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2025年7月2日水曜日

アナタをプロデュース

そういえば・・・もう7月ですね・・・これを入れれば、あと5日でまた1つ年を取るということですよ・・・。

で、本題に入りますが、ずっと前に、知り合いのアーティストさんがネット上で「前からあなたの活動を知ってます!いい仕事を知ってるんで是非とも!」みたいな誘いを受け、「本人のブランド性を利用している」ということで、知人を介して断った事がありました。で・・・ですよ・・・。この話って、マイクロソフトのEdgeやCopilotの強引な誘導よろしくしつこくやるべきじゃない事はわかってます。やっぱり何度もやったら個人攻撃になっちゃうし。でもね・・・。

オンライン美術館を主宰していた某観賞魚の人がいたと思いますが、あの人の「絵師さんの為に何とか」みたいなスタンスを見て、ちょうど上のエピソードを思い出したというか・・・。ブランド性の利用で成り上がるみたいな悪意はなくとも、何か人をプロデュースするという行為を、自己啓発書のような意識高めの言葉と考えだけに頼ってやろうとしているのを見て、正直認識が甘すぎるのではないか・・・と思ったり・・・。自分だって絵描きをやってる中、一部はそんな認識があるので自省も兼ねて書きますが・・・。

一時、東日本大震災発生後の10年位前に「ノマド」という職種が持て囃されたことがありました。それと同じように、アートコレクターとかパトロンとかも、何かカッコよさそうな響きがあります。ああ、アーティストだって・・・。ですが、(どんな仕事もそうなのですが)地味でやりたくない作業や努力、事務的な責任や専門知識などはある程度ついて回るものです。さっきノマドと書きましたが、当時かつてのTwitterを見ると、その当事者が(ポエミーな言葉だけを羅列してるような)セミナーに通って、ただPCを買ってスタバに行くだけで仕事が貰えるという甘い考えを持ったノマド志望者を痛烈に批判していました。だから、某観賞魚の人もアートコレクターとかパトロンに関してそんな認識だなと・・・。

私が見た限り、X上のイラスト系イベントがそこら辺をちゃんと明確にしているのに対し、あの某観賞魚の人は自分の感覚ばかりに頼ってる危なっかしい所はあると思います。そこに人を巻き込もうとしているので、(あの漫画のタイトルみたいですが)所詮は他人事だとは理解していますけど、特に駆け出しの絵師さんとか、絵が売れなくてどん底状態にある絵師さんとかに、お互いに間違ったセオリーを与えてしまうのではないか・・・と危惧しています。ボンクラ絵描きの俺から見ても、かなりあの観賞魚の人は偵察依頼の推奨とか労働の軽視とか、アート系のお仕事のメインストリームを間違った目で見とるというか・・・。はっきり書くなら、金のかからない勧誘系ギャラリーをやろうとしているようにしか見えないんですよ・・・。

今の所、あの某観賞魚の人はおだててくれる人ばっかりに囲まれて、チヤホヤされてるけど・・・何かあったらそれこそ責任とれるのか・・・?と・・・。

そして、これから選挙シーズンですが・・・これから投票日までの約2週間、公職選挙法という訳の分からないルールで条例を踏み倒し、至る所で金切り声を上げる候補者やウグイス嬢の身勝手さに我慢しながら生活しなければならないのかと考えると・・・ゲンナリします。こんな暑い中でそれをやられると・・・爆発しそうになるから・・・。



2025年7月1日火曜日

◎ムカデを描きました。

 最近、ちょっと必然性が生じてムカデを描きました。奥山 風太朗氏の『日本のむかで』から模写しました。

まぁ・・・性質上隠した方がいいかな・・・?とは思いましたが、エロじゃないのでそこまで・・・という感じで敢えてそのまま下にアップします。



何ていうのか・・・ちょっとよく描いてるロボットの仮想敵をそういう風に描きたいので、節足動物みたいな生き物がちょうど・・・という感じだったのですが、初めて練習・・・みたいなものがマッチしていたというか・・・。ロスプラのバイタルスーツとか、『終わりなき平和』の装甲服みたいに・・・。

