今日はオクトーバーフェスに行きました。特にステーキが美味しかったです。
ビールは・・・飲んでません(汗)外で酔いたくないので・・・。
お酒・・・最近全く飲んでない・・・そのほうがいいよね・・・。
画家、藤高昇太の公開日記(ブログ)です。主に出展のお知らせや、近況などを書いていきたいと思います。なお、整理のために一部の記事が削除される事がありますので、ご了承ください。 ◎本ブログの文章の一部引用および画像の無断転載を許可いたしますが、以下の注意を守ったうえで、自己責任でお使いください。1.営利目的・非営利目的(何らかの収入を伴わない)に関わらず、出典の明記は大体わかる形でもかまいません。そちらのご都合に任せます。 2.政治的・社会的な信条にかかわらず、いかなる表現も許可いたしますが、最低限のTPOとモラルを守ったうえでご使用お願いいたします。なお、タイトルに◎がついた作品は、版権ネタですので無断転載をご遠慮ください。
今日はオクトーバーフェスに行きました。特にステーキが美味しかったです。
ビールは・・・飲んでません(汗)外で酔いたくないので・・・。
お酒・・・最近全く飲んでない・・・そのほうがいいよね・・・。
アエルベース様で企画・開催されていた「空間彩添 Vol.4」にお邪魔しました。自宅に飾りやすいサイズの作品を集めた企画展という事だったので、いい意味で毒気を排した作品が展示されていました。まず、下に会場の様子をアップします。
ちょっと話がずれますが、メッサーシュミットを見たのは、小学2年生の時に連れて行って貰った、石川県にある日本自動車博物館で、実際にスタッフの方々の好意で運転席に乗せて貰ったんですよ・・・!あれは貴重な経験でした・・・!なので、その車は今でも特別な印象を放っています・・・!
まぁ・・・私が芸術オンチなせいで(汗)、メッサーシュミットの話ばかりになってしまいましたが、また機会があればお邪魔させて頂きたいな・・・と思います・・・!
弓場 あずさ氏の 『きみと友だちになれたら…!美少女転校生はド天然!?』を読みました。イラストを担当された、せんちゃ氏の絵も良かったので、気が向いたら画集でも・・・という感じです。
主人公の七篠 梨乃は、影が薄い存在ですが、心の底から友達を作りたいと思っていました。そして、5年生を迎えた時に、容姿端麗だけど(客観的に見て)どこか発言がズレている少女、名取 胡桃が転校してきます。そこで早速、クラスの悪ガキである片桐 正也が彼女をいじり始めますが、胡桃は彼の悪意をさらりとかわし、ポジティブな意味に捻じ曲げてしまいます。そんな胡桃を見るうちに、梨乃は彼女に惹かれていき・・・という感じの話です。
で、話を読み進めていく内に、やっぱり「みんなキラキラ仲良し」の友情ほど脆いものはないよね・・・と思っていました。本当に相手同士を思いやる関係というのは、いつも優しく明るいものだけを見て、傷つく事を避けるのではなく、(それは、子供のキャパに合う形というのは当然ですが)時にはすれ違ったり、傷ついたり、相手が抱えている悩みを直視するネガティブ要素は必要悪ではないか・・・と感じました。人の痛みに敏感でなければ、梨乃も正也の腰巾着として、胡桃を揶揄して面白がっていたでしょう。
特に、物語中盤で梨乃達と一緒になるクラス委員長の小山 杏奈が抱えている闇は、ルッキズムという部分でもかなり重要な指摘をしていると思いました。アジア系が「ツリ目」と揶揄される人種差別の事例だってありますし。SNS(それはXやBlueskyにもいえる話ですが)で政治家を批判する際も、左派による「悪人顔」という罵倒が容認されている憂うべき事態も、度々見てるので・・・。
ですが・・・本作はちょっと片桐 正也に悪役のポジションを背負わせ過ぎてるんじゃないか・・・?と思いました。(これはほぼ同義語ですが)いじめやイジりというのは、一人の加害者が最初からみんなを扇動して始まるのではなく、複合的な要因が絡まって収束した結果であり、だからこそ被害者VS加害者と単純に白黒つけるのではなく、両者を含め、全員が自分の問題として考える要素が必要なのでは・・・?と正直考えてしまいました。
さとう まきこ氏の『 宇宙人のいる教室』や、白矢 三恵氏の『ぼくらの教室rpg』では、その辺りがかなり明確に描かれていたので・・・。
それと・・・これはかなり余計な事かもしれませんが、正也が梨乃を揶揄する際に「ドンくさいから『名無しのどん兵衛』」、給食がカレーうどんだったので「うどん兵衛」というのは、実際にそういう商品名のインスタント食品を製造する企業があるわけで、ちょっと思慮が無いな・・・と正直思いました・・・どうせするなら架空の商品名か、他のあだ名にすべきだったでは・・・とも・・・。
何か、かなり昔に、実家で祖母か母が持っていた子育て関係の本を読んだ事があります。タイトルも度忘れしてるし、うろ覚えで、いわさきちひろ氏がイラストを担当されていた・・・という記憶しかないんですが、何か幼稚園児で、水道の前でずっと手をかざしている子がいるんですよ。で、保育士がもしかして家は自動で水の出る水道なのかと思った所、本人が自発的にやって習得すべき事を、家族が先回りしてアレコレやった結果、ストレスで思考停止してしまう・・・みたいな感じの話でした。
水道でも、本人が蛇口をひねる前に、誰かが勝手にひねって水を出す。お花畑を見ても、本人が「きれい」と認識する前に、母親が「お花がきれいだね~」と声をかけてくるので、子供の為に良かれと思ってやっていた事が、本人を結果的に追いつめていたという事態に、みんなが気づいて反省した・・・という形で一件落着していました(ようだった)。
で・・・こういう先回りしてアレコレと世話を過剰に焼くというのは、日本のドメスティックな環境だけではなく、社会全体に溢れていると思います。この文章でも書いてますし、こういう記事にも共感してしまう自分としては、電車やバスに乗っている際に、「無計画な注意放送垂れ流し」がまさにそうだと感じています。
この間でも広電バスや広電に乗っていて、ICカードの使い方や乗車マナーなどのアナウンスなんて、もう5回(可能なら7回)に1回でいいじゃん・・・という思いに正直駆られました。乗客がわからないからといって、小姑の小言のようにネチネチと流されるアナウンスに、あの幼稚園児の姿がダブったというか・・・。 ああいう幼稚園児か小学校低学年の生徒に言い聞かせるようなアナウンスを何度も聞かされると、こっちもかなりイライラしてくるんですよ・・・。調べなきゃ放送してくれというのも、大人なのか・・・とも・・・。
クレーム回避のアリバイ作りの為に、都市環境を粗雑に扱うやり方は、もうどっかでメスが入っていいんじゃないか・・・そう感じています・・・。
今も、角野 栄子氏の『小さなおばけ』シリーズは続いていますが、そこで佐々木 洋子氏もずっとイラストを担当されています。で、個人的に「ソッチのデザインが・・・かなり変わったなぁ・・・」と正直感じました。個人的には前の方が結構愛らしいと思うんですが、今のデザインも結構好みです(汗)
それと同じように、製造時期や増備時期、投入された路線等によって鉄道車両のデザイン変更(大阪モノレール1000系や京都市営地下鉄10系など)が結構あり、特に205系の「メルヘン顔」はともかく、相模線用の205系のイメージをぶち破るようなデザインを見ると、大幅にキャラデザが変更されたソッチを思い出すな・・・と・・・。
まぁ・・・人生で初めて触れた童話の一つが、『おばけのソッチ:ぞびぞびぞー』だったので、アッチ、コッチの中でも特に思い入れが深いキャラクターなので・・・。
何か最近、こういう記事を読みまして・・・。
私は夏でも短パンは履かないので、すね毛の処理はしていません。昔のバイト関係で、それ関係の男性化粧品はかなり見たんですが(笑)ですが、ヒゲの処理はちゃんとやってます・・・一応、職場に出るんでね・・・。その時、理容師さんは本当にプロだなと思います・・・。
それと、髪も洗いやすさ優先の為に、ほぼスキンヘッドです(汗)0・1ミリのバリカンをいつも床屋で頼んでるので・・・。
でも・・・まぁ・・・「やる・やらない」じゃなく、毛の処理についてはホームレスや貧困層のように「できない」人も存在するので、そこを無視しても・・・という感じです・・・。ハードワークのせいで風呂に入る余裕もない人だって、沢山いる訳だし・・・。
ここで、拙作(オリメカ系です)のラフと清書を公開します。上がラフで、下が清書です。
そして、次にやはり自分で下した最終案(笑)みたいなものも・・・アップします。
複眼・・・何かAC4のOPにおけるアリーヤのカメラアイのギミックに結構影響を受けてますね・・・「(当時における)次世代作品だから、従来のEYEシリーズを凌ぐものを作ってやる!」というスタッフの方々の気迫を感じたというか・・・。
小学生の時に、灰谷 健次郎氏』の童話『けんちゃんのおばけ』という作品がかなり印象に残っていたので、それが他の童話と共に収録されている、『灰谷健次郎のどうわ:ようちえん ほいくえん』を読みました。で・・・まぁ・・・長谷川 集平氏の挿絵を見ると、私の自宅もそうですけど、今日のトイレは洋式が圧倒的多数だなと思いました・・・。実家も当然、そうだし・・・。『けんちゃんのおばけ』は違うアンソロジー集である『おばけにあいたい日の本』の(こちらでは、原 ゆたか氏が担当した)挿絵では、洋式でしたから・・・。
で、作中では「きんきんどう」というお店で、(多分親の店番を手伝っているのだろう)背中に派手な刺青を入れたおじさんが、それを褒めるとアイスキャンデーをくれ、逆にそれをディスる(「この刺青は消すのに消しゴム百個はいる」みたいな事をいう)と3発殴られるという、わかりやすいインセンティブを表明してるんですけど、おばちゃんに弱いという笑える弱点を持っているので、その類型的なガラの悪さと暴力性が見事に中和されています(笑)
そして・・・主人公が予防接種を受ける際に、医者の前で覚悟を決め「しけい せんこく」というシーンがありますが・・・これは正直シャレにならんぞ・・・!と思いました。黒古 一夫氏が灰谷 健次郎氏を自著で批判していた事とは遥かに微笑ましいものですが、実際にこうした例がが存在し、「トゥルー・クライム」や「デッドマン・ウォーキング」とかいった映画を観ている者としては・・・ドキッとしました・・・思わず・・・。
その他には、『いっちゃんはね、おしゃべりがしたいのにね』という作品が収録されており、これも印象に残っていた作品でした。いっちゃんという、話す際にあがってしまい、上手くおしゃべりができない少女が主人公です。そして、とある問題で勇気を振り絞ったいっちゃんが、ラストにおいて「せ・ん・せ・い・お・そ・ら・の・く・も・が・や・ぶ・け・よ・う・よ」といういっちゃんのセリフを発するのと同時に、雲の割れ目から青空と太陽がのぞき、先生と一緒にそれを見上げるシーンは、私が読んできた児童書屈指の美しいシーンだと思います。これは、クララが立ったというような美化ではなく、いっちゃんが勇気を振り絞った後に、自然現象を心理描写に繋げる巧みさ、そこから先生の勇気にも繋がっていく事への展開が美しかったという意味です。すみません、これはホントに説明が難しいんですが・・・。
今日、要領がよく、ストレスのかからないコミュニケーション能力ばかりが最優先され、「コミュ障(あるいは、コミュ症)」という言葉でそうじゃない人達を篩にかけて排他するような風潮を感じますが、後者に当たる人達の方が、遥かに人間や世の中を鋭く見ていおり、深い判断を下しているのではないかという痛切なメッセージを、『いっちゃんはね、おしゃべりがしたいのにね』という作品から、灰谷氏の長年にわたる教職経験に裏打ちされた筆致から読み取ることができるようでした。
いっちゃんの「上手くしゃべれない」という事を障害者として気軽に処理するような世相も併せて、じわじわ伝わってくるような気がしました。 それを特性として茶化すような漫画やアニメには、とうていいっちゃんが最後に先生にいったセリフですら勇気ととる事ではなく、「発音がおかしいコミュ障」という認識しかできないと思いますが・・・。
いよいよ来週・・・また遠出しなくちゃならんが・・・アレがどうなってるかだよね・・・。まぁ・・・自分も同じ事を人にやった経験があるから、被害者ぶってはおられんな・・・。
とりあえず、切符は確保しているのであとは着替えとATM関係・・・といった所です・・・。
何か、XとかBlueskyを見ていて、大学の授業評価アンケートに暴言が書かれている問題について・・・ですが・・・。まぁ・・・ああいうのは礼儀知らずという事で、篩にかければいいんじゃないですか・・・そういう奴のいう事に頭を下げとったら、本末転倒になるから・・・。私も優秀な学生とはいえませんし、成績ももう覚えてはいませんが、 授業評価アンケートは無難な内容で済ませた覚えが・・・うん・・・なんかまだ2011年で震災後に新学期が始まった時に、某教授が「西日本にも放射能が来る!」と大声で怒鳴り、東電を口汚く罵倒し始めた時に、実は私が「ちょっとそれは余りにも・・・」といったら「私が正しい!」とキレられたんで、思わずそういう衝動に駆られた事が(汗)
でもねぇ・・・授業評価アンケートの話に戻りますが、こういうの、学生個人だけの問題じゃないと思うんですよね・・・Xはともかく、招待コード制が廃止されて利用者が増加したBlueskyでもかなりガラの悪い言動をする人たちが散見されるようになり・・・こういうのは私も性格が悪いな・・・とか自省する日々なので他責は慎むべきですが、日々色々な「お題」が出される中、そこに対して(50代から60代の大人が・・・)しゃべり場の出演者みたいなコメントを日々目にしていれば、 (このポストみたいに)自由記述欄に「死ね」と書く学生がいても不思議ではないんじゃないか・・・そう思います・・・。最近、コンビニや本屋に行くと、カスハラの啓発ポスターをよく見るようになりましたが、それと同様に「○○ハラ」と規定した上で、防止活動に務めるべきじゃないでしょうか・・・。
まぁ・・・私に限っていえば、授業評価アンケートは匿名だったし、実名にすればいいのに・・・そう考えていました・・・。
今回は、ちょっとこちらの事情で公開が遅れていた、白木の郷様のパンフレット(くわしくはこちらをご覧ください)にご使用を頂いた、拙作の原画(キャンバス画です)をこの公開日記にてアップしたいと思います。では、以下の画像をご覧ください。
この2点は、私がキャンバス画にロボットを制作していた事に、担当者の方が注目して頂いたのに加え、白木の郷様周辺の景色、つまり芸備線の車両や川、鹿などの自然を加えた上で・・・という形でご要望にお応えしたものです。特に2枚目のロボットの左上を飛ぶ飛行機は、結構神経を使いました(笑)そして、芸備線の車両ですが、ご年配の方にも親近感を持って頂けたら・・・という感じで、今は芸備線を走行していない旧式の気動車もリサーチして描きました。急行「みよし」なら自分も小学生時代に乗ったな・・・と・・・。そっち方面の実家に家族と帰省する際に・・・。
そしてこちらですが、最終案とは別の方向性で制作させて頂いたものです。最終的には上の2作品が選ばれましたが、この拙作も今回の制作で生まれた作品の一つです。ポジティブなイメージ及び、明るいアメリカンダイナーみたいな雰囲気の構想・・・みたいなお話も頂いたので、こちらもご要望を基に制作をいたしました。志和口あたりには鹿がおり、実際に駅で野生の鹿を見たので、それをもとに音楽を聴いている鹿を描きました。音楽は私の趣向と同じです(笑)
今日、資料集めに図書館に行きましたが・・・あまり大した収穫はなくて・・・。
ですが、シャレオで東北物産展をやってたので、会津のお菓子を2つ買いました。これから両親に送る予定です。
そういえば、noteの記事について、ちょっと思う事があります。自分もこの公開日記で2行程度の文章を書いて終わりにする・・・見たな事が何度かあるんですが、noteでそれをやられると・・・と正直思います。そういうのに限ってエロとか中傷だし・・・。チンピラの独り言みたいな・・・。
で、昨日ガラの悪い連中に絡まれそうになったと書きましたが、ガラの悪さや下品なコンテンツ自体は否定していません。ただ、社会全体でそれらを見たくない権利とか、敷居みたいなものがあってこそ・・・と思うわけであって・・・。
明日くらいに、何か色々また拙作、つまり作品関係のアレコレをこの公開日記メインでアップしたいと思いますが、今日はちょっと・・・という感じです・・・。何か、ガラの悪い連中が絡んできそうだったんで・・・こういう時に限って、『ハピかわ』の重要性を痛感するよなぁ・・・都合がいいけど(笑)だからこそ、何で女児だけが印象をよくする努力をしなければいけないのか・・・そういう疑問もあってだな・・・。はっきりいえば、いい歳して下品でガサツな振る舞いをするのは女性も同じであって、俺も実話系雑誌とか読んだりするから、人の事はいえん(汗)でもねぇ・・・今日の事を考えれば、公共でやるのが問題なんですよと・・・。
今回は、こちらの文章で制作中の絵をアップしたいと書いていましたが、約束より一日遅れでアップしますね(汗)この後で書く事と密接に繋げる感じで行きたいので・・・。
で・・・ここから本題に入りたいと思います。何度も修正しなければいけないのは、絵描きとしてまだまだ未熟で劣った部分があるからであり、そこにいい訳を一切したくはありません。努力の結果として完璧にやる人もいますから。ですが、何らかの過程において、失敗って誰しも何回かは経験するんじゃないでしょうか?
失敗という事で・・・以前、『ハピかわ』という児童書(マナー本)についてこことかここでまとまらん事を書いていましたが、まぁ・・・焼き直しという事は多めに見てください(汗)
確かに、身だしなみとかマナーとか、『ハピかわ』では大人でもできていないことをわかりやすく指摘しているし、自分だって要領がいいコミュニケーションが上手な人に度々助けられてきてるので、あの本の内容に文句は付けられないです。過去にちょっと企業案件を頂いた事がありますが、間に立っている人がいなければ、お仕事をさせて頂く事もままならなかったわけだし・・・(汗)
ですが・・・正直、こういう記事とかこういう記事に同意してしまう自分もいる訳で・・・で・・・まぁ・・・『ハピかわ』でも一応失敗のメリットについては書いてあるんですが、一流の営業マンのように、「ナミカゼ立たないコミュニケーション術と綺麗な身なりを習得し、相手にいい印象を与える」という主張の方が勝っており、自分としては子供は(特に学校や地域社会における)人間関係の中で、失敗したり傷ついたりして、あるいは(子供故に)取り返しのつかない代償を払ったりして許されながら勉強していくものじゃなかったんでしょうか?
