(一部の表現を書き換えました)
ここでも、エピグラフとして紹介しましたが、香山 リカ氏の新書『いまどきの「常識」』で過去の経験と照らし合わせて一方的に自分語りをする学生へのお気持ちが書かれていました。
それと同様にネット、特にSNSでは分断語りがバズりやすい傾向にあると思われます。ていうか、極端な言葉で社会における格差みたいなものをしたり顔で語れば語るほどバズるという光景はちょくちょく見てるわけですが・・・。
で、『いまどきの「常識」』の話になりますが、香山氏は自身の講義から学生が自分の身の上話ばかり引き合いに出してくることを批判的に書いていましたが、今の分断語りにも同じような自己中心性が見られるような気がしてなりません。
お粗末な形でエリートVS貧困層(もしくは庶民)の対立を煽り、雑な能力主義批判やいかに自分の育ちがアレで頑張ってきたか、いかに公立がクソだったかを(視野の狭い経験談に頼ってるだけで)語るポストというのは、私からいわせれば傷の舐め合い以上の機能は持っておらず、多目くんを見下すのび太のような民度しか持ちあわせいないというのが現状でしょう。問題は、それらがあたかも真実や社会問題の一環として効用を持っている・あるいは持つべきかのように語られていることです。悪貨は良貨を駆逐するとでもいうのかな・・・?
ていうか、正直ああした系のポストの(被害者意識に基づく)リポストを見るにあたり、自分がそうした環境に置かれていたことを恨み辛みで振りかざす言葉を見る度に、『ヤッさん』という小説の「ありきたりな身の上話は終わりか?」という台詞がちらついてくるわけです・・・。
だからこそ、福祉や格差に絡んだ問題というのはそういうスキャンダラスな話に汚染されがちですが、そろそろ真面目な人(や当事者)がバカを見ないためにも、クオリティの高く、責任感のある議論が被害者意識を慰撫するだけの、インプレゾンビが群がりやすい議論より優先されるべきだし、後者にはそろそろ誰かが明確な批判を下しても・・・と日々考えています。そう・・・格差論でバズってるポストって、ロクなもんがないから・・・。