また、映画版も含めて性懲りもなくR・J・パラシオ氏の『ワンダー』(と、「ワンダー 君は太陽)の話がしたいと思います。主に第1作なのですが・・・。
まぁ・・・いじめの加害者として、追放に近い最後を迎えたジュリアンですが、いじめや差別を考えるなら、その結末や彼の章が書かれなかったのは、やっぱり致命的だなと・・・。後に取ってつけたように彼は実はいい奴で更生したという事になっていますが、それすらも自覚なしに続けて行われるのが、差別やいじめの現実なんだと感じています・・・。実際にジュリアンは『ホワイトバード』ではデモに参加するくらい成長していますが、丘 修三氏の『ぼくのお姉さん』みたいに善良な人が保身のために(ちょっとした落とし穴みたいなもので)悪に堕してしまうケースを描く方が、よほど現実的だと思うのは私だけでしょうか?
実際に、最近よくJRに乗っていて、やっぱり誰の心にもジュリアンは存在するのではないか・・・そんな思いがよぎったことがあります。「金八先生ファイナル」でも、「悪はどこにありますか?」という説教があったと思いますが、自分はそんなことしないという正義感だけではなく、そういった内省と自覚があって初めて反差別みたいな話に近づけるのだと考えています・・・。
まぁ・・・蒸し返すようですがオギーの知能は正常だからああいう話になったわけで、公衆衛生や健常者の目線から照らし合わせると、上に書いた通り誰もがジュリアンに堕してしまう危険性のある状況はあるわけです。現実に、知的発達の遅れをバカにしたり悪魔化するような漫画って、X上でちょくちょく見てるしな・・・。植松 聖みたいに一線を越える奴は殆どいませんが、障害者に対して彼みたいな発想をする人間はごまんとおる・・・。