そこら辺の真実みたいなものが、うさくん先生の『マコちゃん絵日記』という漫画でかなり上手く描かれてたなと・・・。子供だからこそ、完璧な話しあいで円満解決なんてできるわけがなく、時には喧嘩したり、エゴ故に嘘をついてしまったり、『ハピかわ』がベストセラーになっている現状を見ると、こうしたネガティブ要素を漂白するだけでいいのか?とも思ったり・・・。
この記事でも、「引き出しの中身は、成功例ではなく失敗の在庫である」と書かれていたように、いい結果を出すには記事を書いた人の主張通り、成功のパターンではなく失敗の在庫を持っているからです。こういう事は自分のレベルで絶対に書いてはいけないとは思いますが、最初のホワイト修正の話以外でも、作品制作の過程で間違いやズレを修正する事は結構あります。 絵の制作以外でも、企画が落ちた事もありますし、目を離したスキに某イベントで作品を全部盗難された事もあります。そういう「ネガティブ要素」のない生活なんて無い方がおかしいと認識しています。
だからこそ、敢えて書きますが、そういう部分は子供なら尚更で、『ハピかわ』はまず「かわいい女子」という「成功例」ばかりを強調しすぎて、(『ハピかわ』だけではなく、そうしたマナー本に過剰な意味付けを大人達がした上で)子供の失敗すら不寛容になっている今の社会の余裕のなさ・・・を映し出しているのかもしれません・・・。何か、リチャード・カールソン氏の『小さい事にくよくよするな!』シリーズの方が、人間の不完全性をきちんと認識している分、『ハピかわ』より思いやりがあったのではないか・・・そう思います・・・。
それと・・・これってこの文章じゃ蛇足かもしれませんが、『ハピかわ』のように「相手に感情的な負担をかけない、要領よくレスポンスができて明るい印象を与える努力」という日向の世渡りばかり重要視するコミュニケーション術って、本当にいい事なんでしょうか?そうじゃない事は「社不」とか「コミュ障」とかいって排他するような風潮がありますが、世の中にはこうした記事が指摘しているように、(青木 和雄氏の『ハードル:真実と勇気の間で』でも同じような主張はされてましたね)他者と向きあう際に戦って傷ついてでも、自分の正しさを通さなければならないコミュニケーション術も必要悪だと私は思う訳で、トータルしてみれば、みんな都合の良くない部分から目を背けすぎていないか・・・?それを子供にまで適用してると、どっかでしっぺ返しがくるんじゃないか・・・?何かそういう懸念があるんですよね・・・。
まぁ・・・はっきり書くけど、「社不」とか「コミュ障(コミュ症)」という言葉も、裏を返せば相手が本気で向き合い始めた時に、怖がって逃げてしまう弱さの正当化ではないか・・・そう思います。こうした矮小化も社会に蔓延していますが、どっかでしっぺ返しが来るんじゃないかと・・・。俺の不器用が正しいなんていうつもりは、毛頭ないけど(笑)
ちょっと・・・体調の関係で・・・昨日、今日くらいに制作中の絵をアップするというのは・・・ちょっと保留にさせてください・・・私のひ弱さが原因なんですが・・・(汗)
で、代わりに、「ベクトロン」というシーメンスが製造している電気機関車について、つらつら書いていこうかと思います・・・。ここに外観の画像があるんですが・・・まるで、日本の名機であるEF66を今風にアレンジしたような感じじゃないですか・・・?特にヘッドライト内側にある、ラジエーターグリルのように縦に並ぶラインを見てから、そう思ったんですが・・・。
で・・・逆にこちらを見て欲しいのですが、レンフェ(スペイン国鉄)251形電気機関車というのものが日本から輸出されており、同じ三菱重工製という事で、EF66そっくりのデザインです。何か不思議な巡りあわせだなと思いました・・・。
それから・・・まぁ・・・ちょっと話を変えますが、某Youtuberが福島大に対してやった事・・・あれは本当に当然の反応を食らったと思います。何か、私が赤瀬川 源平氏の「超芸術トマソン」の原爆タイプという定義について、ずっと感じていた事だし、ここでもちょっと長めに書いています・・・。
何か、『みい山』と同じように、こういう記事やこういう記事 みたいに、茶化しちゃいけない事を、日本のポップカルチャーがずっと茶化し続けてきたツケが今跳ね返ってきてるんじゃないか・・・そういう感じがします・・・。
あのYoutuberに限っていえば、俺の出身大学もBF判定食らってる事を呑んでいうけど、広島が長崎と共に原爆投下という消えない琴線を抱えてるのと同じで、東日本大震災以降、(津波に限っていえば、岩手や宮城、茨城も同じですが)福島県がどんなデリケートな琴線を抱えていて、どういう反応をすればいいかの正しさ位、小学生でも理解しているのに・・・と思います・・・。
最近でも、いわきから父親を残して、広島の方(海田の方です。私もそこで10年位前にプラカード持ちのバイトを数日間やってました)に母子避難した小学生が、地元の小学校で教師になったというニュースサイトの記事を見たばっかりなんで・・・何か自分が蹴られるような感じがしたんですよ・・・安っぽい同一化ですが・・・。 でも・・・記事内の動画で小学生が先生の言葉に涙する一方、大の大人が、「福島大には触らせたくない」という差はどっから生まれるのかと・・・同じ大人として、頭を下げて詫びたい気持ちです・・・。
最近、制作している絵のグレー部分が濃すぎたので、僅かにチタニウムホワイトを上乗せして、誤魔化しちゃいました・・・(笑)いけんですね、最初からちゃんとやっとけよって話なのに・・・。
それと・・・同じ色にちょっとだけアンブリーチドチタニウム を混ぜて修正したんですが・・・これは後で色を塗るんで、多少ムラが出ても大丈夫だという判断で、半ばアバウトにやってます・・・。でも、一応売り物を作っているという前提なんで、全部行き当たりばったりという訳じゃないです・・・ 念のために・・・。
で・・・明日くらいに、制作中の絵をアップしたいと思います。完成品はともかく、制作中の絵ってなんか恥ずかしいんであんまりアップしてないんですが、話したい内容とリンクしてくるんでどうしても・・・という感じです・・・。
『ハピかわ』がまたフラッシュバックしてるし、本棚に一応あるんでね・・・。
本当にデフォルトで「清く正しく美しく、そしてストレスのかからないコミュニケーション」のテクニックを子供にまで求める事が美談なのか、また話したいというか・・・。
今回は・・・鉄道警察寄りの話題になりますが・・・といっても現実の、痴漢や暴力事件を取り締まる鉄道警察の方じゃないので、自分がホント嫌な存在に堕す事を自覚して書きますね・・・。
この文章で、みずの 瑞紀氏の児童書『僕らのヘリオトロピズム』の感想を書きました。で、川島 誠氏の『電話がなっている』と併せて、「やっぱりタブー破りの優越より、こういう事は『僕らのヘリオトロピズム』みたいに真面目に扱うべきでしょ?」みたいな話を、長々と書いたなと・・・。お気持ち表明とでもいうか・・・。
ですが・・・ちょっと引っかかる事があったんです・・・本作が真面目な姿勢だからこそ、よかった故に・・・。
で、琥珀が襲われる事件があったあと、琥珀と直人が線路沿いの道を歩くシーンがあります。そこで、「線路を一台の電車がゴーッと通り過ぎていった。二駅を通過する特急だ。」(84P)という文章があります。それから、電車は「台」としてカウントされているわけですが、主人公の生活圏内や特急レベルの優等列車が走っている事を考えると、本来は8両とか10両位の車両がムカデのように繋がっているはずなので、「1本」としてカウントした方が・・・と脊髄反射で思ってしまいました。
一台というと、こういう車両とかこういう車両を、つい想像してしまったもので・・・。
すみません、あんな話に、こんな野暮なツッコミを入れるなんて・・・。でも、ちょっと気になっていたものですから・・・。
まぁ・・・私もこの文章で告白しているように、今まで「尤も」と「最も」を混同して使いよったから、お互い様かも知れません(汗)
―自分がちょっとふざけたいからといって、野放図に人を傷つけていいわけがないんです。
ロマン優光氏『90年代サブカルの呪い』より
―強姦ってのは その後も精神を繰り返し犯す 心の殺人だからな
一方 加害者のお前は 今の今まで俺に言われなきゃ 思い出しもしねえ
正真正銘のクズだ
原作:石井 光太氏 作画:今野 涼先生『鬼畜の街』より
みずの 瑞紀氏の児童書『僕らのヘリオトロピズム』を読みました。
まぁ・・・今日は前の文章とは違って2回更新になっちゃいますが、約束通り、川島 誠氏の『電話がなっている』と絡めて書いていこうかね・・・と思います・・・。当然、性質が違うし、どっちかといや後者は児童書という性質上、かなり私はネガティブに見ています。こことかここでも「いっちょ噛み」はしてるわけだしな・・・。
で、最初に書いておきますが、『とにかくさけんでにげるんだ』とか、『いいタッチわるいタッチ』 といった絵本、そして、『アナザーヴィーナス』という児童書が大人から子供への性暴力を告発・対策法を表明してきたように、『僕らのヘリオトロピズム』もその流れを汲んだ作品です。尤も、『アナザーヴィーナス』は青木 和雄氏の監修で、吉富 多美氏が執筆したものですが、正直、加害者に優しい結末を用意するような展開より、『僕らのヘリオトロピズム』の方がきちんと被害者と性加害のリアルが描けていると思いました。
で、『僕らのヘリオトロピズム』のストーリーですが、直人という少年が小学生時代にサマーキャンプでボランティアの青年から性加害を受けたという闇を抱えている所から、物語が始まります。で、直人は塾帰りにクラスメートであり、同じ塾に通うようになった女子の琥珀が、同じく男性に襲われているのを目撃してしまいます。
そういう目に遭っていなければ、単純に「じゃあ、警察にいやぁいいじゃん」でしょうが、性暴力は(語弊を恐れずに書けば)その性質上、みんながみんな同情や憐憫の目で見てくれるわけではありません。 それらを軽く見るつもりは絶対にないですが、殺人や傷害以上に、被害者も好奇の目で食い荒らされる事になります。だからこそ、簡単に告発できないジレンマに直人は直面していきます。男性から男性からの性暴力に、一体世間がどんな反応をするのかという事も加えて。自分もそれはわかるような気がします。「ゲイヴン」とか「真夏の夜の淫夢」とかいったネットスラングが流通しているように、特にそういう事が歪めて茶化される確率って、かなり多い気がしますから。
で、ストーリーが進むにつれ、実際の事件を明らかに参考にしたと思しき、漫画家の性加害事件が発生します。 それは、直人が愛読していた漫画の作者で・・・。すみません・・・私は『モリのアサガオ2』を買ってるんで、同罪かもしれん・・・。これから書く事を考えれば、矛盾の極み・・・。
はっきりいえば、戦争(例えば、イスラエルのガザ虐殺やロシアのウクライナ侵攻など)や東日本大震災を題材にした話より、こうした問題を扱った児童書は、例えそのスタンスが真面目であったとしても、かなり人を選ぶし、もしかすれば必要以上に読者がダメージを受けるリスクがかなりあると思います。だって、身近にいる人が最悪な形で自分に牙をむくという苛烈さはともかく、そういう目に遭った人が読むと、重大なセカンドレイプになる可能性も、否定はできませんから。
だからこそ、この『僕らのヘリオトロピズム』は全くもって常識的で当たり前の事しか書かれていません。一番弱い立場の子供を性の捌け口にするような大人は唾棄すべき外道であり、裁きを受けるべき存在である事、その犠牲になった子供達が、守られなければいけないのは当然の事、だからこそ、他者のセクシャルな部分を安易に口にしてはいけない事などです・・・。
それは、最初に書いた、川島 誠氏の『電話がなっている』の実験的タブー破りや、そういう作品を子供に勧めてダークヒーローぶろうとする、無責任な児童文学愛好家の態度(場違いかもしれませんが、現実における被害と加害の関係の「美味い部分」ばかり相対化して持て囃した人たちは、コミックLO編集部の爪の垢でも煎じて飲んだ方がいいと思います)より、遥かに優先されるべきものであり、みずの氏のようなテーマを選んだ大人達には、例え合意があっても、子供同士のキスやHだって、肉体や精神の発達段階や責任能力を考えた上で、絶対に許されないという拳にもなって欲しいと思います。
『僕らのヘリオトロピズム』は、合意のない性行為を扱っていたので・・・。
まぁ・・・最近書こうかとは思っていましたけど、この公開日記や、自作小説内で、「尤も」と「最も」を混同して書いていたんですね・・・漢字については、恥ずかしながら自信があったので・・・もう・・・という感じです(汗)修正したいが、この公開日記の文章はやりません・・・なんせもう投稿の数が膨大なんで・・・。間違いを見つけたらどうか笑ってやってください・・・。
で、今日ちょっと、ロマン優光氏の『90年代サブカルの呪い』という本を読みました。
自分自身、あの辺りに精通しているかといえばちょっと自信はないですが、何か知らず知らずの内に、逆張り的な表現が加害にシフトしていくみたいなのって、サブカルじゃないんですけど、川島 誠氏の『電話がなっている』はともかく、あの表現を持て囃す大人達を思い出しました。まぁ・・・『90年代サブカルの呪い』でも背徳をただ楽しむだけではなく、何か他者への加害行為すら武勇伝として美化するような当時の風潮に「でも、やっぱりどうなんかね?ああいうのって面白いんかもしれんけど、傷つく人っていたじゃない?」 という感じの言及がなされていましたが、某読書日記はともかく、ああいうもの(つまり、『電話がなっている』みたいな、際どい文学的実験)を子供に読ませて悪趣味ぶって面白がるような風潮に、そういうのを感じます。
自分だってそういうゲスい部分があるから自戒として書きますが、児童書や絵本にオタクが群がり、エルサゲートの提供者みたいに振る舞うのは結構見苦しいなと・・・。
これについては、みずの 瑞記氏の『僕らのヘリオトロピズム』を読んだ事と併せて、後日位に書いていきたいと思いますが、上に書いたように、子供をダシにしたチキンレースみたいなものへの、私もお気持ちも表明しておきたいという感じがせんでもない・・・。
ていうか、『電話がなっている』にはこの公開日記で数度批判的な感想書いたけど、タイミングが合えば2つくらいリンクは貼りたいです・・・。
最近、『みい山』のヤンマガ編集部炎上に関して、うなずける記事を見ました。
ヤンマガ・・・高校の時に、よく押切 蓮介先生の『でろでろ』とか押見 修造先生の『ユウタイノヴァ』とかいった作品を読みよったな・・・と思います・・・。
で、同じ執筆者さんが・・・こういう記事も書いていたので、「やっぱり・・・」という思いでした。
で、本題に入りますが、特に初めのリンク先の記事は、編集者への発言に対して、一定の批判意識は持ちながらも、「顔と名前の見える編集者個人に対しては匿名で人格攻撃を行う投稿も見られたことには、私は強い違和感を覚えた。これ・・・私が一番ドキッとした上に、強く共感した部分なんですよね・・・。だって、記事が指摘している通り、学歴や顔も出ている状況で、「いっちょ噛み」している俺達はプライベートな事死守してるじゃん・・・。アイコンの陰に隠れてね・・・。
実際、『みい山』の作者である亜月 ねね先生の過去作品どころか、(真偽不明であり、今の問題とはほぼ場違いの)プライベートまで暴露されてる状況ですが、本人特定している人達、ネットに本名と住所書け!本職も書け!ついでに顔も出せ!っていわれたら、する勇気あるんでしょうか・・・?自分は好き勝手に晒しながら、匿名のぬるま湯に守られている事の非対称性は、もっと論じられるべきだなと・・・。それに、自分が容姿とか学歴とか揶揄されて、いい気分がするんかね?とも・・・。ここら辺、単に躓いた人間が破滅するのを面白がる人間が沢山寄って来るから厄介ですね・・・とも・・・。何かロシア人をいじめただけで義勇兵ぶってる人を見てる感じです・・・。
ですが、自分だって、この文章 とかこの文章で『みい山』にお気持ち表明している訳ですが、あの手のリンチに手を出さないからといって無罪である訳ではなく、こうやって個人情報に一定のプロテクトがかかった状況でコメンテーターごっこをしょっちゅうやっているので、同じ穴のムジナである・・・という自覚は持っていきたいです・・・。ここまで来ればさすがに亜月先生の方に肩入れしたくはなりますが、急な鞍替えというのもダサいと思うので・・・。
だって、『みい山』は正直面白い部分もあり、好きなキャラ(特にモモとそのSっ気)もいるけど、その分商業ベースに乗せるべきじゃなかったし、だからこそアニメ化には反対というスタンスで、今もそれは変わってないので・・・。
「あついのー」の対になる言葉は、「さむいのー」だと思いますが、どっちで健康を害する方がマシか、ちょっと考えてるというか・・・。
そういえば、最近激辛のカツカレーを食べました。(ココイチみたいな所じゃなかったので)店主さんが「辛いけどいい?」と私が頼む際にいいましたが、私は「いいですよ」と答えました。で・・・予想通りでした・・・辛さが・・・。
もう額から汗がかなり出て、スプーン一杯ごとに水を飲む・・・そんな感じでした・・・。何か、角野 栄子氏の児童書で『おばけのアッチ』 シリーズがあるじゃないですか・・・で・・・余りの辛さに鬼の形相になってしまうというカレーが出てきたと思いますが、正にそれを思い出したというか・・・。
ですが、いい経験になりました(笑)
中松 まるは氏の児童書『ロボット、被災地へ行く』を読みました。
この作品は、舞台としてかなり重要な事を論じていると思います。
大体、被災地と聞くと(情けない事に、私も一瞬そう思っていました)東日本大震災を舞台にした話を連想してしまいますが、本作が題材としているのは2024年に発生した能登半島地震です。 東日本大震災は関東大震災と同じようにその犠牲者数や被害規模、重大な原発事故の発生などから、「普通の災害」と比べると現在でも多くのプロンプトが投げかけられており、原発事故や津波の被災者というプロンプトに答えを振り絞る事が社会のニーズと完璧にマッチするので、結果としてそっちが優先されるケースがかなりあるでしょう。それは日本国民全体の問題として波及したのだから、当たり前といえば当たり前の話なんです。
だから、結果として3月11日を(9月1日と同等に)災害の典型として向き合う事が、災害系の創作では定着している感がありますが、そうじゃない事は都合よく社会の無意識や創作の中で漂白、あるいは何でも東日本大震災の被害に吸収・統合されてしまう部分はあるんじゃないかと思います。2016年に発生した熊本地震から10年経った時、そのタイミングで「私はあの地震から10年経って、ようやく答えをだそうと思いました」みたいな事を悩みながら表明し、創作として吐き出したい位ショックを受けたクリエイターがどれほどいたんでしょうか?何かそのあたりにおける文化的な意味付けにも、正直居心地の悪さを感じる自分がいて・・・。
