また『ステイホーム』への愚痴になりますが、るるこが聖子おばさんとリノベーションをしていく際に、断捨離のノウハウをネグレクト姉妹に対して行う事(勿論肯定的なタッチです)への指摘がありました。人間はモノとは違うだろ・・・デイブ・ペルザー氏ではありませんが、児童書で(自分より弱い)人間を「It」へと矮小化し、切り捨てるような描写はどうなのかと・・・そうしてもいいロジックが作り上げられいても、ですが・・・。
ああいう社会的弱者を悪魔化して戦争を仕掛け、屈服させるようなシーンは殆ど手放しで礼賛されています。ですがそれを肯定しているレビュアー達は自分の場合になるとどういう態度を取るのでしょうか?多分「公助に丸投げして自分達を見捨てるのか?せめておにぎりだけでも寄こせよ!」とキレると思います。これは賭けたっていいです。
『ファスト教養』の受け売りになりますが、コロナ感染は自己責任という考えが日本では米英の10倍らしいので、だからこうした個人主義という都合のいい言い訳でコーティングされた自己責任論や、「コロナのおかげで働き方改革がなされてよかった」という現実を直視しない勘違い理論みたいなものが、日本では受けるのかもしれません。
それと、つけ加えておきますが、神宮 輝夫氏は『児童文学の中の子ども』でこう書いています。以前もここで引用したのですが、改めて・・・。
「最低のものは、大人である作者が、その理想とする生き方をのみ語ろうとする作品である。児童文学の全歴史を通じて、じつはこの手の作品がもっとも多かった。大人の立場のみから他宗教を非難したり、政治の現状を批判したり、あらまほしい国家形態や社会図をえがくものは、大人から大人へ手渡されているかぎり意味はあっても、子どもとは無縁な芸術といわなくてはならない。」
正直、『ステイホーム』が有する逆張りの理論やそれが(殆ど)無批判に持て囃されるような状況で、もっと子供への影響を考えた慎重な議論があっていいはずです。実際、るるこの家庭のように悠長にバーベキューやリノベーションができるような家庭などほんの少数で、多くの子供がDVや学力低下の脅威に晒され、自殺者だって出ているのです。そんな状況で社会正義や教育制度はクソだといってのける木地 雅映子氏の取り巻きのような存在に対して、無縁とはいわなくても神宮氏が指摘する「大人の立場のみから他宗教を非難したり、政治の現状を批判したり、あらまほしい国家形態や社会図をえがくもの」お気持ちはある程度は正しいのではと思います。自分達がこんな状況で好き勝手やれるのも、ギリギリの状況で己がクソだと思っている義務や責任を果たす人達がいるからじゃないですか?
なお、私自身の観点ですが「コロナのおかげ」という言葉は、一時勃興していた反・反原発本における「寧ろホルミシス効果が認められるから、福島の事故は問題ない!」 とか「直接的な死者は皆無だから、福島は死者数の少ないチェルノブイリと同じように安全!」とか安全圏でいってるような著者と同じような感性だよねーとうっすら感じたりするわけです・・・。