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2026年10月22日木曜日

『ゆうれいフェルピンの話』の記憶

 本当に・・・これは申し訳ない話になりますが、小学生の頃、両親に広島駅近くの書店(今、中央図書館がある場所です)に連れて行ってもらい、立ち読みをさせもらっていた所、偶然『ゆうれいフェルピンの話』という絵本を手に取ってしまった事がありました。

この作者はアストリッド・リンドグレーン氏で、児童書や絵本に詳しい人なら、もうどんな人かはわかるはずです。 『やねのうえのカールソン』や、『長くつ下のピッピ』といえば、「ああ、あの人か」という感じでしょうか・・・。
で、基本児童書や絵本をメインに書いている人が、それらの媒体でふとダークな話を書く事があります。その辺りで見ると、那須 正幹氏の『ねんどの神さま』とか、内田 麟太郎氏の『ひとのなみだ』でしょうか。

本題に戻りますが、『ゆうれいフェルピンの話』で一番恐ろしかったのは、表紙でイロン・ヴィークランド氏の手で、おちゃらけたいたずら男フェルピン(鶏の脚を両手で持って振り回している!)が描かれてるんですが、ページをめくると中表紙でもうゾンビのようになったフェルピンの顔が描かれています。しかも、(先程もゾンビといいましたが)神すら恐れぬ真似をした事で、 変わり果てた死体となって生き続けたフェルピンのイラストと共に、当時の私は数週間ほどその悪夢に悩まされる事になりました。ついでに、その浄化として自由帳にお手伝いさんがフェルピンを背負って歩く絵を、3枚程度描いていたような気がします。

今ではトラウマ絵本とかトラウマ児童書といって笑ってすます事ができる話ですが、私はそういう一言で怖い話を片す風潮に、あんまし乗れない気分です。そこら辺、単なる露悪を子供に押し付けるような独り善がりな悪乗りがあったり、(『学校の怪談』シリーズや『怪談レストラン』シリーズはともかく、の話ですが)※『怪談えほん』のように、メインの読者たる子供とのコンセンサスを経ず、恐怖を語る大人の立場だけが独り歩きしているような作品も散見される中、その辺りが見落としている奥ゆかしさや不安だけでは割り切れないもの・・・を見ていきたいと私は感じています。

あの時、おばあさんの話を聞いた後でフェルピンにつかまったという誤解と絶望感に叩き落とされた少女を助け、 抱いてくれる父親の様な存在だって、子供向けの「怖い話」、特に絵本という媒体でも必要だという事を、私達は忘れてるのかもしれません。

 
※『怪談えほん』については、こちらの文章でも書いていますので、よかったら・・・という感じです・・・。全部が全部だめという訳ではなく、怪談として良質なものがあるのも確か・・・なんですが・・・。