という事で、いささか前置きが長くなりましたが、『ロボット、被災地へ行く」ではこの手のわかりやすさをある程度拒絶しながら、災害における問題点や善意の葛藤を描いている所がいいと思いました。
小学5年生の少年、悠真は父親からプレゼントとして貰った、ペット見守りロボットの使い道を考えていました。
そんな中、能登半島地震が発生。児童書故にそこまで鬼気迫る書き方ではないですが、怒号のようなアナウンサーの声や、焼け野原となった市街地の描写には、かなり生々しさがありました。逆をいえば、あの元日における混乱や被害の状況を、中松氏がきちんと押さえていたからだと思います。
話を戻しますが、そこで悠真はロボットを能登半島地震の被災地で何とか役に立てようと思い、ロボットを石川に送る事を思いつきます。ですが、みんなが好意で迎えてくれるわけではなく、悠真はロボットごときに何ができるかという被災者の厳しい目に晒される事になります。へこたれそうになる悠真ですが、改めて努力するうちに、ロボットが持つ可能性を再認識するようになり・・・という感じです。
本作は能登半島地震そのものだけではなく、そこから被災者が抱えるジレンマ(「頑張っている被災者」という過剰な英雄視の裏にある、複雑な感情)や、今では全く報道されなくなっても、コロナ感染はある程度現在進行形である状況などが書かれていますが、最初にも書いた通り、テーマに対して読者と作家の合意形成が得やすい東日本大震災ではなく、能登半島地震をベースにして語っている所が、一番重要な所だと思います。更に、ただ能登半島地震ではなく、悠真が直面した現実を東日本大震災が孕む問題(間違った支援や野次馬)に話を繋げている所が、災害系の児童書として、非常に抜かりが無いと感じました。
だからこそ、語弊を恐れずに書けば、東日本大震災はその規模と内容故に、日本社会全体の命題による伝承と問題提起として選定されるケースが多いです、それだけ重要だからこそ、東日本大震災を物語の典型例として終始させるのではなく、他の問題にもしっかり目を向けているのが、『ロボット、被災地へ行く』の魅力だと思うんですよね・・・。
最近、千葉 侑生先生の『幼稚園WARS』という漫画を読みました。
やっぱり…一言でいうと「面白い!!」です。内容が・・・。
何かハリウッドセレブやコングロマリット経営者の御曹司が通う、ブラック幼稚園という 幼稚園があるんですね。で、そこには園児の立場上、彼らの命を狙う殺し屋や誘拐しようとする不届き者が度々寄り付き、多くの教員達が命を落としていました。なので、政府は毒を以て毒を制すを地で行くやり方として、殺し屋や服役囚等に戦闘訓練を科した上で、一年間教員として勤め、園児達を守り抜けば無罪放免にするシステムを作り上げました。
凄腕の殺し屋だったリタもその一人で、日々子供を狙う敵から死闘を繰り広げる中、同僚と恋や園児達の交流を重ねていく・・・そんな話です。
私が『幼稚園WARS』が心底いい漫画だと感じたのは、殺伐とした殺し合いの中で、それがただ不快にならないよう、大袈裟すぎる世界設定やラブコメ要素を入れて、読者を安心させる技量が本当に大きい事です。更に、エンタメとしてのアクション性にも抜かりが無く、敵もあの手この手の方法を駆使して、リタたちがどう園児達を守り抜くのかというエンタメ性を見事に彩ってくれています。
で、この辺りの荒唐無稽さが、現実におけるセンシティブな部分との関係性を見事に断っており、「ハラハラドキドキの絵空事」としてしっかり機能している事が、一番すごいと思ったんです。
実際、戦争や事件では、初等教育機関(及び中等教育機関)やそこに通う子供が標的にされる事があり、もし一歩間違えれば、『幼稚園WARS』はその極めてセンシティブな分野を刺激していたかもしれません。ですが、大仰なアクションやセリフ回し、ギャグ要素や非現実的な舞台設定を多用する事で、「子供が狙われ、殺される」という社会の琴線から徹底的に作品の性質が隔離されているのも、この作品が持っている利点の一部ではないか・・・そう感じています。
そこを間違えれば、いたずらに当事者を傷つけ、誤った認識を読者に植え付けてしまい、結果としてこういう事(つまり、全く関係ない所で弱者のセカンドレイプを助長して知らんぷり)になるわけであって・・・。
最近、何か「社会人」とか、「社会人経験が無い」っていう言葉をX上で何度か聞いたんですが、替えが効いて低賃金、キツい単純作業ってやっぱああなの・・・?みたいな感じが正直せんでもなかったんですよ・・・。そういう人達で社会はまわってるし、だからこそ、私だって短時間のバイトでヌクヌクやれてるのはわかりますが、何か「社会人」という言葉って、引っかかるものがあるというか・・・。
確かにスーツを着て会社に務めんと不利な事って一定数あるのは事実ですが、(オフィスに務める)サラリーマンとOLだけが労働の典型みたいな考えって、例え正規雇用である他の職種だったり、非正規雇用を知らず知らずの内に疎外してるんじゃないか・・・そういう考えがあります。
実際には働いていて、その姿をいろんな場所で見るのに、「社会人」という区分けみたいなものをされているのって、生きていても死んでるとみなされてるゾンビみたいだよな・・・という思いがあり、拙作を描いたというか・・・。
いやぁ・・・ゾンビという言葉を一番最後に使ったせいか、回りくどくなっちゃいましたね・・・拙作の説明が・・・。ちなみに、ゾンビは社会福祉士です・・・。
最近、法務省がリアリティ番組「ラヴ上等!」というリアリティ番組とコラボしたポスターを制作、ですが、「人に火をつけた事がある」という番組内の発言に目をつけられて炎上し、たった16日間で法務省はコラボを取り下げたという話ですが、私は思わず、かつて存在した奈良少年刑務所の受刑者が涵養プログラムの一環として詩を書き、作家の寮 美千子氏が編集した『空が青いから白を選んだのです』という詩集でした。
実際、私はネトフリ(何か露悪寄りという批判を多く聞くのも相まって)に登録しておらず、正直「ラヴ上等!」についてもnoteの言及で知った程度です。よって、番組自体を観てもないのにお気持ちでこの分野を語るのもどうかと思いますが、『空が青いから白を選んだのです』でも、薬物使用や虐待、貧困などの凄まじい経験が(詩ゆえに)簡潔で抒情的な文章の中に根付いています。
寮氏も、受刑者によってはレイプや殺人を犯した人間がいる事を、はっきり解説で書いています。正直、私も二次創作という著作権違反をやっている身で、自分の事を棚に上げながら(汗)「もういい加減そういうのを苦労のリソースとして語るなよ・・・」という苛立ちを持っていたのは確かです。実際、報われないという立場で見ると、きちんと社会に馴致され、罪も犯さず真面目に生きているアマチュア詩人の方が尊いだろ・・・そんな思いも頭を何度かよぎりました。
ですが、やっぱり法務省のコラボと決定的に違うのは、彼らの告解に「エンタメ性」を入れていなかったという事だと思います。受刑者たちが詩の中で、いくら自らの生い立ちを言葉にしても、『空が青いから白を選んだのです』では彼らのバックグラウンドについて重みだけが残るように設計されており、安易な赦しも武勇伝として機能する余地も、作品は全く与えていません。
そして、「ケーキが切れない非行少年」とか「教育困難校」 といった、スラムツーリズム的な目線で弱者をカネにする興味本位も、『空が青いから白を選んだのです』はちゃんと拒絶しています。
この記事が指摘している通り、「更生とは「映えない努力」の積み重ねじゃないのか。」という言葉通りだと思います。
その辺りにおける真面目な姿勢を、『空が青いから白を選んだのです』ではキッチリ貫徹していると感じたんですよね・・・。そういう所から出てくる刺激で釣るといった要素も全くないし・・・。
まぁ・・・、自分だって、レイプされた人や被害者遺族の気持ちはどうなんだよ?という疑問はあったけど、それがメインテーマじゃないわけだし・・・。
まぁ・・・何か法務省もコラボする相手を間違えてしまったようだし、コラボするにしても、もう少しシリアスで地味なスタンスのメディアを選ぶべきだったのでは・・・と思います・・・。
ニケ氏のノベルゲーム「キミが消えてしまう前に」をプレイしました。
ゲームの主人公は、とある事情で通っていた高校を転入する事になった、アキトという名前の少年です。早速転入先の高校へと登校したものの、何故か闇夜に包まれた廃校に迷い込んでしまい、しかもそこには未練を抱えた少女の幽霊達が棲み着いていました。そして、幽霊の一人である少女のナノから、アキトは彼女達のの成仏をサポートする事を頼まれますが・・・。
この作品は、トゥルーエンドまで辿り着いた上で感想を書かせて頂きますが、「真っ当さ」がストーリーを支えていると思いました。 今日、創作において世の中の理不尽さや不条理さをただ強調し、そこに対する正義や問題提起が必ずしも作用しない事を逆手に取り、「事実」と称して根無し草のような傍観を好む風潮があると感じています。
ですが、「キミが消えてしまう前に」は善人が報われない事を「正しさ」や「現実」といった言葉で矮小化して思考放棄していません。社会や他者に対して良き作用をもたらそうとと努力する事は、例え世の中を完全に改善する事はできなくとも、正義や良識を持つ事自体が報酬(これは、山本 弘氏の『神は沈黙せず』でも書かれていましたね)であるし、 相手に死んでほしくないと思わせるぐらい愛される、重要な作用だってあるはずです。だから・・・私は何か、フランク・キャプラ氏が監督した「素晴らしき哉、人生!」とか「オペラハット」とかいった映画を思い出したんですが・・・。
そして・・・特に登場キャラクターの一人である、ホネくんを演じられた声優の、エンジェル有林プリンシパリティ氏の演技は、すごく上手かったです。ホネくんの陽気さを、無駄に声を張る事なく、絶妙な声の据わり具合で表現されていたので、そのキャラクター性にグイグイと引っ込まれました。すみません・・・これは他の声優さんがダメって事じゃなく、イロハも結構好みだったりします・・・。ああいう芯の通った大人性のあるキャラクターと、あと髪の長いキャラが好みだったりするので・・・。
ここまでいろいろ書いちゃいましたが、ちょっと以下では本作で引っかかる事が正直あったので、敢えて書きたいと思います・・・。
(修正日は8月24日です:時代考証で、2010年以前にスマホやLINEは普及していないという趣旨の事を書きましたが、キャラクターの年齢を再確認し、こちら側が間違っていた事に気づき、当該文章は削除しました。ニケ氏には、こちら側の怠慢で誤解を招くような文章を載せた事を、心から謝罪いたします)
そして・・・もっと重要だと思ったのは、「あの辺り」における描写です。「あの辺り」に対する苦悩、それから当事者に対する悪意や差別意識は、単なるいじめではなく、これまでの歴史的背景や社会の構造という深刻かつ複雑な背景が積み上げられており、「あの辺り」を加害と被害の関係として表現するのなら、現実性に基づいたストーリー展開やキャラクター造形が「線」としてある程度は欲しいと感じました。
だからこそ、本作では「あの辺り」に基づく悲劇が、ライト寄りの萌えみたいな「点」からの想像でしか機能していない所は否めない・・・と正直思いました・・・。
着眼点が着眼点だけに・・・ちょっとかなり感じる部分があったので・・・。
何か、キックボクシングの大会で金髪少年が、表彰式で優勝者にやったあの動画ですが・・・。
あれ・・・自分だって礼儀正しく学力ある10代を過ごせたとは、到底いえないわけですが、今、ちょっと地続きなんじゃないかな~という光景をちょくちょく目にしていて・・・。
何か地元に住んでるような子がショッピングモールで走り回り、エレベーターにも飛びこんだりして、書店内で「ウンコ行きて~」みたいな言葉を連発してるのを見て、親は何をしてんだろ・・・みたいな考えがぼんやりと浮かんだんですよね・・・。 何か嫌悪感溢れるヤンキー仕草というか・・・。
まぁ・・・ベルト返上っていうのも・・・色々考えてしまうというか・・・。
でも、「リスペクトのない選手とはやらせません」っていう決断は、いいと思いますよ・・・子供はともかく、業界の民度を守るためにも・・・。
こういうの・・・イラスト界隈でも、アート界隈でもかなりおるからな・・・。
自分も気をつけないと・・・。
まぁ・・・山陰というのは、関西や九州へ行くのと比べ、結構時間がかかるんですよね・・・。新幹線とは違い、特急で山地をトンネルでぶち抜き、あるいは避けるような線形を走っていくので・・・。
というわけで、鳥取県立美術館で開催されていた、谷口ジロー先生の展覧会にお邪魔してきました。『孤独のグルメ』を読んでいたので、それ目的です・・・。水沢 悦子先生の『花のズボラ飯』繫がりで知ったんですよ・・・あの作品は・・・。
やっぱり、あの「人間火力発電所」からボルボ850のエンジン始動に繋がるシーンは、マジで痺れます。あのエンジンの描きこみ・・・俺には真似できん(汗)あのシーンを見られたんでホント感慨深かったです・・・。
で・・・ボルボ850ですが・・・あれね・・・あんまし変な印象持たれたくないからずっといってませんでしたが、親戚が持ってました・・・紺色のやつを・・・エステートじゃなくセダンタイプを・・・。
そろそろ制作に取り掛からなければ・・・と思います・・・お盆シーズンである分、仕事が量としてのしかかってきてたので・・・。
ところで、懸垂式モノレールって、保存が普通の鉄道車両より難しいな・・・と感じます。
「ポッポの丘」に行ったからわかるんですが、やっぱり車輪が天井部分にあるので、それをどうするか・・・という話ですよね・・・と・・・。
今日は長楽寺方面に行って・・・やっぱりあそこら辺は、可部方面と同じように交通費が高くなるね・・・約500円位か・・・。
時間もかかるし・・・。
そういや『ちいかわ』の映画版・・・機会があったら観ようかと思います・・・。周りの反応から、こっちとの相性は悪いと思うけど・・・。
最近、興味深い記事を読みました。まぁ・・・『みい山』に批判的でありながら、そのアニメ化については慎重にディスタンスを取った上で、肯定を下していますが、これがただの左派叩きや反差別への逆ギレ(所謂、「表現の自由戦士」的な)みたいな罵倒になっていないのがよかったです。反対派の存在を尊重し、国旗損壊罪を支持した上で「表現の自由」が語られるからこそ、その理念を誰よりも理解した、重たい意志表明だと私は認識しました。
ですが・・・これは「不快だから止めろ」という話じゃないです。こちらの記事が指摘するように、『みい山』はそういう表現を基本的人権とか公共の福祉とかが優先されるような状況に出した結果、売った喧嘩が結果として買われているという、当たり前の状況ではないかと思うんです。
で、2つ目のリンク先の記事の話ですが、シゲオは何とか助かる(日常生活に戻る)けど、ツバサが淫獣モンスターとして描かれる方が問題であり、ミサンドリー的な男性描写(シゲオやマオくん、みいちゃんを暴行したチンピラとかが醜く描かれる)より重大なものだと思います。実際にそこら辺から、記事の指摘通り旧優生保護法の礼賛や植松被告のヒーロー視はかなり見ましたし・・・。
まぁ・・・なんでそういうのがいけんかといっても、いくらでも屁理屈は現れる訳ですが、誰だって年老いると病院や福祉の世話になるわけだし、いつどこかで障害者になったり、もしくは障害児を出産してしまったり・・・という状況になるかもしれない。そんな時に、自分を粗雑に扱うような漫画で現実をわかった気になり、ドヤ顔で社会の害悪かどうかを前提に論じられたら、どういう気持ちになるか・・・?という話であって・・・。
それと、第二次世界大戦時のミュンスターにある教会の司教、クレーメンス・アウグスト・フォン・ガーレンは(障害者について死や断種措置を望むという事は、勿論こういう史実も知ってるという前提で話を進めます)ナチスのT4作戦について、こう説教しています。
「(前略)すなわち、われわれが年をとり、非生産的になれば、だれもが命を危険にさらされるということなのです」(引用元:エリザベート・ツェラー『アントン:-命の重さ―』164Pより)
だからこそ、『みい山』への賛同意見は、結果として自分の首を間接的に絞めている事に繋がっていると思うんですよ・・・。それでいて、自分だけ人権を保障されて助かりたいと思っているのなら、民主主義の理念にタダ乗りしてるだけであって・・・。
そういう部分から、あんなコンテンツは予め基本的人権や公共の福祉が作用しない事を前提(要するに閲覧のハードルが高い)とした、暗い場所で公開すべきだったんじゃないかと・・・。実話系雑誌とか、成人向けコンテンツとか、提供者も受け手も、「なぜ差別やヘイトを表に出してはいけないのか」がお互いに分かった上で楽しむようなプラットフォームであれば・・・と・・・。
今日は満員の為、某所に入れませんでした。仕方なく、ケンタッキーで昼食を・・・という感じです・・・。
そういえば、そばをすするかすすらんかの話(『りゅうとあまがみ』の2巻でもありましたね)ですが、自分は気になりませんけど、スパゲッティですすってたら流石に「おいおい・・・」となります・・・。
Stable Dffusionを動かすために、必要なハード環境を到底そろえる事ができないので、ここでは、GeminiとGrokをメインに使ってみて、それなりにわかった事を書いていきたいと思います。
まず、大前提としてGrokはやや緩めですが、両者とも露骨なエロとロリ(未成年系の性描写)は言語道断で、残虐な内容の絵(例えば人体切断・凶器の保持など)も生成できません。これ・・・私が積極的にそういうプロンプトを入力しようとしたという意味じゃないですよ(汗)で、Geminiでプロンプトを入力し続けると、イラストが作成されるうちに線がガサガサになり、着色も溶けたようになってしまいます。
絵を売るには「絵柄」とか(これは、私みたいに下手という言い訳で機能しやすいですが)「個性」とかいった信用もついてまわるし、AIイラストってそこら辺が苦手だと思うんですよ。「可愛らしい」とか「萌え系」といっても、均一化されやすいですし。
最近でも熊本の地震におけるピース写真のように、著作権問題やモラル面でも白い目で見られやすいAIイラストが、商業の土壌に上がるかといえば個人的にそうでもない気が・・・。
なら、自分で描いた方が早いじゃん・・・という風になり、ああいうのはあくまでも遊び程度で・・・という結論になりましたが(課金もしてないザマなんで・・・)、だからといって反AIという立場かといえば・・・そうでもないんですよ・・・。
何か絵が描けない人がAIイラストを制作する事について、前者の人がその能力や才能を誇示するポストをXでちょくちょく目にしますが、ああいうのも何かね~と思います・・・。大体、絵が描けなくて小説が書ける人は、この世にごまんとおるのに・・・。全員が全員、あんびるやすこ氏や岡本 淳氏とは違うし、手描きを必要以上に特別視している徒党性も、何か嫌だな・・・とも・・・。そこら辺言語化できてないんですが、自分も手を出したから余計に感じるのか・・・。
