じられるべきだなと・・・。それに、自分が容姿とか学歴とか揶揄されて、いい気分がするんかね?とも・・・。ここら辺、単に躓いた人間が破滅するのを面白がる人間が沢山寄って来るから厄介ですね・・・とも・・・。何かロシア人をいじめただけで義勇兵ぶってる人を見てる感じです・・・。

ですが、自分だって、この文章 とかこの文章で『みい山』にお気持ち表明している訳ですが、あの手のリンチに手を出さないからといって無罪である訳ではなく、こうやって個人情報に一定のプロテクトがかかった状況でコメンテーターごっこをしょっちゅうやっているので、同じ穴のムジナである・・・という自覚は持っていきたいです・・・。ここまで来ればさすがに亜月先生の方に肩入れしたくはなりますが、急な鞍替えというのもダサいと思うので・・・。

だって、『みい山』は正直面白い部分もあり、好きなキャラ(特にモモとそのSっ気)もいるけど、その分商業ベースに乗せるべきじゃなかったし、だからこそアニメ化には反対というスタンスで、今もそれは変わってないので・・・。 

 

2026年8月30日日曜日

あついのー

 「あついのー」の対になる言葉は、「さむいのー」だと思いますが、どっちで健康を害する方がマシか、ちょっと考えてるというか・・・。

そういえば、最近激辛のカツカレーを食べました。(ココイチみたいな所じゃなかったので)店主さんが「辛いけどいい?」と私が頼む際にいいましたが、私は「いいですよ」と答えました。で・・・予想通りでした・・・辛さが・・・。

もう額から汗がかなり出て、スプーン一杯ごとに水を飲む・・・そんな感じでした・・・。何か、角野 栄子氏の児童書で『おばけのアッチ』 シリーズがあるじゃないですか・・・で・・・余りの辛さに鬼の形相になってしまうというカレーが出てきたと思いますが、正にそれを思い出したというか・・・。

ですが、いい経験になりました(笑) 

2026年8月29日土曜日

『ロボット、被災地へ行く』を読みました

 中松 まるは氏の児童書『ロボット、被災地へ行く』を読みました。

この作品は、舞台としてかなり重要な事を論じていると思います。

大体、被災地と聞くと(情けない事に、私も一瞬そう思っていました)東日本大震災を舞台にした話を連想してしまいますが、本作が題材としているのは2024年に発生した能登半島地震です。 東日本大震災は関東大震災と同じようにその犠牲者数や被害規模、重大な原発事故の発生などから、「普通の災害」と比べると現在でも多くのプロンプトが投げかけられており、原発事故や津波の被災者というプロンプトに答えを振り絞る事が社会のニーズと完璧にマッチするので、結果としてそっちが優先されるケースがかなりあるでしょう。それは日本国民全体の問題として波及したのだから、当たり前といえば当たり前の話なんです。

だから、結果として3月11日を(9月1日と同等に)災害の典型として向き合う事が、災害系の創作では定着している感がありますが、そうじゃない事は都合よく社会の無意識や創作の中で漂白、あるいは何でも東日本大震災の被害に吸収・統合されてしまう部分はあるんじゃないかと思います。2016年に発生した熊本地震から10年経った時、そのタイミングで「私はあの地震から10年経って、ようやく答えをだそうと思いました」みたいな事を悩みながら表明し、創作として吐き出したい位ショックを受けたクリエイターがどれほどいたんでしょうか?何かそのあたりにおける文化的な意味付けにも、正直居心地の悪さを感じる自分がいて・・・。

という事で、いささか前置きが長くなりましたが、『ロボット、被災地へ行く」ではこの手のわかりやすさをある程度拒絶しながら、災害における問題点や善意の葛藤を描いている所がいいと思いました。

小学5年生の少年、悠真は父親からプレゼントとして貰った、ペット見守りロボットの使い道を考えていました。

そんな中、能登半島地震が発生。児童書故にそこまで鬼気迫る書き方ではないですが、怒号のようなアナウンサーの声や、焼け野原となった市街地の描写には、かなり生々しさがありました。逆をいえば、あの元日における混乱や被害の状況を、中松氏がきちんと押さえていたからだと思います。 

 話を戻しますが、そこで悠真はロボットを能登半島地震の被災地で何とか役に立てようと思い、ロボットを石川に送る事を思いつきます。ですが、みんなが好意で迎えてくれるわけではなく、悠真はロボットごときに何ができるかという被災者の厳しい目に晒される事になります。へこたれそうになる悠真ですが、改めて努力するうちに、ロボットが持つ可能性を再認識するようになり・・・という感じです。

本作は能登半島地震そのものだけではなく、そこから被災者が抱えるジレンマ(「頑張っている被災者」という過剰な英雄視の裏にある、複雑な感情)や、今では全く報道されなくなっても、コロナ感染はある程度現在進行形である状況などが書かれていますが、最初にも書いた通り、テーマに対して読者と作家の合意形成が得やすい東日本大震災ではなく、能登半島地震をベースにして語っている所が、一番重要な所だと思います。更に、ただ能登半島地震ではなく、悠真が直面した現実を東日本大震災が孕む問題(間違った支援や野次馬)に話を繋げている所が、災害系の児童書として、非常に抜かりが無いと感じました。 

だからこそ、語弊を恐れずに書けば、東日本大震災はその規模と内容故に、日本社会全体の命題による伝承と問題提起として選定されるケースが多いです、それだけ重要だからこそ、東日本大震災を物語の典型例として終始させるのではなく、他の問題にもしっかり目を向けているのが、『ロボット、被災地へ行く』の魅力だと思うんですよね・・・。

2026年8月28日金曜日

今描いています

 いま、2作同時に描いています。といっても・・・1作目の方はラクに住むんですけど、2作目の方は・・・という感じです・・・。キャンバスのサイズが大きいし、メカ系なもので・・・。

年内はできないかもしれませんが、来月の2月くらいに、個展をやってみたいな・・・とか思ったりします・・・まだまだ決定段階に至ったわけじゃないですが・・・。