例えば、この公開日記では何度も挙げていますが、青木 和雄氏の『ハートボイス:いつか翔べる日』という児童書では、序盤でいじめに遭っている子に対して追い打ちをかけるような教師が登場し、その姉から「あんな人、先生なんかじゃない」と吐き捨てられます。そして、同氏の『ハッピーバースデー:命輝く瞬間』でも、いじめへの無関心どころか、加担すらする教師が辛辣なタッチで描かれています。こういう所からトータルし、「いじめられる側にも問題はある」という石原慎太郎氏ライクな強者の理論で、被害者に死体蹴りをかますような対応が問題になる事は現実でもちょくちょくあります。そして、ロシアのウクライナ侵攻で一部の左派系知識人が、ロシア軍に応戦するウクライナにも問題があるように語り、停戦要求をする事にも同様のロジックは当てはまるのではないか・・・そんな考えがうっすらと浮かんでいます。
このリンク先の記事を見るにあたり、正にロシアがウクライナで行った残虐行為に対して、反戦を宣言するゼレンスキー大統領(記事執筆者の志葉 玲氏のいう通り、ブッシュ氏は侵攻側でした)にも責任があるかのように主張したり、その口で原発攻撃に無辜の民への虐殺など、他国でやりたい放題を重ねているプーチン大統領にはノータッチなど、日本の極めてローカルな出来事と世界史に残る惨事を比べるのは天と地ほど差がある・・・という認識はありますが、やっぱり被害者を責めるという点で共通点はあると思うのです。いじめだけじゃありません。(これは『鬼畜の街』という漫画でも指摘されてましたが)性犯罪の被害者に対して、誘うような恰好をしてるのが悪いとか、本当は(やられて)気持ちよかったんじゃないかみたいないい方をする人だっているわけで・・・。
そして、話を変えますが「第二次世界大戦」とウクライナ侵攻をダブらせて被害国のウクライナに責任があるかのようにいい放つ事は、ドイツと同じく敗戦国の宿痾のようなものかも知れないと感じています。「悪いのは戦争そのもの」みたいな加害責任不在の被害者意識で醸成された戦争観と反戦意識で、他国が侵略されるとなぜ戦わなければならない(ここでいっておきたいのは、私は戦争肯定者ではないという事です)のかという心理を推し量るのは限界があるのでしょう。第一、反戦系の児童書や絵本を見ても、アジアの戦争被害者にも「赦しと同情」を求めるような傲慢さが感じ取れるような作品は多々見かけるし、民主主義や自由は願っていれば天から降ってくるものと勘違いしている作品もあります。そんな所から、被害者を冷笑して敵国に優しい眼差しを向けるような論は、ある程度は地続きかと・・・。
それに、日本が経験した有事といっても大体相手が天災ですし。だからこそ、最悪の事態が訪れた時にちゃんと日本は対処できるのか・・・?そんな不安があります。最も、戦争回避への努力はすべきという事は大前提なのですが・・・。