小学生の時に、『ヤンときいろいブルンル』という絵本を買ってもらった事があります。何か、『いやいやバスの3ばんくん』とか『しょうぼうじどうしゃ じぷた』みたいな乗り物絵本かと思っていましたが・・・結構刺さってしまう話でした・・・。
なんか、とある家族にヤンという猫が飼われていました。で、ヤンはその家族が所有している黄色い小型車のブルンル(ズバリ、ワーゲンビートルです)と仲良しでした。ですが、旧型車のブルンルは故障が頻発し始め、堪忍袋の緒が切れた家族はブルンルを手放して、ついに新車を買います。ヤンはブルンルを探すために家から飛び出して、街を彷徨い、ついにブルンルと再会しますが・・・。
(ちょっとネタバレ恐縮ですが)ここに、作者であるやすい すえこ氏のシビアな問いかけがあるように思われました。ブルンルと再会したヤンは、ブルンルとの絆を優先し、結果として飼い猫という守られた生活を蹴ってブルンルに住み着く野良猫になります。これでブルンルが運よく誰かに拾われてレストアされ、ヤンもそのオーナーに飼われるというラストであれば、スカスカの美談になってしまいますが、安易な救いを用意しないラストだからこそ、痛みを理解させる深さと美しさが、『ヤンときいろいブルンル』にあるのだと思います。
ここで、ちょっと話が飛躍するようですが、私は「楽園追放」というアニメを思い出しました。あれだって、アンジェラはフロンティアセッターを助けた代わりに、ディーヴァを敵に回してしまい、(マテリアルボディに意識が閉じ込められたが故に)いつかは死ぬ生活を過酷な地上の世界で(ディンゴと一緒に)送らなければならなくなります。ですが、仁義の為に修羅の道を選ぶという面では、何か『ヤンときいろいブルンル』と共通点があるかな・・・とも・・・。
まぁ・・・「楽園追放」の方が何かラストは前向きだったし、どっちかというと楽しみを優先した作品でしたけど・・・。
(8月12日:ちょっと内容を加筆修正しました)
今日、JRを利用した所、接近メロディーがいつの間にか変わっていて・・・まぁ・・・別にいいですけど・・・。
何か色々とメンドい事が起きてるな・・・と思います・・・ホントに・・・。
ああ、そういや『みい山』みたいな話と実際の障害児にまつわる問題を繋げるのは、それこそあんな作品で現実を理解しようとする「横着」をしているようで嫌ですが、一応なんか腹の底から感じてきたものを出しますね。そこら辺のデカい声でされる障害者語りには思う事は色々ありましたから・・・。
ここからは、障害者やその福祉関係においてデータや学力を加味せず、経験則ありきで書いているので、同じようなスタンスで『みい山』を擁護している層と同罪だという後ろめたさを持ち、敢えて書いていきたいと思います。それで誤解があれば、私も加害者であるという自覚と覚悟を持って・・・。
私が小学生の時です。私より年下で知的障害を持っていましたが、敢えて特殊学級ではなく普通学級に通っている子がいました。その子はすぐ癇癪を起して泣きだしたり、他の子に抱き着いたりしていて、それを他の子達から逆手に取られ、「エイリアン」 とからかわれ、追いかけ回されていました。彼が狙われるのが主に登校中だったので、担任の先生が車でその間パトロールしていたんですが、ここで問いたいのは、パニックを起こしたり、誰彼無しに抱き着こうとする子が悪いのか、それとも、彼を取り囲み「エイリアン」といって囃し立てた子が悪いのか・・・?という話です。
正直にいうとあんな漫画をソースに、障害者や福祉を「わかった気」になるより、そういう事について突き詰めて考えて欲しい・・・そう思っています・・・。
ああ・・・それとこの文章も知的障害者が誰彼無しに抱き着くとか、癇癪が起きやすいみたいな話がしたい訳じゃないです・・・特性は人それぞれですし・・・。だから、「やらん子」もいるという事こそ、「真実」であり、みいちゃんやツバサのようにお店のものを無断で食べたり、教室で奇声を上げる事(そして、保護者も迷惑な存在として描く)「ばかり」を障害者の特性として描いた『みい山』で学ぶと、問題を100%見誤ると思います。
これだって(上にも書いたように)経験則で書いてる危うさはあるし、障害者が直面している現実は、彼らの自己責任じゃなく、健常者とその社会が孕む問題でもある・・・という事がいいたかったんです・・・すみません・・・拙い書き方で・・・。
先日刃物を持った男を警官が発砲し、容疑者が死亡した事件がありましたね?大阪で・・・。で、その警官に対して一方的な礼賛と左派嘲笑が行われていたのを見てから、やっぱり法治主義は民意とは距離を取ったインデペンデントな存在じゃなきゃ・・・と思う訳です・・・。
同時に、私は、宮下 洋一氏の『死刑のある国で生きる』という本がオーバーラップしたんですね。その中の8章で、死刑制度の無いフランスで犯人射殺という死刑が行われているというのを見て、ニュアンスは違うかもしれんけどまさにそうした状況が・・・とも・・・。
そして、警官は公僕であり、その給料は市民の財産です。容疑者の発砲はそのお金で賄われたのであって、納税者が単なる(殺意に基づく)愉悦を叫んでいるのであれば、そこら辺の自覚や責任感の欠落も厳しくチェックしなければ・・・と感じています。まだ不明な部分(或いは、調査中の部分)がある状況で、結果として公権力が武力行使ともいえる状況に発展した事に、脊髄反射で一方的な礼賛を送るのを見て、そうした民意の俗情が法治主義と結託するような状況なんて、社会にとって有害でしかないなとも・・・。
やっぱり「12人の怒れる男」っていう映画でも、差別発言をまくしたてた有罪派の陪審員に、みんながそっぽを向くシーンがあるじゃん・・・。ああいう純度の維持はあっていいんじゃないかと・・・ある程度は・・・。
それと、これは感情論になっちゃいますけど、この記事に概ね同意です。
容疑者が警官に撃たれて死亡した時に、大喜びで礼賛する人は、その銃口が自分に向く事を想定していないし、何か関東大震災の時に現れた自警団みたいだな・・・とも・・・それと、坂上 香氏の『ジャーニー・オブ・ホープ:被害者遺族と死刑囚家族の回復への旅』でも、アメリカの刑務所で死刑執行が行われる時、第3者の賛成派がスポーツ観戦でもするかのように大はしゃぎしよった下りを思い出します・・・今の騒動を見よると・・・。
(8月8日:最後あたりの方に加筆修正しました)
(8月9日:また、最後辺りの文章に加筆しました)
(8月20日:また、最後辺りの文章を加筆修正しました)
まぁ・・・亜月 ねね先生には申し訳ないけど、もうダイアナとかじゃなくて、あんな表現をオモテに出すのはともかく、アニメ化だけは大概にして欲しいと思うんですよ・・・。まぁ・・・別部門の編集者さんの発言と含めて、ネットリンチそのものが目的化しよるのを見ると、何だかなーとは感じますが・・・。一番問題にすべきは知的障害者への差別が作品(内の表現)をステップに拡大している状況で、そういう漫画から更にみんなの目に届くような、アニメ化という手段が行われようとしている事だと思うんで・・・。
大体、編集者さんが東大学院卒だからじゃなくて、問題は天然で人の苦境を面白がるような事をいった発言そのもので、批判に属性とか容姿を持ち出すのはアカンでしょと・・・。それ・・・首相が理事長に便宜を図ったんか図ってないんかみたいな話で、偏差値やレベルをあげつらって、学生や教職員を罵倒していたX民と同じかと・・・。一応、親戚に東大卒の人がおるしなぁ・・・。
ここで、『みい山』に話を戻しますが、 実は、地元の書店(某所の〇伊〇屋書店)の少年漫画コーナーに、『みい山』が並べられたんですよ・・・。ですが、最初にも書いた通り、知的障害者が淫獣(みいちゃんやツバサみたいなキャラクターが)みたいな存在として描かれ、際どいエログロがかなりあるような作品を子供の手に置けるような場所に置くようなやり方に・・・ちょっとどうかねと思ったんですよ・・・。紀〇国〇書店の店員さんに、いおうかいうまいか考えましたが、結局後者を選びました・・・。
アニメ化に反対というのは・・・そういう意味もあって・・・ね・・・。もしあんな作品のアニメの特集記事がニュータイプとかアニメージュで組まれるような未来も、正直来んで欲しい・・・そう思います・・・。
なんで反対しとるんかっていえば、ここでも民意とか表現の自由についての私感を書きまし、正直にいいますが、私もセンシティブな事を粗雑に扱うような表現や、良識に楯突くようなエログロ系の表現は好きです。
ここからは自戒として書きますが、あんな表現を享受しているからこそ、どうして差別やいじめが許されないのかが正しく理解していない人達に、悪趣味な創作物は都合よくできていないわけです。だから、「みいちゃん」が知的障害者を揶揄するスラングとして急成長し、あの(福祉や知的障害者関係について)いい加減な描写が「真実」と祭り上げられて、大ヒットと共に偏見の正当化や助長に繋がっている現状があると思います。
だからこそ、一番人権問題や社会問題の被害者になりやすい人達の人権や尊厳を侵害してしまう形になる(この記事みたいに)という現実があるわけであり、作り手にしろ受け手にしろ、わかっている人達同士が限られた場所で楽しむべきものじゃないのか・・・ああいうのは・・・と思う訳ですよ・・・。
そんなものが表社会で容認されてアニメ化までいくと、このポストが指摘しているように、けじめがない人や無責任な人も簡単にそうしたコンテンツに参入できることを意味していて、人権侵害の助長のみならず、表現の自由全体が更に劣化していく事にならんか・・・という危惧も抱いているんですよ。それと、アニメ化って事は国際社会にもその名をしられるという話であって、もしもの時に結局全ての創作者と受け手が、成人向けだろうと商業だろうとバカを見るという事態にもなりかねんという不安もあって・・・。
それと、亜月 ねね先生の『みい山』における表現手法はともかく、編集部のアニメ化発表の日とかアクスタでの悪乗り、ヤンマガ編集者の発言などに起因する、障害福祉に対する分野の粗雑な姿勢から見ても、企業の社会的責任に照らし合わせ、アニメ化は到底・・・という気分です・・・。
俺だってアレ系のイラスト(まぁ、そっちは趣味としてですが)を別の世界でやってるけど、それが表に出れば性暴力や性犯罪に対して間違った情報を垂れ流してしまう(ちょうど、『みい山』に真実を見出す読者のように)事にもなるし、当事者へのセカンドレイプにも繋がってしまうからな・・・。 何でも表に出せばいいってもんじゃないし・・・。
そして、日本国憲法21条における表現の自由ですが、この記事が指摘しているように、第2項において「検閲は、これをしてはならない。」と書かれている通り、公権力が検閲をしない事を約束しているという話であって、今回のアニメ化批判批判で「表現規制」を持ち出すのは筋違いじゃないかと思います。相手は日本国民なわけですし。
で、『みい山』を擁護する際に必ずいわれる「表現の自由」ですが、リンク先の記事では「君らが守りたいものって広義の表現の自由じゃなくて、表現の自由によって自分たちが得ている既得権益やそれを得ている自分自身ですよね?」と指摘されてましたが、まさに何かあの界隈が孕んでるアレな部分を見事にいい当ててるかと・・・。
何か既得権益とか利益というと、(結構昔の話ですが)都条例騒動で表現者ファーストを持ち出していた漫画家や反対派を思い出しますね・・・ここでは詳しく書かないけど・・・。
更に、自由全般についてですが、日本国憲法第12条では、自由と権利について「濫用してはならない」と書かれていて「公共の福祉のためにこれを利用する」責任もしっかり科されている訳であって、なんか反対派がそういう事(つまりある程度の責任が科されている現実)を出しているかといえば、あんましそうでもないような気も・・・。
まぁ・・・こういう事は昨日書けばよかったんでしょうけど・・・何か、平和記念資料館に子供向けのエリアが新設されるという事ですが、広島市の在住者(ついでに祖父も入市被爆している)としては、OKじゃないかという思いです。これは他の戦災や震災関係にもいえる事ですが、そろそろショッキングな感傷で無理やり背負わせるという教育方針には検討が必要なんじゃないでしょうか?「怖くない資料」を選択するというのは無関心ではなく、それだけ他者への想像力があるとも考えられるし、一律にインパクトを狙い、情動ばかりに訴える教育手段が美談とされている風潮が、じわじわと古典に近づきつつあるのでは・・・とも・・・?
デイヴィッド・ソベルの『足もとの自然から始めよう』という本でも、環境破壊に対する大人の使命感が先行しすぎ、小さな子供に石油流出や山火事などの悲惨な映像を見せる事の弊害が、まっとうな思いやりで書かれていましたし、こうしたポストにも書かれている通り、「ただ鬱になるだけ」が平和教育関連において目的化している部分はあると思います。
私だって、そういうショック療法が今になって役に立っている部分はあります。ですが、 獲得した結果は所詮は生存バイアスだし、教育というのなら、トラウマ的ダメージを与えた結果に対して、アフターケアやリカバリーにかかるコストを都合よく放置するのは無責任だし(そういうのは、スポ根のような根拠の無い精神論と紙一重だとも感じます)、できないのなら子供への配慮という形で展示エリアが新設される事は、甘受すべきだと思うんですよ・・・。
藤原 正彦氏の『国家の品格』ではありませんが、平和教育の結果とメリットを考えるなら、単にショッキングな事実の情緒的な羅列ではなく、全ての教育機関が学年別に行っているように、子供の発達段階や年齢に合わせた資料提供や情報の選択は必要だと感じています・・・。それって、「自分は子供の頃、サーフィンで20メートルもの波を乗り越したので、子供達もそうなるべきだ。もし溺れてもその恐怖は人生の糧になるからいい」っていうのと同じかと・・・。
七都 にい氏の児童書『オレらは絶対だまらない:サイコーな毎日をとりもどせっ!』を読みました。まぁ・・・七都氏の代表作である『ふたごチャレンジ!』シリーズのDNAを引き継いだ問題提起系の話であり、久々のみらい文庫レーベルから出版された作品だったんで、新鮮味がありました・・・。七都氏のイラストといえば、もうしめ子氏の作品を長く見ていた事もあり、ちょっと視覚調整も必要でした(笑)
で、何か小学5年生になったばかりの札元 ダイヤや藤咲 マナカのクラスでは、担任の鷹野先生が考案した、「特別チャレンジ制度」が始まります。勉強や運動などを頑張り、ランキングに入れば特別チャレンジ券を鷹野先生から貰えるという決まりです。
全員が意気揚々と「チャレンジ」に挑む中、ランキングを巡ってクラス内では諍いが起き始め、しかも、成績がよかったりや運動が得意だったりしてもランキング外。しかも、ランキング上位にいる子供達が横暴な振る舞いを見せ始めます。
これは怪しいとダイヤ達は疑い、調査を始めますが、同時に「特別チャレンジ制度」の歪んだ事実が露わになり始め・・・というストーリーですが、私は(ここでも書いていますが)ランキングより、競争に対する私達の態度を問われているような重みがありました。
あらゆることが数値化し、インセンティブが叫ばれる中、鷹野先生がやっていたような事は世の中にあふれています。女子や浪人生だけを入試で不利に扱い、特定の受験生だけを優遇していた東京医大を始めとした医大群、フォルクスワーゲンの排ガス不正問題等、真面目に競争に参加している側からは指弾すべき事が多数あります。私だってズルをしていたかといえば「NO」なんて断言できませんし・・・。
それと、ランキング上にされた子のふるまいのようなものも、私は現実で結構見てる感じがします。自分の例でいえば、東京芸大卒で賞歴もかなりある作家さんがそうでない人を侮辱するような発言をしていたり、自分のキャリアを暴言を吐く形で誇示する作家さんなどなんですが、競争自体が問題なのではなく、そのプロセス(参加する側と主催者)が、それをベースとして運用される社会だからこそ、厳しい公正性と倫理的なものに立っていなければならないという思いが浮かびました。
だからこそ、(ここからはネタバレ恐縮ですが)鷹野先生だけを排除してめでたしにするのはどうかと思いました。これって、R・J・パラシオ氏の『ワンダー』でジュリアンを退学処分で済ませた事で反差別となす事のモヤモヤにも似てるんですよ。社会問題って、「善VS悪」みたいな単純明快なものじゃないです。お互いの行為の作用と責任を問わないと、正義としては片手落ちだと思うんです。
だからこそ、ダイヤ達が正義の味方として鷹野先生を成敗するというのは、社会問題の告発としては薄味に見え、多くの社会派児童書が陥っているワナを辿っているともいえました。これで子供ばかりに鷹野先生を糾弾させるのではなく、フラットな目線で問題を裁き、周りの大人のサポートが入っていれば、更によかったのに・・・と感じます・・・。
ところで、寧ろ、『ふたごチャレンジ!』で露骨な性差別やパワハラをしていた豆田校長が懲戒免職処分にならんのは不自然だなーと思いました。せっかく「ホワイト革命」までやったのに・・・。
(8月5日:一部加筆修正しました)
―そもそも、あの程度のお遊びならネット中にあるじゃねえか!それなのに、どいつも無駄に大騒ぎをして、この俺の経歴に傷をつけようとしやがる!黙っていればいいものをよ!
コナミ「s.l.a.i」より
まぁ・・・一応、レンタルコミックで『みい山』はちょっと読んでみたんですが、はっきりいって、こういう露悪寄りの話はよく実話系雑誌に掲載されているもので、つまり知的障害者とかセックス、夜職みたいなものを、便所の落書き感覚で題材にしたジャンキーな漫画と割り切って読めば、正直面白い部分もありました。モモとかココロみたいなキャバ嬢達の黒い本音とか、不快を煽る演出に依存しない、ギスギスの描き方はすごい上手いなと・・・。
実話ナックルズとか週刊大衆とか・・・正直、時折私も買って読むことがありますし・・・。
ですが・・・やっぱりストーリーの性質が性質故に、『みい山』はメインストリームに出してはいけない作品だったと思います。いくら口先で「差別はいけません」とか「弱い人には同情しましょう」とかいった所で、人権や平等といった社会の建前よりも、民意のリテラシーや意志というのは案外脆く、『みい山』の単行本があっという間に累計発行部数280万部突破しましたが、同時に知的障害者の正しい理解なんて進んだんでしょうか?「学びを得た」なんて人達が、真面目に障害者福祉に向き合うような事がありましたか?
Xあたりを見ればすぐわかると思いますし、その「好意的」な感想が、(知的障害者を揶揄する「みいちゃん」というスラングの定着に併せ)障害者の実態や福祉の現実を、漫画内の表現をソースにして間違った事を平気で書き、あまつさえ当事者の差別や迫害すら容認している以外のものが殆どだったと感じています。
「問題に関心を持つ機会として、ああいう漫画があっていい」という意見もありますが、そういうのは、「クルド人問題に関心を持つきっかけとして、石井 孝明氏や神谷 宗幣氏の活動があってもいい」という話と同じじゃないですか?
