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2024年12月3日火曜日

『現代日本の児童文学』について

 まあ・・・過去に引用としてちょくちょく取り上げたことがある、神宮 輝夫氏の児童文学の評論集『現代日本の児童文学』について、本格的に書きたいなーと思っていましたけど、故人をディスることになっても・・・という後ろめたさもあり、距離を置いていましたが、今日あえて一歩踏み込んでいきたいと思います。

現代日本・・・といっても本書が刊行されたのはずっと昔の話、1975年(の当時)ですが、やっぱり今の一部における児童書や児童文学作家の姿勢については、うなずける部分は多くありました。まあ・・・なんていうのか、児童書というフィールドで政治的問題や時代のトレンドを追うことが、作家のあざとい説教に堕していることはよくあり、SNSにおいても(多くの子供が見ているような状況で)政治的にどぎついポストを見境なくリポストする児童文学作家や絵本作家もいる中で、こうしたクリエイター達の独りよがりな正義感に冷水を浴びせる視点は令和の現在でも通用するものだと思います。特に幼年童話で戦争や差別などの社会問題をテーマとすることについての批判は、そりゃそうだなと思うし、一番同意している部分でした。

ただ・・・そういう所から、どうも社会の現実に対して理想を表明したり、求めること自体を腐しているような箇所があり、それがちょっとこっちをブラックな気持ちにさせたというか・・・。例えば、こうした文章です。

「職業、財産、生まれによる貴賎はなく、人間は協力し合うのが正しい姿である、といった考えは、だれしもその通りだと思うのだが、そうした美徳や正しい考えの大部分は、じっさいに効力をもっていない。やがて大人になる人たちに知ってほしいことを伝達する機能をリアリスティックな作品がもつべきであるなら、なぜ理想と現実がちがうかをえがいてこそ、文学である。ところが、じっさいは、その反対のことがうがかれるから、理想的な考えはすべて類型に堕してしまう。類型によりかかり、死んだ美徳をうったえる作家たちには、児童は向くな心をもち、その心に訴えれば、理想はいつか花ひらくという一種の信仰があると思う。」

・・・これは私見ですが、リアリストぶりながらリベラル寄りの考え方を腐すような文章に、私ははっきりいえば、ネットを中心に活動している逆張り冷笑系のルーツをちらちらと見ました。神宮氏はそういう所から、教育格差や世の中の裏表だけではなく、(当時の鉱夫という職業に無理解や偏見ともいえる私見を呈した上で)職業差別まで是認するようなことを書いていますが、これを一般作家はともかく、児童文学に携わる人間が発していたということに、正直見識を疑わざるを得ませんでした。

理論の飛躍かもしれませんが、理想に対して神宮氏は「じっさいに効力をもっていな」く、「死んだ美徳」と嘲るような書き方をしているわけですが、実際に「倫理的にそうあるべき」という考えの前で、いじめや差別、そして格差などが厳然と存在していることは、効力を持たないこととは別のことでしょう。

(もう昔の本なので今と比べても仕方がないのかもしれませんが)こうしたニヒリスティック寄りの態度自体、差別やいじめ等に真摯に向き合ってきた児童文学や絵本のみならず、社会運動やその当事者への侮辱だと思います。例えるなら、(論理が飛躍してることは自覚してますが)「差別はずっと存続してるのに、ブラック・ライブズ・マターみたいなことをやって意味があるのか?」という無神経さと同じでしょう。

だからこそ、単に微笑ましいワンダーランドではない、社会悪を(モラルや正義に基づき)告発する児童書や絵本の存在も、ある程度はまた必要悪だと思うのです・・・。正直、社会問題を描いた絵本や童話は存在しますが、その中にも名作があることもまた事実でして・・・。