「 「黒い雨」ありがとー!」という作品を描きました。下に画像をアップします。
まあ・・・一応センシティブな領域に足を突っ込んではいますが、寧ろ拙作はそれを礼賛したり、肯定したりするのではなく、「タブー破りの快感」みたいなものへのアンチテーゼや風刺・・・みたいな感じで描きました。最近『「黒い雨」訴訟』という本を読んだこともあるのですが・・・。
で、タイトルは『ステイホーム』という児童書で主人公がいっていた、「コロナ、ありがとー!」という台詞を使ったものです。まあ・・・あの作品に関してはこの公開日記で何度か書いてはいましたが、あんまし批判意見がないというのもヤバいという気がしていて・・・。
さて、本題に戻りますが、『ステイホーム』みたいな表現と併せてみて、結構「タブー」を破ることって、文化の上での(必要悪的な)権利といっていいような認識をする人達って、結構いるじゃないですか。私だって作品によっては過激な表現が好きですし、時にはいってはいけないことをいう必要性は理解しています。ですがね・・・。
そうした界隈の人達っていうのは、すごく無邪気だと思うんです。ですが、子供のような微笑ましい無邪気さじゃなく、寧ろまだ善悪の区別がついていない子供が、野良猫に石をぶつけて楽しむような 、どす黒い無邪気さです。
『戦争論妄想論』というアンソロジー集で、中西 新太郎氏が「タブー破りの快感」について書かれていましたが、中西氏の言葉通り、そういうカタルシスに基づく表現は「これ以上考えてはいけないことだ」とか「いってはいけない」みたいな安全弁を無力化してしまう恐ろしさがあります。それに、特定の被害者に対するセカンドレイプ的な暴力的作用も含まれるでしょう。拙作ではそういうセンシティブな表現としてターゲットになりやすい部分や、結果として認識が加害行為(拙作における、原爆やコロナなどの表現)の表層的な箇所にしか留まらない・・・ということを表現したつもりですが・・・。だからこそ、(洋介犬先生の受け売りになりますが)みんなが勝ち取ってきた良識やルールみたいなものを逆張りで踏み倒すことへの空疎さ・・・みたいなものも含めています・・・。
『ステイホーム』では(感染者や死亡者のことへの同情みたいな)コロナ禍に対する良識を、生きづらさの解毒剤として退けていましたが、そこら辺に対するアマチュア評論家みたいな存在の無邪気さはまさに上述したそれなんです。拙作の左上の部分にも、「ONE MORE」と書かれていますが、そういうことが凡庸な表現よりも高尚で優れてるみたいな認識って、ありませんか?
で、それが許されるんなら、「津波が起きてよかった」とか、「原発事故?知らんがな」みたいなことだって自由に発想できてしまえるわけで、そこら辺に対する暴力的作用やセカンドレイプ的な作用から目を背け、寧ろそこから発せられた声を文化的特権を振りかざして圧殺しようとするのが、今の創作界隈の一部で起きている現象だなと思ったりします・・・。
こういう所から、拙作の真ん中にいる女の子は、そういう被害の擬人化としても、ただ逆らってイキってた分、自分が良識に依存しながら社会の良識を踏み倒そうとしていた・・・という罪深さに泣いている・・・どっちともとれるように表現しています・・・。