「インサイド・ヘッド」や「エディ・マーフィの劇的1週間」等、多くの作品で空想の友達、つまりイマジナリー・フレンドが題材になっていますが、終盤で消滅したりお別れをしたり、そこで友達だった相手の精神的自立を謳うような表現で締めくくられています。「パンズ・ラビリンス」という映画でも、苛烈な現実だからこそ、甘い幻想でも逃げたくなるような世界が冷厳に描かれていました。
ですが、最近観た「ブルー きみは大丈夫」はそうではありませんでした。いささかネタバレになって恐縮ながら、最初に書いたような感じみたいに空想の友達を持つことは、子供だからこそ許されることであり、そうした世界を大人になっても有していることは能天気な楽観であり、甘えともとらえられがちです。だからこそ、最後に「捨てる」ことが自立の選択肢として呈されるわけですが、本作ではきちんとした説得のもとに、自立した大人だからこそ、その為に捨ててしまった概念は必要になるというメッセージが描かれていました。そして、空想は決して逃避の為の幻想じゃないという、作り手の強い意志も感じられました。
まあ、私が(ブルーの声を担当した)スティーブ・カレル氏が好きだったこともありますし、空想の友達が見えるカルというキャラクターに関しても、シックス・センス寄りの巧みな伏線が張りめぐらされていて、「なるほど!」と思いました・・・。
ですが、こうした「生きづらさ」 や「強さ」に対するアンチテーゼ的な作品は近年でかなり増えてきたように思われます。ですが、敢えて逆張り的な発言になりますが、こうしたメッセージは甘えを捨て、自立心を持って生きてきた人間だからこそ機能するものであり、もとからそれがない、育てようとしない人間には慰撫という害毒にしかならない、そういうリスクも孕んでいると感じています。実際、慰撫ありきの作品もあるわけだしね・・・。邦画なんかそうじゃないか・・・。