それにはIxy氏の『それでイラストで食べていけるの?:プロはみんな気づいている 稼ぐための考え方』という本で、「絵の努力は「サボり」だ!」という文章があったのですが、マジで耳が痛かったな・・・。正直、今まで何となくデッサンや模写をやってたけど、それじゃ駄目だったんだなと・・・。

だから、次やるときは何か必然性とかも加味して・・・と思います・・・。

2025年6月30日月曜日

9月まで生きていられるか

 今日はちょっと外に出ましたが・・・めっちゃ暑い・・・。

この夏を乗り切れるかが心配です・・・。そういえば、今、シモン・ストーレンハーグ氏の『エレクトリック・ステイツ』とか『生存の迷宮』とか読んでます。

特に後者はエグいシーンがあったので、ちょっとビックリしました。何かニューロキャスターをつけた死体より怖かったね・・・ああいうのは・・・。

2025年6月29日日曜日

『トモダチごっこ』を読みました

―子どもというのは、こちらが考える以上に、自分たちの内向きな世界を築きあげ、非日常的な空間へと気ままに入り込んでしまうのかもしれない。それが子どもの創造性でもある。空想と現実を自由に行き来する子どもたちのありようを、大人の既成の言葉で翻訳してしまうと、整えられた起承転結ばかりが先行して、言葉にできない肝の部分がするりと抜けてしまう。

                   川名 壮志『謝るなら、いつでもおいで』より 


最近・・・まぁ・・・ここでネガティブ寄りの感想を書いてしまっていた、『トモダチブルー』の続編が出るということで、『トモダチごっこ:~1軍に入れたと思ってた~』を読みました。下種の謗り食いをやってる事はわかってますが、児童書を巡るああいう風潮にはある程度の「NO表明・抵抗表明」も必要だと思うので、敢えて・・・という感じです。

内容は(いささかネタバレ気味になりますが)、前作の『トモダチブルー』同様に優柔不断かつ弱めの主人公が、善人面した悪い奴に巻き込まれて、精神的自立の上に相手とのカタをつけるという所は共通しています。で、今回はクラスの人気グループに誘われて入ったものの、金をせびられて・・・という感じなのですが、本当の友人ならそんな事せんわな~と思いました。小田 ゆうあ先生の『リブラブ』でもそういうギャルっぽい悪役、出て来たなーと・・・。

で・・・私はここでも書きましたが、「イヤミス」みたいなものに、あんましいい印象を持っていません。

何か、本作の作者である宮下 恵茉氏のXにおける予告も読んだんですが、コンセプトはそうなんだと思います。ヒリヒリしたい、女の子同士のドロドロにハラハラドキドキしたい・・・。

でもね・・・子供社会の悪意やいじめ、対立とかを大人の目線で悪乗りしてスキャンダラスに表現するようなスタイルは好きじゃないです。そんなん女の子同士に限った事じゃないし、ヒリヒリとかギスギスとかみたいな言葉で、そんな痛みの表層だけ見て安易に片してんじゃねぇ!という思いが・・・。

だから、(虎の威を借る狐みたいで恐縮ですが)この記事でインタビューされていた、山田 尚子氏みたいに「ただ、今っていろんな気持ちや考え方に名前がついちゃって、本当は自分の思っていることは微妙に違っても、大きなひとくくりにされちゃうことがあるなと思っていて。
そうやって便利な言い方に巻き込まれてしまうことに対しての歯がゆさとか、怒りみたいな気持ちはありました。」という言葉にメッチャ共感するんですよ・・・正に『トモダチブルー』や『トモダチごっこ』みたいな作品が煽情的に表現している事(或いはスタンス)への刃みたいなもので、自分がそうした作品群に感じてきたモヤモヤを見事に言語化してくれてるなと・・・。やっぱり上の方で安易に片してんじゃねぇ!と書きましたが、俺もそうした怒りみたいなものはあるよな・・・。子供って、大人の想像以上に葛藤とか悩んだりしてるのに、「ドロドロ」とか「欝展開」みたいに、(それこそ山田氏がいってたような、便利な言い方で)面白おかしくパッケージングされてるというか・・・。まぁ、自分が『マコちゃん絵日記』みたいな漫画の子供や大人の描き方が好きなせいか、だからこそ、「こっちはあなた達の想像以上に傷ついてきたのに、そんな認識で商業利用するわけですか!?」と叫びたくなるような・・・それこそ負の感情が拗れてくるわけですよ・・・。

