この暑い中、バイトに行って・・・「ここでヘタっちゃいかんよ?」とか思う訳です。私よりも長い時間働いてて、しんどい仕事をしてる人なんか山ほどおるし、ですが・・・やっぱり学校が(何らかの理由で)休みになったり、仕事から早く帰られれば、「ラッキー」と思う人は、同じ数ほどいるはずです。
私も以前は食品工場の夜勤で、大晦日にはおせち料理を作るために(一応、休憩時間込みでしたが)13時間工場内で働いてた事があります。短期バイトでも、真冬の冷凍庫からローラーで、クリスマスケーキの入った箱をトラックへ運んでいました。そして、昼の1時から夜の1時まで、サッカースタジアムの観客が出す弁当や飲み物のゴミをひたすら処理していた事もあります。
で、その経験を照らし合わせた上なんですが、どうも左派系の一部における経済的な言説では、資本主義自体を否定し、その流れで労働自体も否定するという、トラバントが走っていた過去の国よりも極端なものが流通しているように見えます。
自分も最近Xで、「労働にNOを突きつけたい」みたいなポストを見たばかりなので、敢えて書きますが、たとえどんな形でも、人は(ある程度の)社会参画から逃れられないと思います。これは松本 次郎先生の『女子攻兵』とか、最近では森川 成美氏の児童書『アントネストの羊』とかでも触れられている事なんですが、この社会で労働に絶縁状を突きつけてたとしても、結局は自分が嫌う概念に支えられて生きているというダブルスタンダードがモロ見えになっているわけです。ああいう何気ないような言葉をXでポストするのだって、電子機器メーカーの工員や発電所の作業員、そこまでいえるような余裕があるような、生活環境を提供しているだろう建設会社など、見えにくいだけで「労働」という概念が日常生活に密接に関わっている訳です。来ている服だって、あるいは食事だって、誰かの労働があるおかげで成り立っていると思うのです。「労働にNOを突きつけたい」といいながら、自分がやりたくない事で維持されている環境に依存するというのは、結構ズルくもないか・・・と・・・。
そこで自分の信念を貫徹させるには、同じように労働にNOが突きつけられた環境に住む他はありませんが、多分それはきれいな飲料水も出ない、エアコンもまともに動かない、電気だって供給されない、まさしく『漂流教室』とタメを張れるような地獄でしょう。ああ、そうそう。現実にあわせてロボットが労働を肩代わりしてくれるというのもナシです。
こういう話が、(かなり昔の話ですが)「働いたら負けかなと思っている」という極端なケースから出るのではなく、それよりも地位と意識が高そうな所からという所が、あの手の議論の根深い病巣かもしれん・・・とうっすら思っています・・・。