この記事を見ても「『みい山』が話題になる事はあっても、これら具体的な障害福祉の問題が真剣に話し合われる事はない。」と書かれています。そりゃそうだろうと思います。『みい山』は障害福祉を真剣に描いた漫画じゃないし、近親相姦とか(モモがいっていた)受容体がどうたらみたいな話に、「学びがある」真面目に受け止めるような人間に、やる気を期待する方が無理というものでしょう。問題なのは、新宿区議や公的な地位にいる専門家などが、そういう発言をしている事でしょう。前にも2回程書きましたが、児童文学作家までもがこの作品を支持している始末ですから。
こうした「民意」に応えるように、『みい山』はこの度アニメ化が発表され、炎上状態になっているわけですが、これまでの経緯を見れば、作者である亜月 ねね先生だけが悪いとはいえません。バズっているというだけで、相手がどういう人間なのかをちゃんと調べもせずにプロの世界へと引きあげて、彼女を教祖としてやりたい放題してきた講談社の編集部も、ギルティだと思います。
そして、あの編集部の動画(編集者の無責任な姿勢)とか、一番悲惨なシーンをネタにしたアクスタ企画、よりにもよって相模原事件発生日にアニメ化を告知する節操の無さを、作品内容と併せると・・・ここからは、もう心を鬼にしなければなりませんが、アニメ制作は中止でいいんじゃないかと思います。これ以上、『みい山』に対する民意に応えるような事があれば、いずれネットの俗情と結託して規制緩和され続けてきた「表現の自由」が最悪な形でツケを払う事になると思うんで・・・。(アニメ化の効用を考えれば)国際的にも・・・。
俺もギャラリーの企画書ボツになった事があるから、敢えていうけど・・・。
で、アニメ化及び『みい山』の擁護意見からは、表現の自由はともかく、「正義の暴走」とか「表現の自由とは不快なものを守る事だ」とか、noteやXでも屁理屈めいた意見をかなり見ますが、表現の自由とは、作り手の一方通行で決まるものじゃないです。
リンク先の記事の人も書いていますが、表現の自由より、人権問題の方が割と本人の生死について影響力があったりするので、前者を天秤にかければそっちが優先されるべき場合があると思います。社会の日向に近づけば近づくほど、人権や法律が優先される割合が高くなり、その辺りで折り合いをどうつけるかという議論に晒されるのは、至極当然の事でしょう。
だからこそ、表現の自由を守るという事は、自身の責任能力に基づいてTPOを選び、時にはその権利を留める事とセットでなければ、自由に値しないと思う訳です。それが嫌なら、日陰でひっそりとやるべきであって・・・。
そういう所から、(アニメ化を含め)『みい山』批判批判派の言動を見るにあたり、今の日本における表現の自由というのは、そうした権利や自由を行使するどころじゃない、切実な問題を抱えた人達が守られる事より優先されるものなのか・・・と思う訳です・・・。
塩見 鮮一郎氏も自著『作家と差別語』であの手の被害者意識を指摘してたしな・・・。断筆宣言のやつですけど・・・。
まぁ・・・まとまらん形で色々と『みい山』について書きましたが、これだけ亜月先生を中心にしてカネと人材が動くような状況まで持ち上げて、売上も還元してもらったんだから、講談社はちゃんと亜月先生だけに何かいわせるんじゃなく、やっぱり彼女をここまで育てた会社として、説明責任は果たさなきゃいけんのんじゃないか・・・そう感じています・・・。
この暑い中、バイトに行って・・・「ここでヘタっちゃいかんよ?」とか思う訳です。私よりも長い時間働いてて、しんどい仕事をしてる人なんか山ほどおるし、ですが・・・やっぱり学校が(何らかの理由で)休みになったり、仕事から早く帰られれば、「ラッキー」と思う人は、同じ数ほどいるはずです。
私も以前は食品工場の夜勤で、大晦日にはおせち料理を作るために(一応、休憩時間込みでしたが)13時間工場内で働いてた事があります。短期バイトでも、真冬の冷凍庫からローラーで、クリスマスケーキの入った箱をトラックへ運んでいました。そして、昼の1時から夜の1時まで、サッカースタジアムの観客が出す弁当や飲み物のゴミをひたすら処理していた事もあります。
で、その経験を照らし合わせた上なんですが、どうも左派系の一部における経済的な言説では、資本主義自体を否定し、その流れで労働自体も否定するという、トラバントが走っていた過去の国よりも極端なものが流通しているように見えます。
自分も最近Xで、「労働にNOを突きつけたい」みたいなポストを見たばかりなので、敢えて書きますが、たとえどんな形でも、人は(ある程度の)社会参画から逃れられないと思います。これは松本 次郎先生の『女子攻兵』とか、最近では森川 成美氏の児童書『アントネストの羊』とかでも触れられている事なんですが、この社会で労働に絶縁状を突きつけてたとしても、結局は自分が嫌う概念に支えられて生きているというダブルスタンダードがモロ見えになっているわけです。ああいう何気ないような言葉をXでポストするのだって、電子機器メーカーの工員や発電所の作業員、そこまでいえるような余裕があるような、生活環境を提供しているだろう建設会社など、見えにくいだけで「労働」という概念が日常生活に密接に関わっている訳です。来ている服だって、あるいは食事だって、誰かの労働があるおかげで成り立っていると思うのです。「労働にNOを突きつけたい」といいながら、自分がやりたくない事で維持されている環境に依存するというのは、結構ズルくもないか・・・と・・・。
そこで自分の信念を貫徹させるには、同じように労働にNOが突きつけられた環境に住む他はありませんが、多分それはきれいな飲料水も出ない、エアコンもまともに動かない、電気だって供給されない、まさしく『漂流教室』とタメを張れるような地獄でしょう。ああ、そうそう。現実にあわせてロボットが労働を肩代わりしてくれるというのもナシです。
こういう話が、(かなり昔の話ですが)「働いたら負けかなと思っている」という極端なケースから出るのではなく、それよりも地位と意識が高そうな所からという所が、あの手の議論の根深い病巣かもしれん・・・とうっすら思っています・・・。
(8月2日:少し内容を加筆修正しました)
―「それはね、”劣等”というの。世の中には、あまり価値のない、劣っている人間がいる、と思っている人がいるのよ」
エリザベート・ツェラー『アントン:-命の重さ―』より
ちょっと前に、(特に)中韓をあからさまに罵るような本が相次いで出版され、ヘイト本として問題視された事がありました。『世界で嫌われる中国』とか『反日韓国のトンデモ実態』とかみたいな・・・。
私も、『NOヘイト!:出版の製造者責任を考える』という本を読んだ事があるんですが、こうした記事を読んでいると、あの問題が公園の散歩に見えてしまうような感覚にとらわれてしまいます。正直・・・。まぁ、ころから社の姿勢はある程度は好きですしね・・・。
リンク先の記事にもあるように、Xで細々とガラの悪い漫画を描いてバズっていた作者を、出版社が声をかけ、編集者が(動画内で)嬉々として弱者に対する嗜虐的な言葉を天然で並べ立て、挙句の果てには悲惨なシーンをネタにするようなアクスタをプレゼントするような企画を立ち上げるような現状、更に相模原事件の発生日にアニメ化の告知をするような認識の甘さを見ると、何か昔の方がはるかに、差別を悪として断じやすかったんじゃないか・・・そう思うんですよ・・・。例えヘイト本が著名人から推薦される事があったとしても、大体一部の大学にいるアレな教授やアレな作家だったりするので、支持層も併せて社会通念上容認させてはいけない事だっていう空気が曲がりなりにもあったと思うんですよ。でも、今はカタギ向けの論客(そして児童文学作家までもが!!)が知的障害者を素人目線で性欲モンスターとして戯画化してるような作品を、「(自分が勝手に想像している障害者のタブーについて)よくぞ描いてくれた」と、堂々と推薦しているような有様を見ると・・・。
何かXでの指摘通り、もう事態がここまで発展すると、亜月 ねね先生(断じて亜月先生がこれまでやってきた表現や言動を擁護する意味ではありませんが)自体の問題だけじゃなく、公式が彼女を教祖としてやりたい放題している事が原因になっている気がします。
何かこれ、あれだけ問題を起こしておいて自浄作用とか見込めるんでしょうか?と、正直思います。上にも書いた通り、もう亜月 ねね先生だけの問題で済む自体なってない以上、彼女に声をかけ、原稿料と印税を払う立場になった自己責任として「どういう覚悟で……人の子供殺してるの?」という話にはならんでほしいです・・・マジで・・・。
亜月先生をプロとして担ぎ上げ、その表現を商業ビジネス化して現実のセンシティブな問題に対して無頓着な事を繰り返し、アニメ化まで約束しておきながら、今更亜月先生個人の責任として裏切る事は許されんだろ・・・そういう思いがあります。
最近、ネパール料理の店が近くにいつの間にかできとったんで、ちょっと行ってみました。で、ダルバートという料理を食べたんですね。そこで支払いの際、店主さんが「オヤジがインド料理屋をやってるんで」とDMを渡してくれました。しかも俺よりちょっと年下・・・すごいよね・・・。
まぁ・・・これは安田 菜津紀氏の児童向けノンフィクション『故郷の味は海をこえて』 を読んどった時に、ダルバートが出てきたのを思い出して・・・という感じでした。何か最初は(こういうのも結構不適切な例えですが、許して下さい)飯テロみたいに食欲をそそられていくんですが、その裏に書かれた現実を見ていく内に、徐々に苦味が広がっていく・・・そういう感じでした・・・。
で、ネパール料理の店に話を戻しますが、何かモモとアルジーラを頼んだんですよ。モモ・・・それは果物じゃなく、ネパール風の餃子です・・・。なんかイギリスのロンドンなんかカナダの(オンタリオ州にある)ロンドンなんか・・・みたいな話を連想しました・・・。
何か絵本ランキングがどーたらみたいな話を、ここで書きましたし、最近でも『ぽんたとなっちゃん』という絵本を買ったんですが、まぁ・・・これは部門の問題だとはわかるんですが、もう講談社の最近の動向を見てて、もうあそこの本はしばらく買いたくないな・・・と正直思いました。こういうの、新潮社に続いて2度目ですよ・・・。部門の問題と書いたけど、同社の青い鳥文庫の公式サイトだってこういう事をしてるしなぁ・・・。
何か、編集者さんの動画も炎上してましたけど、はっきりいえば、こういう傾向には斎藤十一イズム以上のものを感じているというか・・・。
なんか、講談社の児童書も、青い鳥文庫も買ってた身として、その出版社の本を買いたくないなんて悲しい判断をさせるような事を、これ以上しないでくれよ・・・と正直思います・・・。
まぁ・・・熊本が大変な事になってますけど・・・。イオンモールか・・・。なんで10年というタイミングで起きるんだろう・・・あんな事が・・・。
こういうニュースを見る度に、何か山本 弘氏の『神は沈黙せず』というSF小説を思い出すというか・・・。 こういうの(東日本大震災の時でも、『天を恨まず』という中学生の答辞が注目を浴びたように)って、試練とか愛とかいって、何とか意味を見つけたい気持ちにかられますが、神は天地創造をする程の天才が故に、コミュニケーションがお互いに不可能な異質な存在・・・と割り切った方が、ラクな場合もありますよね・・・。
それは俗流のニヒリズムではなく、『神は沈黙せず』のラストで、主人公が出した決断である、「正しく生きる」事自体を報酬として生きる・・・みたいなものだったりするんですが・・・。
まぁ・・・昨日あんな地震があったんで・・・それさえ無ければ、馳 星周氏の『少年と犬』の長ったらしい感想を今日投稿しようか・・・と思ったんですが、やめときます・・・一旦保留にするんで・・・。内容が内容故に・・・。だからちょっと日にちが経ってから、適当なタイミングで出そうかと・・・。なんか飛行機が乱気流に巻き込まれた時も、ちょうどああいう感じだから嫌なんじゃ・・・。
また10年前、前おった家(佐伯区内でした)がかなり揺れて、翌日熊本の惨状を目にして絶句した記憶が蘇ったじゃないか・・・。
今日はこのくらいにしときますね・・・。
これは1巻(すみません、そっちのレビューが書けてなくて)から読んでいるのですが、山口 恵以子氏の児童書『給食のおばちゃん:異国の友』を読みました。
管理栄養士の昼間 明子が全国の小学校を渡り歩き、ご当地の食材で子供達に魅力ある給食を提供し、そこに子供達が抱える問題が巧みにリンクしてくる・・・という内容なんですが、今回は、なんと私の地元である広島です。しかも、広島焼が出てきます。広島故に、多くの作品では(単なる)平和教育的な内容になってしまいがちな所に、サンフレッチェという広島の「今」を舞台に、移民がどのような問題に直面しているか、その課題解決にはどうすればいいかという話が、(こうした事を題材とした児童書が、陥りがちなワナですが)独り善がりの説教ではなく、読者をその捌け口にしないような描き方がされている事に好感を覚えました。
作中では、イスラム教では豚肉がNGという壁に、昼間がぶち当たりますが、同じように日本だって他国からこれまで同様の同情や配慮を受けてきたはずです。それを当たり前だと思い、日本は世界で一番愛されていると自惚れながら近隣諸国をディスる風潮がある今日、結構考えさせられるエピソードでした・・・これは・・・。
そして、次に印象深かったのは、福島県の郡山市を舞台にしたエピソードです。
一応、おさらいとして(皆が知っている通り)福島県は東日本大震災の被災地である事が書かれていますが、ストーリーの展開は震災と原発事故絡みではなく、今を生きる子供がみな感じるだろう悩みをベースにしており、ダイエットのために食べたものを吐き始めるシーンは、思わず、同様のテーマを扱ったスティーブン・レベンクロンの『鏡の中の少女』と『鏡の中の孤独』という小説を思い出しました。
広島のエピソードでも、昼間が平和記念公園を訪れるシーンが最低限書かれていますが、それをメインテーマにしなかった事に、山口氏の潔さを感じました。その辺りは福島のエピソードと同じように、作家と読者の間で必要以上のコンセンサスが得られやすく、結果として問題提起と告発だけが独り歩きしているような作品も見られます(故に、評価されやすい)が、敢えてそれに背を向けて普通の少女を描いた事は、震災や原発事故をちらつかせるよりも難しいし、だからこそストーリーとして成立している・・・と思いました。
ですが、ここは重箱の隅をつつくようですが、「昔は東京も網の目のように路面電車が走っていたものだが、今は都電荒川線、別名さくらトラム一本になってしまった。」(27P)という文章がありますが、実は・・・東急世田谷線はどうなんでしょう・・・とうっすら思いました・・・。ただ・・・荒川線と違って・・・世田谷線は併用軌道(一応、そういう形で道路を横断する区間がありますが)が無いからな・・・。
(最近、ちょっと内容を描き直しました)
まぁ・・・昨日の文章で『みい山』のアニメ化について「いっちょ噛み」したわけですが・・・。俺は個人的にそういう商法は大嫌いですが、これで反対派が有利だとわかった瞬間、今までは肯定的な声(「障害者を美化せずにリアルを描いている」・「当事者を理解するチャンス」等)が多かったのに、今は大量の批判が吹きあがってきている状況・・・XでもBlueskyでも・・・。
何か七都 にい氏の児童書『ふたごチャレンジ!』の2巻でも、そういうのって痛烈に皮肉られとったと思います。最初は双葉姉弟がクラスで攻撃されよったのに、学芸会の準備に反抗的な態度を取る吉良 辰紅をみんなが標的にし始めるという、掌返しの団結を思い出したというか・・・。
七都氏の作品を、こんなガラの悪いネタの引き合いに出して、本当にすみませんとは感じますが・・・。
まぁ、話は変わりますがまた、七都氏がみらい文庫で作品を出されるようで・・・余裕があれば、ちゃんと『オレらは絶対だまらない:サイコーな毎日をとりもどせっ!』は買いたいです・・・。
何かこういう流れって、今度は作者や講談社、アニメ制作会社等が「みいちゃん」(のようにヘイトを向けられていく立場)になるんじゃないか・・・そんな居心地の悪さがあるというか・・・。
(ちょっと感情的すぎたんで、大幅に内容を削りました)
何か今日、『みい山』のアニメ化が決定したというポストを見たんですが、何で(よりによって)相模原事件発生日にそういう事をポストするのか・・・という意見を見て、尤もじゃん・・・と思います・・・。炎上狙いじゃない・・・あの事件を知らんから最悪のタイミングで・・・というのが真相かと・・・。
で、もうこれは皆さんのいっている通りかと・・・。正直、何を今更感があるし、散々ああいう露悪表現をみんなで持ち上げ取ったクチじゃんとは思いますが、何かシュテルマーを流石に嫌いよったナチスの高官みたいだなぁ・・・。
最近、野田 正彰氏の『戦争と罪責』を読んでるんだけど、こういう騒動を見てると、何かやっぱり「ああいう系の開き直り」って、地続きだよな~と感じてる訳です・・・。しかしながら・・・こうやって問題が不特定多数にいわれはじめた時だけ、グダグダ『みい山』についてしゃべってる俺だって、同罪じゃねーかという気が・・・(泣) まぁ、暑い時だし感情的になっちゃ部分もあったかなーと・・・(汗)
この文章で、小山 美砂氏の『ルポ 被爆2世』を読んだ感想を書きたいけど、暑さのせいで・・・みたいな事を書いてましたが、今はある程度大丈夫なので、やっていきたいと思います。
まぁ・・・自分の祖父もぶっちゃけいやぁ入市被爆しとるんで、手帳を持っていました。で、施設(地元の広島交通科学館とか、安佐動物公園とか)に入る際にそれを見せてたのを、よく覚えてます。
何か・・・正直にいうと自分がずっと大学に行くまでは広島の中で暮らしてたので、殆ど広島出身だからという理由で差別は受けませんでした・・・年月も経っていたからかな・・・でも、ネットを探せば、もっと酷い情報にぶち当たるんでしょうけど・・・そこで、何か『ルポ 被爆2世』の中で、1976年に自民党の議員がこういうとったんですね。
「原子爆弾の被爆者の人たちを絶滅するにはどういう方法をとらなければならないか。(中略)そうしますと、永久的に被爆者の援護を続けていかなければならないとということになりますると、依然もって戦後は終わらなくなりますので、これを絶滅する何らかの方法はないかどうかということです」(122P)と・・・で、 さらにこの議員は毎日新聞の記者にその発言を問われた際「被爆者には治療を続けさせ、都は、優生保護的な見地から、完治するまでは子供を持たせないような行政指導をすべきだ」(124P)といい放ってるんです。これが今ならネットで即炎上するレベルの発言だし、同時にXみたいな場所では、「よくぞいってくれた」と賛同されるでしょう。「オタク差別」にいつまでもしがみついている人々を中心に。
この文章の初めに私は、「差別は受けた事はない」と書きましたが、外部からの目線が必ずしも善意じゃない事も薄々理解していました。例えば、赤瀬川源平が提唱した「トマソン」という概念でも、原爆被害を茶化すような表現があったし(この文章でもかなり言及しています)、最近でも「ケロカス」というカープのサポーターを侮辱するようなネットスラングが問題になってました。
同時に、(被爆者をルーツに持つ)私達だって、誰かをそういう目で知らず知らずの内に見ているかもしれません。あの議員みたいに、「アイツは社会のお荷物だから、子供を産ませるな、安楽死させろ」みたいな・・・。実際に、旧優生保護法という悪法が平成の世まで存続していた事を考えれば、この国の人権意識は予想よりも低いのかもしれません。私達を含めて。
こういう所から、『ルポ 被爆2世』は単に核災害のみに焦点を当てているだけではなく、読んでいる内に差別する側を思いやっているつもりになっている私達も、また差別する側になっているのではないか・・・という問いを突き付けられているような本でした。
現在、サブカル的な露悪が一般商業にも進出しており、デリケートな概念を土足で荒らすような表現がネタとして許されるような風潮がありますが、冗談が許されない話題は断固として真面目に扱わなければいけない・・・そういう思いも抱きました。
まぁ・・・絵本作家ののぶみ氏なんですけど、絵だけ見ればのぶみ氏は好きなんですよ・・・郷田 マモラ先生の『モリのアサガオ2』も、新刊が出れば買ってるし・・・。
正直、私よりもかなり絵が上手いと思います、のぶみ氏は・・・。何か背景の抜き方のバランスとか、陰影とか、あれってかなり鍛錬しないと自然に見せられるものじゃないなと・・・。
のぶみ氏を巡るアレコレのバッシングも、のぶみ氏というわかりやすい問題を備えた藁人形が存在したから、前者を口実にして炎上に燃料を投下しているだけの部分ってあると思いますし・・・。
ですが・・・やはりそうした議論にも一定の正当性はあると思うんですよ・・・のぶみ氏が『胎内記憶図鑑』を出版し、それから佐々木 禎子氏を題材にした絵本『ほんとうの願い:折り鶴にこめられた禎子の祈り』が出版されて・・・。 その巻末に、安倍 昭恵氏と(佐々木 禎子氏の甥である)佐々木 祐滋氏、のぶみ氏の鼎談が収録されているんですが、この文章のタイトル通り、つきあう人の選び方について、思わず考えてしまい・・・。あとがきを読むと、もともとのぶみ氏が安倍 昭恵氏からLINEで本作制作のお誘いがあって、佐々木 祐滋氏が監修を務めたという形になっているという感じで・・・。
やっぱり、うまくはいえないんですが、安倍 昭恵氏にしろのぶみ氏にしろ、危ういものを結構孕んでると思うんですよ。何かスピリチュアル系における数々の「やらかし」いえ、「やらかし」以上の問題を思うと・・・。そして、この辺りから安倍 昭恵氏はファーストレディーとして、かなり重大な立場への自覚と責任が無いような行為も散見されており、森友学園問題という国政レベルスキャンダルに関与しているような人物ですよ?ですが、被害者遺族としてはきっちり同情はしています・・・。
そこに被爆者の親族がやすやすとアプローチするのは、正直どうなんでしょうと・・・。絵本の内容自体はそんな変な誇張は無く、史実に即していたとは思いますが、やはりこっちも特定の政党や政治家と個人(あるいは民間の組織)がパイプを持つとロクなことにならん・・・という事は思い知ってるんで・・・。
これって、(被爆地においては)タブー中のタブーだとは思うんですが、被爆者としてのルーツがある分、(私であれ他人であれ)一定の独立性やリテラシーは持つべきだとは思います。(私は自民党や維新の会に投票してはいませんが)「自民党支持者は頭おかしい!」と騒ぎたい訳ではなく、気づいた時には引き返せないくらい取り込まれてる・・・そういう危険性がマジであるし、日本どころか国際的にその名が知れ渡っている佐々木 禎子氏の知名度を考えたら、やっぱり一定のディスタンスは取るべきじゃなかったのか・・・と思います・・・。そこら辺の被爆者手帳所持者とは違うんだから・・・。
何か・・・ああいう人達と不用意に関わったら、何かあった時に紐づけて騒がれるリスクはあると思うし、佐々木 祐滋氏個人の問題では済まなくなる恐れがあると感じてます・・・。佐々木 禎子氏のデリケートな有名性を考えると、下手すりゃ死人の尊厳に泥を塗りかねない・・・そんな危惧も頭をよぎっています・・・。
まぁ・・・最近うんこ人狼みたいな児童書を見てから、やっぱり男の子はそういうの好きだよな~とか思ったりするんですよ・・・自分だって、『クレヨンしんちゃん』とか『まことちゃん』、それから、『Dr.スランプ』みたいなものを読んでゲラゲラ笑いよったし、小学生の時は年下の友達と一緒に「おっぱい」とか「ちんこ」とか叫びよったしなぁ・・・。
で・・・まぁ最近逆張り的なお気持ち表明が続いとる感じがせんでもないし、ジェンダー的な話になっちゃいますが(これは、男女間の生得的な感性の違いを、道徳にしろとかいう話じゃないです。念のため)、やっぱり・・・何かそういう類の冗談を口にする時って、私達はつい女性(女の子)とか、下ネタが嫌いな人の存在を忘れちゃうよね・・・と思うんです・・・。漫画やアニメとかはある意味「棲み分け」ができてるけど、児童書は男女平等等価に作品が提供されている部分はあるわけで、そこら辺リスクが高まるよな・・・と・・・。
まぁ・・・西本 鶏介氏もかつてポプラ社の公式サイトで連載していたコラムで、児童書の排泄物ネタに批判的なコメントをしてましたけど、やっぱり(学校で)大便を漏らすっていうのは、いじめやからかいの理由になりやすいし、胃腸の病気(家族性アミロイドポリニューロパチーみたいな。『死役所』で知りました。恥ずかしながら・・・)で排泄のコントロールが難しく、排泄物を漏らしやすい人もいる訳で・・・。だから、素直に笑えん自分がいるんです・・・正直・・・。身近にストーマつけてる人がいるのもあるし・・・。
だからといって「児童書でうんこうんこいうのはけしから~ん!」といいたいわけじゃないです。うんことかしっこみたいな冗談は(いい年して・・・)私も好きですし。ですが、その冗談の性質上、ハラスメント(特にセクハラ)とかいじめとかを正当化してしまう危うさが、正直潜んでるんじゃ・・・と思うんです・・・。
なんか・・・この記事でも同じ事は書いてありました。「(2013年当時における)最近のアメリカ映画のコメディ映画は、とても下品に感じられる」と・・・。リンク先の記事を読んでみた上で考えて貰いたいんですが、やっぱり何か、加害者意識は持っていたいよなーとか感じたりするんです・・・。
今日の文章・・・全投稿の中で、一番うんこと書いてるような気がするよ(汗)
―物語に優劣なんてない。勝利も敗北もない!(中略)ただそこには、想像の翼を広げさせてくれる美しい言葉が綴られているだけなの。どんな物語もその素晴らしさは変わらない!