何かこうした所から、一部の新興児童書(文庫)レーベルが商業主義の為に類型的な溺愛とか露悪とかで過激化していく現状は、ちょっと考えた方がいいんじゃないかと思います。ついでにいえば、すぐに見境なく百合とかBLみたいな概念をこじつけてくるマニアみたいな存在にも、毅然とした態度はとるべきかと・・・。子供が見るような環境で、ちょっとそれはと感じてますし・・・。

まぁ、お金を得るということは資本主義社会で生きる上では必然ですが、提供者の倫理的側面はどうなんねと・・・。

2025年6月28日土曜日

スポイト機能が欲しい

 今、ようやくキャンバスの方でメカが描き終わったんで、下の方にも何か敵・・・みたいなものを描いていきたいと思います。ホントキャンバス画にもスポイト機能が欲しい・・・同じメカを描く(それと、着色する)のに結構苦労してるので・・・。

で、敵を描くためにちょっとムカデとかゲジとかを専門に集めた図鑑・・・みたいなものを図書館で借りて模写してました。敵を倒す倫理的葛藤を排除するためには、機械生命体(同じくロボットのような類)とか、甲殻類の化け物みたいにしときゃ簡単にそれができる・・・みたいな現状はあると思うんで・・・。こういう話はしたくないですが、何で魚を捌くときや害虫を駆除する時には、殆ど共感なんて沸かないのに、動物実験とか屠畜みたいなものには「権利」が適用されるべきだという議論が沸き起こるのと同じ・・・でね・・・。

イメージとしては、ロスプラでAKを蹴散らすVS・・・といった感じでしょうか・・・。

2025年6月27日金曜日

ヤフコメが異常?

― だから考える。死刑は何のためにあるのだろう。誰のためにあるのだろう。

                        森 達也『死刑』より


ああ・・・今日やっとったと思った更新が、まだできていなかった・・・。

まあ、何かあの事件の犯人がもう死刑執行されたというニュースサイトの記事を読みよったんですけど、何か・・・ヤフコメが死刑に対して余りにも素直(或いは純粋)過ぎじゃないか・・・?と思います。法務大臣をスーパーヒーローみたいに称えていたり・・・。

自分自身は死刑存置派ですが、それは自分の家族や(そんなにいませんが)友人が殺されたら、間違いなく死刑を求刑すると思うし、目には目を、歯には歯をの精神はある程度の必要悪だと思うからです。ですが・・・みんな他人事過ぎません?死刑制度というのはもし何かあったら、『死役所』みたいに無罪の人を処刑してしまう(『モリのアサガオ』が「司法の犯罪」と評したように)恐ろしい側面が存在するし、相手、つまり確定死刑囚は腐っても人間だし、死刑制度は外野が簡単に「殺せ」という大合唱で済されるようなものじゃないはずです。いや、「はず」ではなく「じゃないもの」と断定すべきでしょう。もし冤罪で死刑が執行されれば、得意げに法務大臣や刑務官をヨイショしていた人達が、今度は彼らを殺せとネットで喚き始めるはずです。『身銭を切れ』ではないですが、この公開日記も含め、何のダウンサイドを負っていない議論なんて、所詮その程度なんです・・・。

自慢じゃありませんが、私は小学生の時に『淳』という被害者遺族の手記を読んだ影響からか、死刑や犯罪被害者遺族の手記やノンフィクションをよく読んでいます。だからこそ書きますが、ヤフコメみたいなものを見るとそこら辺への教養や知識が欠けたまま、ワイドショー感覚で死刑を持て囃す人達が余りにも多い、という残念な現実があるわけです。溜飲を下げるためにいい加減な感覚で、ただ「殺せ」と叫ぶ人がどれほど存在する事か・・・。だからこそ、死刑制度を(肯定として)考えるにはそんな国民的ダウンサイドを取らない癖に、その権利だけは遊び感覚で要求しているような幼稚な議論にも、手厳しい目線を浴びせなければ・・・と感じるのです・・・。これじゃ「グリーンマイル」のパーシーやで・・・。それに、現場を見てないからそんな簡単に「死んで当然」とか大声でいえるんじゃ・・・。


