観ては無くとも「きかんしゃトーマス」というアニメについて、知らない人は多分いない・・・と思います。で・・・鉄道発祥の地であるイギリスの蒸気機関車を始め、一昔前のディーゼル機関車や気動車等には、前照灯も尾灯も無く、前照灯があったとしても、申し訳程度につけられているような車両ばかりでした。だから・・・人間の顔をつけたくなる理由については、わかるような気がします・・・。
で、こういう所から、最近「顔のあるなし」について考える出来事がありまして・・・今回は乗り物ではなく「波」という急激な方向転換でよろしくお願いします(汗)
そこで、阿部 結氏の絵本『なみのいちにち』と『ぼくのうちになみがきた』(作:キャサリン・コーワン氏 絵:マーク・ブエナー氏)という絵本がありますが、両者は波を擬人化しているという共通点がありますが、その方法はかなり180度違うなと感じています。
『なみのいちにち』では、(日本の)港町における海水浴客や漁師、子供達の営みが、砂浜に打ち寄せる波に顔を描く事で、豊かな感情表現を持つ、奥ゆかしい生命として描かれています。 鬼ごっこをしている子供に覆いかぶさって笑ったり、風に飛ばされた帽子を持ち主に返してあげたりし、夜になれば大波になってお化けとダンスパーティーと、バラエティ豊かな表現に圧倒されます。特に、夜のシーンでスキンヘッドのおじさんが読んでいる本が、「Moby Dick(白鯨)」というのも結構ニクい演出だなと思いました。
そのルーツも加え、相手を「犠牲者」としてそのわだかまりを浄化する作品が見られる中、海と生きてきた環境から、それでも自然の善性と向き合う著者の姿勢に、襟を正される思いでした。私も西日本在住で、そういう所がある分・・・。
そして、『ぼくのうちに波がきた』ですが、こちらには顔は描かれておらず、オクタビオ・パス氏の短編『波と暮らして』をベースにした、波そのものとの同居生活と破綻を描いています。一応、本作では波は少女として描かれている訳ですが、あくまでも表現は波自体です。そして、『なみのいちにち』がリアルな自然現象をベースとして波を描いているのに対し、顔が無い分波は重力の法則を無視して大胆に描かれています。波頭が分かれて手になり、抱きしめられると噴水のように伸びあがったり、スライムのように体をくねらせて飛びかかったり・・・だからこそ、顔が無いのに自然とそこに表情が見えてくるという魔力が、この絵本にあるといつも感じます。
前者が「静」の領域で波を擬人化しているとすれば、後者は「動」で波を擬人化しているといえると思います。だからこそ、それぞれに違うものが見られて魅力があると感じる次第です・・・。