相沢 沙呼『小説の神様』より
何か最近、小学6年生でも絵本しか読めない異常事態がどうたら・・・みたいな記事を読んで、正直「またか・・・」という思いです・・・。まぁ、講談社のサイトだったしなぁ・・・。でも『4つごのまじょとすてきなちかしつ』と『4つごのまじょのおかいもの』いう絵本を最近買ったので・・・という感じですが、絵本が好きな子供っだっているでしょうに・・・。正直、(最近の例でいえば「ドパガキ」、「倍速視聴」でしょうか)こういう若者とか子供とかをターゲットにして、「○○ができない」と煽って金にするのは何度目だよ・・・と思うわけです・・・。
それとね・・・寮 美千子氏の著書『空が青いから白を選んだのです』とか『あふれでたのはやさしさ』だったみたいなものを読むと、世の中には(寮氏のような作家の活動で)絵本や児童書が、そこから断絶されていた人間の切実な叫びを、(まさしく芸術の使命として)どれだけ剔抉・昇華させていくのかを考えたら、この記事の内容にはどうしようもないさもしさを感じるというか・・・。それと、被害者遺族である入江 杏氏も、ご自身の活動(あの経験から他者の痛みを救済する為に)に絵本や童話を積極的に使われているわけであり、「絵本しか読めない小学6年生論」というのはいささか有害な先入観といえるでしょう。
それと、毎回「本を読めない若者」という(はっきりいえばヨンデミーみたいに)「モラル・パニック」を煽って宣伝するような団体がいますが、飯田 一史氏や赤木 かん子氏がそうした神話には痛烈に楔を打っていたはずです。ですが、子供の読書量が減っていないにしても、こうした議論は読書が苦手だったり、ディスレクシアだったりする子供を無自覚に傷つけてはないか・・・そんな懸念もあって・・・。
で、この公開日記では何度か取り上げているレジ―氏の『ファスト教養』ですが、児童書や絵本を「偏差値を上げ」て、「難関校に合格させる」事が(記事の)テーゼになっているのは、正にそういう匂いがプンプンするというか・・・。近視眼的な利益の為に教養が矮小化され、粗末に扱われていると・・・。藁人形論法になっちゃうけど、『杉森くんを殺すには』とか『ハッピークローバー!』とか、そういう目的じゃない本もあるはずで、ただ功利的な目的で読んでも、為にはならんでしょ…と感じます・・・。
確かに、ヨンデミーの代表取締役である笹沼 颯太氏の指摘通り、ショート系のコンテンツは児童書にも存在していて、「5分で読める」とか「3分で驚きの結末」みたいなアンソロジーが雨後の筍のように出現しているのは事実でしょう。 ですが、(記事を見た限りでは)統計といっても詳しいソースやリンクは貼られていないし、感情的な分断や格差を煽り、児童書や絵本を餌にしているに過ぎないのではないかという疑念があります。上にも寮氏について書きましたが、寮氏は『あふれでたのはやさしさだった』で、「絵本は子供だけが読むものではない。子供からでも読めるものだ」と書かれていましたが、『りんごかもしれない』(それ位の認識でヨシタケシンスケ氏とブロンズ新社に喧嘩を売ったんですかね?)という絵本が小学生に人気だという「事実」に、笹沼氏が「読解能力が落ちている」と腐す事への強烈なカウンターになっていると思います。まぁ、見方を変えりゃあれは絵本蔑視にも見えるし・・・。
確かに教養が無いに越したことはないですが、適当なモラルパニックに紐づけた、格差煽りや分断煽りの燃料に自分の好きな絵本や児童書が食い散らかされているのを見ると、何か悲しいなあ・・・と感じます・・・。
喧嘩を売ったといえば・・・自分も足りん情報でお気持ち表明何度もすることあるから…この公開日記で・・・ワシは同罪じゃ(泣)それと、ランキングに『東京deep案内』とか『言ってはいけない』があればそりゃ流石に衝撃を受けて騒いでいいと思いますがね(汗)
飯村 武志氏の個展「「METAL WORKS-金属とメカニカルの共演-」(会場:アエル ベース様)にお邪魔いたしました。元から乗り物系のイラストや絵が好きだった身としては、すごく興味があったので、バイトの合間を縫って、東京まで行きました。
下に、その様子をアップいたします。
このように、小ぢんまりとした会場の中に、車のエンジンやシェルビー・コブラ、ランボルギーニ・カウンタック、そして、ダッジ・ヴァイパーなどが描かれた絵画作品が並んでおり、下に置かれたミニカーが、かなりいいアクセントを出していました。殆どの車は暖色系を背景とした鮮やかなレッドで、メタリックな質感が命の車のリアリティを、実物以上に捉えているような迫力がありました。それは、車だけではなく、あの手の車が有する大排気量のエンジンが、エンジンフードを透過されて、今にもシリンダが上下し、爆音すら聞こえてきそうなタッチで描かれているからだと思いました。
そして、絵葉書も販売しておられたので、ジービーレーサーとかポルシェ911(初代)の絵がプリントされた絵葉書を買わせて頂きました。
この度は、本当に貴重な経験をさせて頂き、会場で出会った皆様に、心から感謝を申し上げたい気持ちです。
まだまだ、シリーズの第1巻ですが、藤並 みなと氏の児童書『放課後チェンジ:世界を救う?最強チーム結成!』を読みました。
何か中学1年生の4人組が、ひょんなことから謎めいた指輪をはめると、何と、猫や犬、鷹に変身できることになりました。当然、飛行できたり素早い動きができたりと、それぞれの能力を使えるんですが、指輪がどうしてか外れなくなり、その為には・・・というのがおおまかなストーリー内容です。まぁ・・・ポール・ギャリコ氏の『ジェニィ』とか矢玉 四郎氏の『おばけうんどうかい』とかみたいに、人外(への変身)と人間への回帰という、肉体の二重化とそのジレンマを巧みに(そしてエンターテイメント性たっぷりに)描いた作品は数多くありますが、本作もその一つに数えられるでしょう。最近の例でいえば、ケヴィン・スペイシー氏が主演した映画『メン・イン・キャット』もそうでしょうか・・・?
そこに、悪霊とのバトルアクションやいじめなどのソリッドでシリアスな要素を持ち込んでいる事で、猫や犬が出てくる話にありがちな、ただモフモフ癒し系となっていない所がいいと思いました。特に、まなみがいじめの加害者にブチ切れる所は、溜飲が下がる思いで・・・。
で、この文章で私が書いた事ですが、宮下 恵茉氏の『トモダチブルー』という児童書があります。で、何か子供同士の対立やいじめみたいなものを、(「みんなでヒリヒリしましょう!」みたいに)大人の立場から面白がって傍観(あまつさえ燃料投下)するようなコメントを、宮下氏のXでチラチラ見ている身としては、こうした悪や病理を被害者の立場で良識に則った処理をする、『放課後チェンジ』のような妥協なき姿勢は本当に大事だなーと感じています・・・。
まぁ・・・動物を癒しの甘さありきではなく、そこに社会問題やシリアスさを絡めてくる所は、タニヤ・シュティーブナー氏の『動物と話せる少女 リリアーネ』シリーズを思い出したりしたんですが・・・。
日本で一番撮影が困難な電車というと、やはり京都市営地下鉄東西線が真っ先に挙がります。
乗り入れている京阪線の電車は当然地上に出るので違いますが、問題は京都市営地下鉄の50系電車です。 全線が地下でアストラムラインのようなフルスクリーンタイプのホームドア完備、なので結構撮影が難儀というか・・・。車両基地も地下だしなぁ・・・。
で、私が小学生時代に持っていた図鑑では、地上で撮影された50系電車の写真があり、かなりレアなシチュエーションだなと思います。
そして、京津線の電車にもかなり感じる事はあります。 地下鉄乗り入れに急勾配対応、更に併用軌道まで走らなくてはいけないので無茶苦茶製造費が高くついたと・・・。正直に書くと、京津線は地下鉄乗り入れ路線としては、かなりバラエティに富んでいると思います。だから結構乗っていて面白いというか・・・。
『しょせん他人事ですから』という漫画で、野球選手への誹謗中傷をテーマにしたエピソードがありました。今まで、本作の加害者は更生したり、救いがあったりしましたが、あのエピソードだけはネットの誹謗中傷者のリアルをかなり描けてたかと・・・当然、本人はわかっていないというだけで、罰は用意されていました・・・。
そこから、「ケロカス」というネットスラングについて話していきたいと思います。
「ケロカス」は、カープのファンを中傷する際に使われるものですが、その語源はかなり悍ましいので自分で検索して調べてください。まぁ・・・正直8月6日って、広島から遠くなるにつれて、知らん人の割合ってどんどん多くなる気がするんですよね・・・8月9日と同様に・・・。東日本大震災だったら、発生日時はいつかは誰でも瞬時にいえるというのに・・・。
この辺りで私もかなり罰当たりな事を書いちゃいますが、もし原爆投下に東京が選定されていれば、見方は違ってきたんじゃないかと思います。多分、誰でもその日を覚えてるかと・・・。だからこそ、3月11日や9月1日も、東京事として社会問題へと波及したので、日本国民全体の心理的外傷みたいに残り続けてるんじゃないでしょうか?
話がずれましたね。で、ケロカスに話を戻しますが、誰でも酷い目に遭って見なきゃ相手の心理はわからん足りなさってあると思います。ですが、正直祖父も入市被爆している身(実際に被爆者手帳を持っていた)で、ケロカスとSNSに打ちこんだ人間にそうなれとは思いません。「ああ、そうなんね」で冷たく終わらせたいです。安里 アサト氏の『エイティシックス』でも、被差別者の一人であるライデンが報復について色々いってましたよね?何か、相手に同じ事やったら相手と同じになる・・・みたいな・・・。
ですが、私は気高く生きる事が報復だというような立場じゃ到底なく、その影響を制度的にどう最小限に留めるか?ケロカスみたいな言葉の使用、あるいは誹謗中傷に対してスティグマや恥の感覚を、小さい時から教えていくしかない・・・という地味で味気ない答えに縋るしかないんです・・・。
まぁ・・・やっぱり色々考えとって、例えば中国大陸からの引き揚げやシベリア抑留の過酷さばかりが語られがちですが、自分全体が住んでた場所で中国人に何をやったかをあまり考えられん(&反省)のと同じで、同じ目にあってもわからん人はいっぱいいます。
だから報復や怒りという「投資」は確実性が乱れる(『コブラ』という漫画でも、「確実性の無い投資は嫌い」というようなセリフがありましたよね?)もので、パチンコや競艇みたいなもんかなと・・・そういう人を相手にした場合は・・・。
加えるなら、俺もプライベートじゃ(親とか知人とかと喧嘩になった時)センシティブな事に対して酷い事いってるし、必ずしも相手を責められんのだよなぁ・・・(泣)
まぁ・・・10年位前ですかね・・・田房 永子先生の『母がしんどい』という漫画や、信田 さよ子氏の『母が重くてたまらない:墓守娘の嘆き』みたいな本がかなり売れとった・・・と思うんですよ・・・こうした親が子にいつまでも過干渉を続けて押しつぶされる事を、虐待として認知させた土壌は、そう、スーザン・フォワード氏の『毒になる親』という本じゃないでしょうかと・・・。それが縮められ、「毒親」という形で心理的虐待や機能不全家族(における加害者)を指すスラングになったのは、知っての通りだと思います。
そして今日ですが、「毒親」とか「毒母」とかいった言葉で、特に母から娘への攻撃的なアプローチを告発するコミックエッセイや手記は星の数ほど出版されていますが、あの語源を知っている人が、どれほどいるのか・・・という感じです。個人的には、何か一般的な(親子間の)対立や意見の相違まで「毒親」と一括りにされてないか・・・?と思いますし、虐待行為ではない問題ですら「毒親」認定されて、結局誰かが割を食ってるし、正しい問題解決になってないんじゃないか・・・?という懸念がうっすらあるんですよ・・・。
で、フォワード氏の『毒になる親』でも、親への糾弾ありきではなく、そこからどうリスタートを切っていくかがちゃんと指南されていたと思います。それと、被害者だからといって何もかも受容して慰撫するのではなく、大人として他者に取るべき責任をちゃんと書いていましたし。
ですが、後発の毒親系メディアというのは、こうした「不都合な部分」がばっさりカットされ、(自分を支配欲の捌け口にした)酷い親や異常者への溜飲を下げさせるだけのものが、結構多かったです。結局は傷の舐めあいにしかなってないというか・・・。それと、「母VS娘」みたいな、換金化しやすいわかりやすさを追うあまり、「毒親」問題にもジェンダーの壁が半ば正当化されてるかと・・・。
そこから、「教育虐待」が武蔵大学の教授である武田 信子氏の発表である事もわからないのと同じで、「毒親」は「教育虐待」とセットで第3者が当事者の切実な問題を見世物小屋感覚(でも、読者からは「勉強になった」とか「真実を描いている」と持てはやされるような)で描いているような露悪系マンガも結構見ます。オバサン達の井戸端会議感覚でね・・・。
また、明らかに専門知識がない人間や、無責任な専門家等がネット上で「毒親チェックリスト」みたいないい加減なコンテンツを乱造する事態も、その歪曲と混乱に拍車をかけてるんじゃないでしょうか・・・?