2025年6月26日木曜日

運が良かった

 何か『ワンダー』とか『最強のふたり』とかいった作品で障害者差別とか平等・・・みたいなものを語られても、正直しっくりこない自分がいます。

だって、両作品ともある程度は困窮とは真逆の裕福(実家が太い)で、正常な知能を有しているじゃないですか・・・。オギーはちゃんと勉強ができてたし・・・。

まぁ・・・小学生の時に学校の図書室にあった『どんぐりの家』を読んだ事もあるし、重度(及び軽度)の知的障害者の存在もたくさん知ってる身としては、綺麗すぎるなと・・・。特に『どんぐりの家』って、オギーみたいな子ができることができない子供達の現実、つまり自傷行為や粗相、保護者や支援者の葛藤などが、結構苛烈なタッチで描かれてたので・・・。甘いなと思うんです・・・。それだけで差別を語るには・・・。

何か、もりやまつる先生の『オバハンSOUL』という漫画で、「生きているだけで100点満点」というセリフがありました。ですが、みんながみんな(湯浅 誠氏がいう所の「溜め」みたいなもの)オギーやフィリップみたいじゃない状況で、実際には「生きているだけで100点満点」というテストに合格できるかどうかという熾烈な戦いが存在しているのだと思います。要するに、生きているだけで点数どころじゃなく、その問題を解くことで精一杯という子だっているわけです。だから、「普通に話せる」障害者ばかりが反差別や反偏見のアイコンとして使われている現状も・・・と感じています。それは『ワンダー』のスピンオフである『ホワイトバード』でも感じたのですが・・・。やっぱり、トゥルトーじゃなくて、そこはエリザベート・ツェラー氏の『アントン:命の重さ』の方がかなり痛切でリアルな書き方をされてたと思うんですよ・・・。障害者に対する結末は『ホワイトバード』の方が暗いかもしれません。ですが、一般受けする障害者を出さず、(当時のナチス・ドイツの社会体制に基づく)そこら辺の無慈悲さとリアリティでいえば、やっぱり『アントン:命の重さ』じゃないかなと・・・。すみません、一生懸命『ワンダー』を書かれたR・J・パラシオ氏には申し訳ない答えになってしまいましたが・・・。

正直にいえば、身体障害に対する差別にはあれほど怒りや反意を表明する風潮の裏で、この国のポップカルチャーにおいて知的障害や精神疾患への誤解や差別意識を助長するような作品が普通に流通していると思いますし・・・。だって、「コミュ障」とか「アスペ」みたいなものに加えて、「チー牛」という言葉が漫画に使われてるのを見たんですよ・・・?あの時はマジで衝撃を覚えました・・・。所詮あのチャリティー番組みたいに、最低限話が通じる障害者ばかりを可愛がり、それ以外の障害者を害悪やイジリの対象としてとして差別を容認してきた、この国の身勝手で冷淡な現状が横たわってるのだなと・・・。

それと・・・本題に戻りますが、いじめの加害者であるジュリアンを排除することは、(現実に照らし合わせれば)学級経営としてはある程度正しいことだと思います。ですが、いじめや差別の首謀者を一方的に排除して良しとすることは、結果(ジュリアンに加担していた)みんなが無反省で手のひら返しでオギーにすり寄る・・・という話であって、あんまし差別やいじめを語る文脈として機能させるには・・・と正直思います・・・。

ああ・・・ジュリアン繋がりですが・・・何かとあるブログで映画版の『ワンダー』に言及していた記事があり、ジャックに共感していた管理人がジュリアンを叩いているのを目にしましたが、あれは散々戦争に協力しながら戦後になると被害者意識ありきで戦争を語り、A級戦犯を叩き始めた日本国民の姿を思い浮かべました・・・。ああ、(『ホワイトバード』を引き合いに出したんで)ドイツもそうだったよね・・・何か全部ヒトラー政権のせいにして、イスラエルの補償にも冷淡だったって、『犠牲者意識ナショナリズム』で読んだので・・・。