何かXを覗いていると、「アニメ・アート・ビデオ・コレクション 童話」という言葉が何度も出てきて、強制的に幼稚園の時に時空が戻されるような衝撃を覚えました。いや・・・全部じゃないけど、「おにぎりころりん/うらしま太郎」「あかずきんちゃん/マッチ売りの少女」が収録されたものだったら観ましたよ・・・何度も・・・。しかも、一部の脚本を務めているのがあの舟崎 克彦氏じゃないですか・・・!再確認したら・・・!
で、一番印象に残ってるのが、「マッチ売りの少女」と「うらしま太郎」なんですよね。ちょっと調べればわかるかもしれないですが、両作ともバッドエンドじゃないですか。女の子は最後死ぬし、浦島太郎も玉手箱を開けると、凛々しい若者からおじいさんになってしまうし・・・。だからこそ、良作としてインパクトに刻まれたんだと思います。
なぜ、バッドエンドなのに良作なのか?(また例に挙げますが)「インサイド・ヘッド」というアニメ映画では「悲しみなくして人生の恵み無し」というメッセージが発せられていましたが、「アニメ・アート・ビデオ・コレクション 童話」も半端なアニメ作品だったらみんな不幸を回避してハッピーエンドにすると思うんですよ。実際、マッチ売りの少女もこちらの記事みたいに、死なずに済むという改変がなされている作品があるみたいですし。
基本的には、児童書や絵本で「死」を扱うことは基本的にタブーではありません。ですが、扱い方を間違えると要らん傷を負わせる悪書に堕す事もあります。それに、キャラクターの死に関して同情して感涙することは、日本人特有の悪癖と処理する余地だってあります。「フランダースの犬」に対する現地の反応を見ればわかるように。
それでも敢えて書きますが、こうしたバッドエンドによる作品も、タイミングが合えば多少は・・・という感じはします。あまり賛同できる部分は少なかったですが『国家の品格』という新書でも、「人の命は儚いから大事」 という趣旨の文章があったと思うし、結果として繊細な「死」の描写(それは白血病や癌、そして関係者をいい加減に描くような、難病ものやケータイ小説とは違います)が、どこかで他者尊重や同情の感情を醸成する良い機会になったりしていると思うんです。自分の言葉が生存バイアスなのは承知してるし、興味本位やタブー破り目的で文芸的価値を免罪符にした無責任な表現は論外だと認識した上で・・・ですが・・・。しかも、名作童話を粗製乱造ではなく、一流のスタッフが持てる力を注ぎこみ、至高のアニメ作品として昇華させた事も私の記憶に本作が残った一因だなと・・・。
こういう所から、まぁ・・・これ何度か書いてるだろうけど、私は「アニメ然」としたアニメ、つまりオタク向けの内向的で矢鱈ととんがった作品や、類型的なエモさだけで構成されているような作品ではなく、子供向けといわれるジャンルで一流のスタッフ達がフルスイングをかましてるような作品と本当に相性がいいんだなと思います。
最近・・・といってもかなり前(10年前くらい)だけど、「大きい1年生と小さな2年生」とか「日なたのアオシグレ」とかマジで好きだったし・・・。 もっと過去の例でいえば、「ベイベーばあちゃん」だったりするんだよね・・・あれも死者がテーマだったっけか・・・。あ、それと「窓際のトットちゃん」もね・・・あれも死別のシーンがあるよね・・・。