私自身、心理だろうが肉体だろうが、虐待行為は絶対に許してはいけないと思いますし、被虐待者が声を上げるのは当然の事だし、社会が目を背けるのは許されないでしょう。ですが、 今の状況を見るにあたり、「毒親」とか「教育虐待」みたいな言葉から距離を置いた方が、あるいは別の文脈で語った方が、より真面目に子供達の受難やセーフティーネットについて語れるのではないか・・・そう感じています・・・。
やっぱりああいうの、福祉について真面目に考えず、興味本位のコンテンツとして持て囃されてるだけじゃんと醒めた目で見てる自分がいるもので・・・。
最近、「ドパガキ」なる言葉をネット上で目にしますが、何か・・・こっちだってもうすぐアラフォーでも、平成生まれとして足りん部分は色々あるなという事は承知ですが、何かそれ以上と見られる年齢層が「ガキ」という言葉を使う意味を考えちゃいます・・・。
それに、この記事が「ドパガキ」問題の真実を一番説明していると思いますし・・・。問題はもう「最近の若者は・・・」という嘆きで済むものではなく、ネットと癒着した中高年層のガラの悪さが、露呈している事じゃないかと・・・まぁ、私も腹が立ったらプライベートで時々酷い言葉使っちゃうし、「Z世代」の方が遥かにマシかと・・・。
これはもう、正直に書いてしまうし、語弊もある事は自覚の上ですが「ドパガキ」的な文脈でいえば、高齢化したねらー層とかオタク層(とそのコンテンツ)じゃないかと思うんですよ・・・。リンク先の記事が指摘している通り、炎上をベースとした政治系の動画、自己啓発、恐怖を煽る広告など・・・そこら辺から、ネットにおける中高年層の社会派的な発言が、結構酷いなと感じる事が、かなりあります。(ここからは個人的な意見になりますが)つけ加えるなら、センシティブな分野で悪意や害意を投げつけ、表現の自由と開き直っているのは若年層じゃないと思うんですが・・・。
雑に書きましたが、やっぱり世代間対立って(まとめるのが)難しいねと・・・。
かなり遅くなりましたが、BOOTHで自作小説『ハッピースイーパーアワー!』を公開・販売しています。よければどうぞ手に取ってみてください。よろしくお願いいたします。
挿絵や表紙絵、口絵なども自分で描きました。まぁ・・・何ていうのか、ストーリーは架空の国を舞台に展開する風刺系SFで、何かコロナに対して「働き方改革がなされたのはよかった」とか「個人の在り方を考える、またとない機会」とかいった(現実を直視しない)歪んだ美化をちょくちょく見てるんで、なんか楔を打っとかな・・・という感じで書いてます。
BOOTHの商品紹介のあらすじでもそういう事書いてるんで・・・紙版は、また展覧会があった時に・・・という感じです・・・保管料の話もあるから、ドケチですんませんなぁ(汗)
セブンイレブンに入ると、天海 祐希氏のアナウンスをよく聞きますが、真っ先に私は「女王の教室」というドラマを思い出します。それ程天海氏の演技が強烈だったから・・・でしょうね・・・ストーリーと併せて・・・。
で、「女王の教室」では、天海氏が演ずる教師、阿久津 真矢が序盤で「どんな立派な会社でも、真面目に仕事をしているのは全体の30%で残りの50%は何もしてないのと同じ、そして、残りの20%に至ってはみんなの足を引っ張っている」というようなセリフがあります。
で、これはネット民の一人としての自戒も込めて書きますが、ネットにおける20%における場所が、まさにはてな匿名ダイアリーだったり、Xやtogetterのコメント欄だったりするんじゃないかとよく思うように・・・。
玉石混合ではなく、石の方が多いはてな匿名ダイアリーですが、結構良記事も見つかったりするんで、簡単に否定はできない側面もあるんですよね・・・「オタク差別を批判することを、やめることにします。」は、マジで名記事だと思うんで・・・。
なんかどんどん暑くなってきてます・・・。今年も夏を乗り切れるのか・・・。
「コロナのおかげ」って、リモワ出来んかった身としては何と世間知らずで罰当たりな言葉か・・・と思うよ・・・。正直、リモワ出来てそれがストレス・・・というのも何か贅沢だよな・・・とも・・・。
今日はこれくらいにしときます。疲れてるんで・・・。いや、これで疲れたといったらいけんな(汗)もっと努力しとる人もおるから・・・。
最近、(岩波新書の『ルポ 貧困大国アメリカ』シリーズを読んだついでだし、比較的集英社新書は他の新興新書レーベルと比べると、結構治安がいいので)堤 未果氏の『堤未果の『素晴らしい新世界』:スマホで赤ちゃんを注文する日』を読みました。まぁ、生命倫理に照らし合わせた上で、結構グロいっちゃぁグロい事が色々暴露されてて、興味深かったんですけどやっぱり重い衝撃として残ったのは、安楽死を扱った4章ですよ・・・。
特にカナダで、(人の生き死にを他者が決めるという)そこら辺でマジギレすべき左派すら「個人の自由」とか「権利の平等」とかいった美辞麗句で死ぬ必要のない人すら死に追いやる事に諸手を挙げて賛成し、貧困層が安楽死の申請にまで追い込まれるような現状は、何か左派版T4作戦じゃないのか・・・?と感じたりもしました。
こういうの、新型コロナのパンデミックに基づく混乱が始まった2020年代初めに、都合よく肉体労働者や貧困層をダシにして政府(とその対応)を腐しながら、その口で「個人の解放」だの「働き方改革が推進されてよかった」だのと脳天気にいい放った反権力層を想起させるというか・・・。語弊がある事は十分承知ですが、やっぱりそういう世間を知らない理想論が、結果として当事者を抑圧している事に気づきもしない事という点では、共通点はあるかと・・・。
話がずれましたが、ここで本題に戻ります。こういう話になると、やっぱり「科学的正しさ棒」を持った人達が、「医療技術の進化に水を差す生命倫理学者VS理知的で真っ当な判断を下せる私達」みたいな二項対立で、藁人形論法を多用しながら反論してくると思いますが、本書は今の情報社会と癒着した医療技術が一線を超える様についてはかなり痛烈な告発はできていると思います。
ですが、やっぱり全体的に堤氏の危機感や怒りが前面に(そして情緒的に)出すぎて、上に書いたような逆張り系論客の攻撃に対する耐性や反論というと、ちょっと弱い部分はあるかな・・・?と思うので、そこら辺のカウンターも少しは欲しかったな・・・と正直思いました・・・。 じゃないと、ああしたIDW崩れみたいな層から「ホラ、やっぱり左翼のせいで死ななくていい人間が死ぬ事を防げないじゃないか!」みたいになるリスクがあると感じるので・・・。
最近、自宅の最寄り駅に行った際、改札口の掲示板を見て唖然としました。
今まで、(大雨が降ったり、台風が接近している時とかに)列車の運行情報が詳しく書いた紙が掲示されていたのに、代わりにQRコードが印刷された紙だけが貼られているだけになってました。そんな手抜きをしていいのか・・・?JR西日本は・・・。
私だって、セルフレジでモタモタしている老人を見ると、機嫌次第ではイライラする事は正直あります。ですが、情報化社会がエスカレートする中で何が蔑ろにされているか、誰が犠牲になろうとしているか、そろそろ真面目に考えるべき時が来てるんじゃないでしょうか?これで切符もICカード化・・・みたいな話になったら、流石に私は怒るよ・・・。
昨日の文章でも書きましたが、重要なのは淘汰されずに生き残る事ではなく、淘汰される(といわれてる)側がどう救われるか・・・という話が一番大事なはずだと思います。その辺りにおける世渡りが上手い人たちが、格差や分断を過激な言葉で煽るのはもう嫌悪感しかないな・・・とも・・・。
すみません、QRコードからいつのまにかAI関係になっちゃいましたね・・・。
最近、noteにてとある作家の方が無料公開されていた小説講評プロンプトを使ってみました。ここなんですが・・・。所詮はアマチュアの小説オンチが書いたものなので、覚悟はしましたが、そこまでじゃなかったです・・・60パーセント位は褒めてもらいましたし・・・。
ですが・・・なんかこれでいいんかね・・・と思ったりします。正直、小説執筆の時には時折AI(GeminiとかGrokとかをメインに)に校正とかアドバイスを頼んだりしてます。いつのまにか、未だにガラケーを使ってる私も最新技術の波に呑まれている・・・そんな気がします・・・。これでいいんかねとは書きましたが、小説執筆や講評などでAIを使いこなすという事は、情報強者と化した小説書きが、(過剰なお人好しにも問題はあると思いますが)『イワンのばか』みたいに、ITに疎く愚直で地道な書き手を淘汰していくという、修羅の国と化した情報社会の現実が、果たしていい事なのか・・・そう思います・・・。『小説の神様』の千谷一也の父親を思い出しながら・・・。
実際に、AIというハイテク技術をダシに、AIを使ってラクしようとする情報弱者を口汚く罵倒し、 そうでない情報弱者には失業の不安を過激に煽るというインフルエンサーみたいな人を見るので、今後の議論(法整備やガイドライン制定も含め)が中庸かつほどほどになれば・・・と願っています・・・。安全圏から格差を煽って金にする連中ほど、最低なものはないと思うんで・・・。AI時代と聞こえはいいですが、結局都会のネオリベ的な人らが得をする事になってる部分もないか・・・とも・・・。
で、AIの講評プロンプトですが、こちらの記事(同じくnoteです)も、かなり考えさせられました。 そうだよな、ヤスリがけとして使うべきなんだよな・・・鵜呑みにするんじゃなくて・・・。結局物理的な教材と人に帰結せんと、ヤバいよなぁとも・・・。
ソースはアレなんですけど・・・実は、『昭和の謎99』という雑誌を持っていて、ちょっと前の号なんですよね・・・以前バイトしていた側にある、コンビニで買ったものなんですが・・・。で、なんかコロンバイン高校銃乱射事件を扱ったケロッピー前田氏の記事に、かなり印象のある文章があって・・・。
「この世は汚いと思ったとき、単純な純粋さを求めるほど残虐な人間の本性が露わになるのではないか。」
と・・・。
で、ケロッピー前田氏はコロンバイン高校銃乱射事件だけではなく、ISも挙げていますがやはり世の中に対する昇華のやり方として、考えてしまうものはあります。
そこを健全な良識を持っている人間が、「単純な純粋さ」 を正義や告発として作用させる事も出来る訳で、問題なのは、その辺りを暴力に見出す人間ではないかと思います。
西鉄バスジャック事件や神戸の児童連続殺傷事件、池田小学校事件などのように、間違った方法で純粋さを求めてしまったどうしようもない人達が存在し、社会に馴致される方向で純粋さを求めるのであればよい・・・という感じです・・・。
ですが、ケロッピー前田氏の指摘通り、ストレス社会に晒されている中、地道に生きるよりも大事件を起こして派手に散った方が有利だ・・・と思わせる土壌もでき上っている恐ろしさがあると思うんですよ・・・。小田急の事件があってから、一時コピーキャット犯罪が続出したみたいに・・・。勿論、私はそうじゃありませんけど・・・。
何か、一部の貧困層とか(知的)障害者とかを露悪に描く漫画って、パンクなんでしょうかね・・・?いや、違うと思うが・・・。
『パンクの系譜学』という本を持ってますけど、それ、私の出身大学におる先生にいうたら、怒られて論破されるんじゃ―ないかと・・・。まぁパンク繫がりですが、ああいうのって、イギリスで労働者階級を「チャヴ」と呼んでドツキ回す風潮と同じなんですよね・・・。ヤニカスだのクズだのいって、溜飲を下げる藁人形を作って、ヘイトにデトックス効果を求めるというか・・・。最近、香山 リカ氏の『ヘイト・悪趣味・サブカルチャー:根本敬論』でもいわれとったけど、表現の自由がサブカルの暗部が余計に出すぎたという、「規制緩和」をやりすぎたんだと思います。個人的に・・・。だから、逆に疑問を呈すと「言葉狩り」だの「ポリコレ棒」だのといった逆ギレに発展するというか・・・。
Xの指摘通り、あんなのはパンクとか叛逆じゃなくて、スラムツーリズムだと思います・・・。出版不況かどうかはわからんですが、そういうのが商業ベースに乗せられとるのがちょっと異常かな・・・とも・・・。
葉月 灯里氏の児童書『プログラムじゃありません!:トモダチとココロのつくり方』を読みました。『クララとお日さま』や(こっちの方は殆ど実体がありませんが)『恋するA・I探偵』と同じように、人工知能搭載の少女型アンドロイド、マキナが語り手となっている作品で、自我を持つAIとかロボット系とかの作品では、よく書かれているテーマだなと感じました。こういう話は一つ足を踏み外すと陳腐化しやすいですが、クラスのいじめとかAIの技術乱用とかを、アンドロイドに絡めてかなり上手く書いているなと思いました。
マキナは他者の困りごとを察知して助け、併せて人の心理を学習する為に小学5年生のクラスに転校生としてやってきました。そこで、何らかの悩みを抱えていると思しき愛名という生徒をマキナは発見しますが・・・。
それ以降の展開ですが、いじめの描き方がかなり絶妙なんですよね。※1経済的に恵まれていない家庭への偏見だったり、※2加害者の吊し上げだったり・・・ですが、この辺りを単に興味本位のギスギスや露悪を垂れ流さず、後味が悪くないようにコントロールできている所にすごさを感じました。大体、いじめや貧困家庭というと、どうしても読者対象(=子供)を説教の捌け口にしてしまいがちですが、それが無い作品こそ、問題を告発していると思うんです・・・。
それと、今日GoogleやX、それからOpenAIなどから次々とAIがリリースされ、IT技術が私達の想像の上を行くデジタル環境に晒されている訳で、当然悪用の手段もテクノロジーの発達と共に巧妙かつ過激になっていく訳です。その辺りを人工知能を主人公として告発させている辺り、かなり深い皮肉を感じましたね・・・。
こういういい意味での刺激的な要素があるからこそ、是非とも続きを読んでみたい作品です。
※1ネットでは普段から貧困家庭や生活保護受給者の側に立って政権を糾弾する割に、その口で(都合が悪くなれば)弱者を疎外してネタにするような人間が児童文学作家やその愛好家でも存在するので、登場人物の美玲のキャラクター造形は、そういう都合のいい善意とタメを張れる位の怖さがありました。
※2ここでも、『ともだち弁護士リッカ!:転校生は正義のミカタ!?』について書きましたが、愛名が 「だからこんな学級裁判みたいなこと、やめてくれる?」(124P)といってた通り、子供同士で裁判をやる事は、やっぱ美談にしちゃいかんな・・・そう再認識しました・・・。
豊林 サカネ先生の漫画『ふたりバス』を読んでいます。当然、既刊は全部買ってます。
何か、ヤマノエイ先生の『さむわんへるつ』でも感じたんですが、人間の心象風景の機微を丁寧に描いてストーリーを展開させていく作品が人気を得るのって、いい風潮(傾向)だと思います。しかも、地方都市のバスという公共交通機関がメイン舞台になっているのも・・・と感じました。悪意や害意で爆買いさせない安易さが無いというか・・・。
まぁ・・・何か公立進学とか私立受験って対立しそうな感じだし、下手な話ではどっちかをサゲてキャラクターを(後者を藁人形化して)正しく表現する・・・みたいになりそうですが、そういう構造が全く無いのもよかったなと・・・。誰もヘイトされずに話が進むのって気持ちいいよ・・・そういう意味じゃなくて・・・(汗)
私自身、田舎とある程度の都市圏(今住んでる所です)のバス乗車を経験しているので、あの狭い中での孤独感や閉塞感で生まれる人間関係・・・みたいなものってかなり臨場感を感じたんですよね・・・。
そういや話は変わりますが、電気バスって広島でじわじわ増えています。もうトロリーバスは古い・・・という事でしょうかね・・・。日本じゃ全滅したし・・・。
朝日新書の 『崖っぷちの私立大学:偏差値で測れない価値をどう見抜くか』を読みました。
全体的に、こういう系の本は正に「崖っぷち」に晒されている私大の問題点を、必要以上にスキャンダラスに書く事に終始しているものが多いと感じていましたが、世間に蔓延るBF大学のステレオタイプやそこら辺の民意にある程度(書き方は悪いですが)「忖度」したような財務省の意向などにきちんと向き合い、違う所は違うと丁寧に実態を説明している内容には好感を持てました。これは個人的な観点ですが、本書が指摘しているように例えBFの地方私大でも、相性がよく、本人が立ち位置を理解した上で努力すればちゃんと学業として成立するというケースがかなりありますし、私もそういう美大を出ていますが、卒業生が東京のギャラリー取り扱い作家になったり、教員にパンク関係で非常に実績がある人(ちゃんとそれが学生への教育として成立している)が存在しているわけですから。
そこで不満があるとすれば、たとえ中堅~中堅以下のデキる大学生や教員の話だけではなく、武雄アジア大学とか千葉科学大学とかいった「失敗例」も取り上げた上で、高等教育関係が抱える問題点を批判的に論じるというバランスを取って欲しかった・・・そういう考えがあります・・・。
ですが・・・同じ財務省の250校削減案に関して、著名な大学ジャーナリストである石渡 嶺司氏がこの記事においても豊富なデータや調査の結果を交えて「それはちょっと違うし、現実はこうなってるよ」と説明しているのに、ヤフコメでは石渡氏の揚げ足を取り、論点すり替えでBF大学淘汰論に固執している意見を沢山見かけました。だからそういう人達にはどういおうが通じない部分だってあるわけです。
だからこそ、私個人としては(特にネット受けする)高等教育関係の議論については感情論に基づくバッシングも、過度な美化に基づく存続論からも距離を取りたいと思っています。本当に国政に高等教育を晒すなら、寧ろネットのこういう両者の極論に背を向ける必要はあるんじゃないでしょうか?
特に後者に関してはただ延命目的の公立化が絡んできますし、教育は福祉だけではなく、公金投入もあるので(ある程度のインセンティブに基づき)厳しい目に晒されるのは当然だと思います。前者に関しては、財務省が(本書のように)実態をよく見ず「Fラン潰せ」という「パンとサーカス」に応じている部分があり、正にこの記事が主張している事と同じじゃないか・・・と思うわけです。
(追記)ネットに蔓延る「Fラン大学論」については、大阪はおろか、関西地方にすら一度として足を踏み入れた事が無いのに、「西成は怖い」とか「同和の闇」みたいな話を面白おかしく流布しているようなもので、何だかなぁ・・・と感じています・・・。
まぁ・・・今日は大雨という事で電車が徐行運転をして、仕事に遅れそうになりましたが・・・何とか間に合いました・・・。よかったです・・・。
で、駅で電車を待ってる時ですよ・・・。地元ではかなり有名な大学の付属高校生が二人で、口真似をしながら知的障害者の目撃談を面白おかしく話していたので、結構イラっときました。早起きという事もあったからでしょうか。もうそういう話はXでやってください・・・という気分に・・・。まぁ・・・多分、『みい山』とか読んでるんだろうなという気持ちに・・・。憶測ですけどね・・・。
それから、 何か仙石線の新型車両に中指立ててるポストが炎上してましたけど、もう鉄道ファン界隈に自浄作用を求めて何になるのか・・・そういう考えが目立ちます。真面目にやってる分、ああいう人達が余計に悪目立ちするし、何か宮脇 俊三氏や酒井 順子氏みたいな奥ゆかしく思いやりのある発言をする鉄道ファンって、本当に少ないな・・・と感じています。
何か『英国保存鉄道』という本の冒頭における小池 滋氏の寄稿を見るにあたり、社交性やTPOとは隔絶された状況で、歪んだ「お客様は神様」主義を肥大させてきたのが今の鉄道ファン界隈だと思うのです。イギリスの鉄道愛好家のように、たとえ無償であっても社交性と責任をもって、自分が「好き」とする対象をちゃんと育てていくのとは違い、日本の鉄道ファンは排他的で狭い世界から、鉄道会社にカスハラまがいの事を繰り返してきたに過ぎないのではないか・・・そう感じています・・・。私だって、ボランティアで保存鉄道を運営しろなんていわれたら到底できませんし、ただ写真を撮り、安い切符を買っているに過ぎないので同罪・・・という自覚は十分にあるんですが・・・。
まぁ・・・自分も百合好きとしてミーハーな所もありますし、最近は百合作品自体あんまし読んでねーな・・・という所はあるんですが、この話を蒸し返そうかと思います。でも、それがメインテーマというわけじゃないし・・・。
何か個人的に、(新聞記事の声を借りて)LGBTQへの反差別を表明するなら、自分のそういう態度だって当事者への抑圧になってるんじゃないかみたいな自己反省はないんか・・・? 百合にしてもBLにしても、結局は同性愛を都合よくオモチャにしてるポルノ的な側面もあるし(だから考えなしにひけらかしていい物じゃない)、考えも無しに百合好きを押しつけてくるような姿勢に、自覚はあったのかと・・・?明らかにそうじゃない児童書に百合ラベリングをするような言動だって、LGBTQへの風評加害みたいなもんはあるんじゃないか・・・と・・・。アーマードコアにおける一部のファン界隈が、ゲイヴンネタをTPOを選ばず出してくる下品さと、紙一重だよなと・・・。
まぁ・・・こういうのこっちが書いたって所詮は自己満足だし、あっちの方がはるかに影響力をもっとるしな・・・でも・・・何か違和感をずっと感じてるんですよね・・・。個人的に・・・。
久々に、新作「Happy sweeper hour!」を制作しました。下に画像をアップします。
これは、こちらの「なにものてん 2」という企画展に(キャンバス画とか絵葉書とかと一緒に)出展した自作小説の表紙絵として制作しました。うーん、なんていうのか・・・そんな光らせんでよかったと・・・後悔しています・・・。それと・・・口絵と違って本体が濃くなりすぎたな・・・と思ったり・・・。でもやる事はやり切った感じです。小説の内容も・・・少し穿ち過ぎかな・・・とか思ったりするんですよ・・・ですが、紙だけじゃなく、また電子版をBOOTHで販売したいよね・・・。その時が来たらこの公開日記で知らせます・・・。
ああ・・・でも小説なんですけど、リンク先にあらすじを書いた紙の画像がありますが、何か近年、「生きづらさ」という言葉が象徴するように、自身の相対的な苦しみとか悩みを訴えるような風潮ってないですか?ですが、そこに他者の絶対的な苦境を矮小化し、解放としてとらえる事があまりにも美談としてまかり通っているような気がして・・・という感じで、あの小説を書きました。所詮は自作ですが、やっぱり楔は打っとかんと・・・という感じで・・・。
自分の範囲に限っての話にしますが、かつては鉄道も運営していたけどそれが廃止になり、鉄道名だけが残ったバス会社があります。「下電バス」とか「トモテツバス」とかいった感じです。かつての話だと、「井笠鉄道バス」もそうでしょう。
で、最近の例だとスカイレールサービスが正に社名を象徴していたスカイレールという乗り物を廃止して、バス事業に切り替えたわけですが、あの社名・・・いつまで残っているのかな・・・と感じたりします。 社名変更はしないのか・・・。
まぁ・・・同じ新交通システムの廃止という事で、ピーチライナーと同列に語られる事がありますが、ちょっと性質が違い過ぎるだろ・・・と思います・・・。正直・・・ピーチライナーはもっとアレじゃないかと・・・。
今、私の手元にはドナ・アンドリュース氏の『恋するA・I探偵』というSFミステリ小説があります。自分を開発したプログラマーが突然失踪し、その行方を追おうとする年頃の少女っぽいAIが主人公で、AIはひそかな恋心も抱いています。まぁ、アガサ賞の最優秀賞長編賞を受賞しているんで、結構面白いんですが・・・続編が・・・という感じです・・・。
で、それを買ったのは学生時代だったのですが、今のGPTはともかく、ジェミニとかグロックとかの存在を考えると、「もうそういう時代かね・・・」としみじみ思います。ですが、そこは現実、ろくでもない部分が結構あったりするのですが・・・。
また、『恋するA・I探偵』に戻りますが、ミステリ要素以外でかなり面白いのが、実体の無いAIが故に、肉体が無ければ生きていけない人間(とその生活形態)について度々論じるシーンがあり、「どっちがおトクなんでしょう?」と考えてしまいました・・・。
まぁ・・・現時点で倫理に則った受け答えはできるものの、感情まで持ったAIは開発されていません。でも、もうそこら辺で止めといた方が・・・というのも正直な感想だったりします・・・。ミュトスの事もあるしね・・・。
色々電車の画像を見てました・・・アレの方が多めだけど(汗)・・・でも、そっちも並行しとかんと・・・と思います。来年は10回目という事だけど・・・こっちの方も大事にしとかんとと思うんで・・・客としてならと考えています・・・ぼんやりと・・・。
そういえば、『クララとお日さま』映画化おめでとうございます。「ジョジョ・ラビット」の人が監督という事で・・・いろいろ楽しみです・・・。何かカズオ・イシグロ氏というたら『わたしを離さないで』のインパクトが強すぎて・・・静謐なディストピアSF作家という印象が強いです・・・正直・・・。まぁ、『クララとお日さま』も遺伝子編集がどうたらみたいな事がいわれとったし・・・。
今日はラーメンを食べました。激辛だけど、そういう流行に乗ってるだけの味じゃなかったのがよかったです・・・何ですかね・・・昨日の文章はああだったのに・・・。
まぁ・・・絵葉書を出しとかんとな・・・ 一応は・・・。
今日、広電の循環線の時刻表を見ましたが、結構本数が・・・と思いました。
それはさておき、何か今日は(個人的に)嫌~なものを見ました。何か食通ぶってる人間があまり好きじゃないし、それを店の悪口(店員の対応が悪い、料理がまずい、などなど・・・)としてしゃべってたら・・・何だかねーという感じです・・・。何か貰った車がベンツじゃなくてBMWだったと文句を垂れとるみたいで・・・。
何か相対的な怒りや悩みはあって当たり前だと思うんです。人間ですから。でも、そういうのが時に他者の絶対的な苦境を抹消してしまう暴力性があるんじゃないか・・・そう感じています・・・。
今、線画にとりかかっています。それと・・・何か色々考えてる事があります・・・。
今日はスナックでラーメン屋やってる人がいたな・・・とか・・・。
しょーもない回想・・・(笑)
まあ、よせばいいと思いますが、某読書日記における(作品の空気を読まない)露悪ネタの押しつけは、エルサゲートを子供に提供して面白がるような連中の思考回路を見てるようで、結構不快なんですね・・・社会や個人の切実な痛み(を描いた表現)にもそういうので食い荒らしてくるから嫌というか・・・。
明日に備え・・・お金を用意しなければ・・・です・・・。
そういえば・・・何か「ロストプラネット2」のチャプター3ですが、もしかすれば・・・かつてあったシナジー幾何学のゲーム「GADGET」の影響を受けたスタッフがいたのかな・・・と思う事が・・・。砂漠を疾走する列車のムービーに、その気を感じるので・・・。列車砲の起動シーケンスも格好良かったね・・・その際に流れるAIの音声が特に・・・。
「GADGET」・・・PS1版もやったな・・・でも、CGが綺麗なPC版の方に軍配が上がるという感じです・・・。今だったら通用しないゲームシステムですが、ああいうタイプのゲームが復活してくれても・・・という感じです・・・「東脳」とか「おばあちゃんとぼくと」とか・・・。
都バスみたいな交通機関とは違い、地元のバス事業者は殆ど距離で運賃が変わります。で、私はあまり電子マネーみたいなものが好きじゃないので、未だに整理券を取ってバスに乗ってるわけですが、前にある運賃表を見ると「ああ・・・かなり遠くから来たんだな・・・」という事がわかります。特に1000円台で広電バスだと、三段峡か安芸高田の辺かな・・・とか思ったり・・・。
三段峡・・・可部線がかつてあそこまで伸びていましたが、もう殆どが更地にされて・・・という感じです・・・。で、河戸からちょっと先までの僅かな区間が復活しましたが、手放しで喜んでいいのか・・・という感じがします。だって・・・当時は廃止勧告も出てて、採算性もどうかという中で、今福線計画の為に無理やりどんどん伸ばした感が強いというか・・・。ですが、Xで受けやすい赤字ローカル線死体蹴りにもコミットしたくないんですよ・・・正直・・・。
この度、「なにものてん 2」(企画・開催:アートコンプレックスセンター様)に拙作を出展させて頂きました。この場を借りて、お世話になったスタッフの方々や、グッズ等をお買い上げくださったお客様などに、厚くお礼を申し上げます。
う~ん・・・やっぱり人外とはいえ、自律ロボという方がしっくりきたかもしれんねぇ・・・。
さて・・・これからどんどん暑くなっていくかもしれませんが、何とか・・・出展はやっていきたいです・・・それから制作も・・・。
今日、遂に東京から帰ってきました・・・。雨だと思って揺れるんじゃ・・・と思ってたけど、あんま飛行機は揺れませんでしたね・・・。朝イチを選んだからか・・・。で、乗る時はまたランプバスに乗せられて、飛行機まで・・・という感じでした・・・。こういう経験、前もあったので・・・。
でも、飛行機そのものに限っていえば、新幹線に比べてあっという間じゃね・・・まぁ倍の速度で飛ばすし・・・で、富士山が見えましたよ・・・。やっぱり『今日の芸術』で岡本 太郎氏がいいよった「八の字文化」という言葉をいつも思い出します・・・。すみませんね・・・こんな感想しか出なくて・・・もっといい言葉があるんでしょうけど・・・。
富士山・・・江ノ電に乗った時も見たな・・・。
最近、某イベントのDMを手に取って、ちょっと参加しようかと思いました。で・・・ネットでnoteとかXを見た所、本当にちょっと発言の治安が悪かったんで、参加計画はナシ&却下・・・という事で・・・。他の人も同様の指摘しとったしな・・・Xで・・・。
自分だってイベント開催する側になったら、ちゃんと聖人君子でいられる自信なんてないし、今でも聖人君子じゃないので棚上げ・・・という感じですが、やっぱり公的責任を背負う立場で文学フリマ関係とか反・反AIの立場でガラの悪い言葉や態度を選んでたら、そりゃ・・・発信が事務的なものを・・・と思う訳で・・・。
こないだもこちら側とは無関係のトラブルで、客という立場から喧嘩腰で相手にものをいってくるおじさんを目にしたばかりで、尚更ですよ・・・これは・・・。それで向こうが提供するサービスを受けようというんだから、(かなり嫌な表現ですが)正に下種の謗り食いだなと・・・。
現在、「なにものてん 2」(企画・会場:アートコンプレックスセンター様)に拙作を出展させて頂いております。設営はスタッフの方にお願いしており、この場にて厚くお礼申し上げます。
では、会場の様子をアップいたします。
それから・・・世界観の補助として、自作小説『ハッピースイーパーアワー!』も、絵葉書と一緒に出展させて頂いております。どっちかというとそっちが目玉・・・という感じで参加しようと思ったので・・・。
あらすじも写していますが、『ハッピースイーパーアワー!』は何か最近はやりの「生きづらさブーム」へのカウンター・・・みたいな感じで書いています。そこら辺、コロナを始め、「逆に起きてよかった」みたいな話をかなり見てたんで、あれ界隈、マジで風刺したかったんだよな・・・。
という事で、最終日の日曜日まで、どうかよろしくお願いします。
現在、「なにものてん 2」(企画・会場:アートコンプレックスセンター様)に出展させて頂いておりますが、アートコンプレックスセンター様でのオンラインショップでも拙作を販売中です。下記に詳細を記します。商品紹介の詳細はリンク先のページでご確認ください。
1.Shooting star 605×500mm アクリルにキャンバス 68000円(税込)
2.Imitation war 730×610mm アクリルにキャンバス 77000円(税込)
の2種類です。 どうかよろしくお願いいたします。
なお、出展についての詳しい報告は後程・・・という事で(汗)
すみません・・・本当にズボラなもので(泣)その罰かどうかはわからないけど、レストランで昼食を食べようとした時に、ウォーターサーバーと思ってスイッチを押したら、アイスが出てきた・・・何とか謝って許してもらいましたが・・・。
もうバスや電車でも冷房を使うようになり、私の家でも冷房を使うようになりました。
でも異常という言葉は使いません。ある程度は地球環境をそういう風にしたという責任感を感じており、冷房を使うんなら自業自得という事で・・・。
そういえば、はてブの受け売りになっちゃいますが、『みい山』が(知的)障害者の現実に対して理解を広げたいうのであれば、アーマード・コアシリーズの「ゲイヴン」ネタや(一昔前のメディアでさんざんやられてきた)「オカマ・レズ」ネタが果たしてLGBTQの理解促進や啓蒙に貢献したのか・・・?という話であって。あ、ちなみにゲイヴンというスラングはマジで嫌でした。
ついでに、百合やBLをそうでない作品にこじつけたり、作家がそういうのに迎合する姿勢も嫌です・・・個人的に・・・。
(2026年の6月16日にちょっと追記しました)
何か某読書日記の『ステイホーム』評で、「手を差し伸べる事は加害」みたいな事が書かれていましたが、そういう描写を手放しで礼賛する記事がかなりあって、食傷気味だった覚えがあります。
しかも、そういう記事の書き手に限り、自民党政権を非難し、貧困層に同情するような傾向が散見されましたが、そこまでいって、公助がやるべき事だから見切るのが潔いという姿勢は、正にこういうポストと同じじゃねーか・・・と思います。
自分の手を汚さずに、弱者が救われるシステムをちゃんと機能させろと講釈を垂れるのは、無いものねだりなんですよ・・・自分だってそういう卑劣さがあるから敢えていいますけどね・・・。リンク先のポストが書いている通り、「自分たちの生活は守ったまま自らの正しい立場を表明したいという大いなる欺瞞」なんですよね・・・反原発を表明しながら、被曝するのが嫌だから震災瓦礫を受け入れるな、辺野古への基地移転はダメだけど、私達の街に来ないでほしい、障害者施設は必要だけど、なぜ辺鄙な山奥にあるのか・・・こうした病巣が、「共助という甘い幻想を叩き潰した」結果の「理想郷」といえるかと・・・。
あーそれと、追記ですが「共助という甘い幻想が叩き潰」された例はいくらでもあり、その代表例が、アフリカや中東の紛争地帯だったり、関東大震災直後の首都圏、体制崩壊後のソ連だったりだったりするわけですけど、果たして現場でいい作用があったのでしょうか?だからこそ、所詮は逃げ切れる場所で、極論による美辞麗句を弄してるだけかと・・・。それをいうなら、 被災地にバスを提供したバス事業者は加害者という事だし、視覚障害者の手を引いて電車に案内する事も加害という事になりはしませんかね・・・?
何かアクセス数が、また上がっています・・・。
まぁ、インスタグラムやFacebookにリンク載せたしな・・・。また、倉敷に行く用事ができたかもしれん・・・でも、もうお金の問題であんまし遠出はできんかもな・・・。
展覧会「月を射る」(企画:川上 幸之介様 会場:KAG様)にお邪魔しました。
特に中韓へのヘイトスピーチ及び、それらのヘイト本が問題視される中、戦争加害者としての日本のルーツを冷静に検証している展示内容は、反戦系アートとしてかなり誠実なものを感じました。特に強烈だったのはガタロ氏の「人間ハ丸田カ」と、森田 玲音氏の「people」でした。ここら辺は、凡百の反戦デモに使われているイラストにはない、迫力と凄みを感じました。それは、近視眼的な個人主義や現状維持ばかり考えている所から、反戦を訴えていないからでしょう。
最近でも高市政権やトランプ政権に対し、護憲運動に基づく反戦運動が高まっていますが、その辺りで、戦争していた日本は憲法9条で更生して、平和国家として勝手に世界をリードしている気になっているような言葉も見られます。今の反戦にはリアリズムが足りないといわれていますが、必要とされるのは「日本が過去に何をしてきたか」を被害者意識や情緒抜きで冷徹に解剖していくことではないか。会場を後にして、ふとそんな事を考えました。
まぁ・・・何かすごく嫌な記事を過去に見てね・・・。
自分だって大した教育を受けました!って自信持っていえないし、今でもバイト生活だけどさ・・・でも何か腹の底で溜まっとったものはあるよね・・・。
何か教育困難校の学生は介護・福祉の重要な戦力だみたいな内容だったんですけど、ちょっと全国の介護士や保育士は、記事を読んでからマジギレすべきだと思ったんですよ・・・あの教育ライターに・・・。そして、あの教育ライターの親とか本人とかに何かあって、介護施設にきたらその記事を見せて、冷たく追い払えばいいんじゃないでしょうか?「お前らの為に空いてるベッドは無い」といい放って・・・。あんな考えで人の世話になりたいと思ってたら、かなり異常かつ傲慢だよ・・・。何かねー反原発っぽい自然派の人が、使用済み核燃料の施設は自分とは関係ない田舎に作って当たり前・・・みたいな感じだったんだよねぇ・・・。
安里 アサト氏の『エイティシックス』というライトノベルでも同じ発想で、差別する側に戦争させるみたいな話でしたが、まさにその階層版を見せつけられているような・・・感じでした・・・。たしかシンもレーナにこんな趣旨の事いってましたよね?「押しつけるのに慣れたあなた達が戦えるのか?」みたいな・・・。
それと、私はサンデル氏の発言に全部同意してるわけじゃないし、メリトクラシーには肯定的な立場ですが、『実力も運のうち:能力主義は正義か?』みたいな本で、「尊厳」を認めないからこういう事になるんでしょう・・・?という思いです・・・。
今日は仕事帰りに、実家へと寄りました。
そして家に帰りました。やっぱあそこまで行くとバスが高度を上げるから、耳がツンとするね・・・新幹線がトンネルに入った時みたいに・・・。或いは、飛行機が上昇している時か・・・。
あのウクライナにおける自助努力論ですが、ある程度は正論だと思いますが、果たして自然災害のような「有事」は経験しても、まだ本格的に他国の侵略を受けていない日本がちゃんと対応できるのか・・・と正直思います。まぁ、わかりやすい言葉はわかりやすさ故に、結構上っ面だけとられて他人叩きのダシに使われたりするもので、まさにそういう状況だと感じています。
私自身、憲法9条のルーツを多角的に検討せず、ひたすら先代から受け継いだ情緒的な被害者意識を表明しているような反戦運動(と戦争観)は好きではありません。だからこそ、ウクライナに即時停戦という暴論を投げつけるのだと思いますし。ですが、平和な安全圏で単に左派を罵倒したいから、ウクライナと同化したつもりになって自助努力論を礼賛するのも、一定の醜悪さが存在すると思うんですよ・・・。
(結構古い話ですが)なんか鬱憤晴らしの為に被害者遺族に便乗し、弁護団に懲戒請求を送る人・・・みたいな・・・。
そこら辺、虎の威を借る狐で加害欲求を晴らしたい人のノイズがかなりついてるのが結構な問題かな・・・?と・・・。
前から気になっていた、平河 ゆうき氏の児童書『くいなちゃんはゾンビ!』を読みました。
児童書で(おばけや幽霊はともかくです)主人公がゾンビっていうのはあんまり見かけんな・・・と思って手に取りましたが、宣伝通りの楽しい作品でした。児童書らしく、近年のゾンビものにありがちな、殺伐とした展開や暴力的な残酷シーンを徹底排除しているのは、よかったです。
特に後半でヴァンパイアとか(コブラのミスティーみたいに)電気使いが登場するという展開は、いささか後付け感を感じたものの、 くいな一人がゾンビだとどうしても孤立感が出てしまうので、そっちの方がいいと思いました。
そういう部分から、物語後半では弱者(マイノリティ)が必ずしも純然たる犠牲者(要するに悪に染まっている)ではないという現実をも正直に描いていて、だからこそ悪として処理せず、くいな達が仲間としてその再生を祈る所は、やはり当然の展開だといえました。そこら辺、子供向けだからこそかなり慎重に行かなければ・・・と思いますが、悪に染まった弱者をシャットダウンしたり縁を切ったりするというのは、ベーシックな倫理観が醸成していない子供に教唆すれば要らん偏見を植え付ける危険性があるので、平河先生は読者に対して正しい書き方をしていたと思いました。
まぁ、続編があるという事なんで、 稲森ぴかりをまた見てみたい気がします。やっぱり数少ない、ゾンビが主人公という稀有な児童書なんで、何とか・・・と願っています・・・。