今日はちょっと外に出ましたが・・・めっちゃ暑い・・・。
この夏を乗り切れるかが心配です・・・。そういえば、今、シモン・ストーレンハーグ氏の『エレクトリック・ステイツ』とか『生存の迷宮』とか読んでます。
特に後者はエグいシーンがあったので、ちょっとビックリしました。何かニューロキャスターをつけた死体より怖かったね・・・ああいうのは・・・。
画家、藤高昇太の公開日記(ブログ)です。主に出展のお知らせや、近況などを書いていきたいと思います。なお、整理のために一部の記事が削除される事がありますので、ご了承ください。 ◎本ブログの文章の一部引用および画像の無断転載を許可いたしますが、以下の注意を守ったうえで、自己責任でお使いください。1.営利目的・非営利目的(何らかの収入を伴わない)に関わらず、出典の明記は大体わかる形でもかまいません。そちらのご都合に任せます。 2.政治的・社会的な信条にかかわらず、いかなる表現も許可いたしますが、最低限のTPOとモラルを守ったうえでご使用お願いいたします。なお、タイトルに◎がついた作品は、版権ネタですので無断転載をご遠慮ください。
今日はちょっと外に出ましたが・・・めっちゃ暑い・・・。
この夏を乗り切れるかが心配です・・・。そういえば、今、シモン・ストーレンハーグ氏の『エレクトリック・ステイツ』とか『生存の迷宮』とか読んでます。
特に後者はエグいシーンがあったので、ちょっとビックリしました。何かニューロキャスターをつけた死体より怖かったね・・・ああいうのは・・・。
―子どもというのは、こちらが考える以上に、自分たちの内向きな世界を築きあげ、非日常的な空間へと気ままに入り込んでしまうのかもしれない。それが子どもの創造性でもある。空想と現実を自由に行き来する子どもたちのありようを、大人の既成の言葉で翻訳してしまうと、整えられた起承転結ばかりが先行して、言葉にできない肝の部分がするりと抜けてしまう。
川名 壮志『謝るなら、いつでもおいで』より
最近・・・まぁ・・・ここでネガティブ寄りの感想を書いてしまっていた、『トモダチブルー』の続編が出るということで、『トモダチごっこ:~1軍に入れたと思ってた~』を読みました。下種の謗り食いをやってる事はわかってますが、児童書を巡るああいう風潮にはある程度の「NO表明・抵抗表明」も必要だと思うので、敢えて・・・という感じです。
内容は(いささかネタバレ気味になりますが)、前作の『トモダチブルー』同様に優柔不断かつ弱めの主人公が、善人面した悪い奴に巻き込まれて、精神的自立の上に相手とのカタをつけるという所は共通しています。で、今回はクラスの人気グループに誘われて入ったものの、金をせびられて・・・という感じなのですが、本当の友人ならそんな事せんわな~と思いました。小田 ゆうあ先生の『リブラブ』でもそういうギャルっぽい悪役、出て来たなーと・・・。
で・・・私はここでも書きましたが、「イヤミス」みたいなものに、あんましいい印象を持っていません。
何か、本作の作者である宮下 恵茉氏のXにおける予告も読んだんですが、コンセプトはそうなんだと思います。ヒリヒリしたい、女の子同士のドロドロにハラハラドキドキしたい・・・。
でもね・・・子供社会の悪意やいじめ、対立とかを大人の目線で悪乗りしてスキャンダラスに表現するようなスタイルは好きじゃないです。そんなん女の子同士に限った事じゃないし、ヒリヒリとかギスギスとかみたいな言葉で、そんな痛みの表層だけ見て安易に片してんじゃねぇ!という思いが・・・。
だから、(虎の威を借る狐みたいで恐縮ですが)この記事でインタビューされていた、山田 尚子氏みたいに「ただ、今っていろんな気持ちや考え方に名前がついちゃって、本当は自分の思っていることは微妙に違っても、大きなひとくくりにされちゃうことがあるなと思っていて。
そうやって便利な言い方に巻き込まれてしまうことに対しての歯がゆさとか、怒りみたいな気持ちはありました。」という言葉にメッチャ共感するんですよ・・・正に『トモダチブルー』や『トモダチごっこ』みたいな作品が煽情的に表現している事(或いはスタンス)への刃みたいなもので、自分がそうした作品群に感じてきたモヤモヤを見事に言語化してくれてるなと・・・。やっぱり上の方で安易に片してんじゃねぇ!と書きましたが、俺もそうした怒りみたいなものはあるよな・・・。子供って、大人の想像以上に葛藤とか悩んだりしてるのに、「ドロドロ」とか「欝展開」みたいに、(それこそ山田氏がいってたような、便利な言い方で)面白おかしくパッケージングされてるというか・・・。まぁ、自分が『マコちゃん絵日記』みたいな漫画の子供や大人の描き方が好きなせいか、だからこそ、「こっちはあなた達の想像以上に傷ついてきたのに、そんな認識で商業利用するわけですか!?」と叫びたくなるような・・・それこそ負の感情が拗れてくるわけですよ・・・。
何かこうした所から、一部の新興児童書(文庫)レーベルが商業主義の為に類型的な溺愛とか露悪とかで過激化していく現状は、ちょっと考えた方がいいんじゃないかと思います。ついでにいえば、すぐに見境なく百合とかBLみたいな概念をこじつけてくるマニアみたいな存在にも、毅然とした態度はとるべきかと・・・。子供が見るような環境で、ちょっとそれはと感じてますし・・・。
まぁ、お金を得るということは資本主義社会で生きる上では必然ですが、提供者の倫理的側面はどうなんねと・・・。
今、ようやくキャンバスの方でメカが描き終わったんで、下の方にも何か敵・・・みたいなものを描いていきたいと思います。ホントキャンバス画にもスポイト機能が欲しい・・・同じメカを描く(それと、着色する)のに結構苦労してるので・・・。
で、敵を描くためにちょっとムカデとかゲジとかを専門に集めた図鑑・・・みたいなものを図書館で借りて模写してました。敵を倒す倫理的葛藤を排除するためには、機械生命体(同じくロボットのような類)とか、甲殻類の化け物みたいにしときゃ簡単にそれができる・・・みたいな現状はあると思うんで・・・。こういう話はしたくないですが、何で魚を捌くときや害虫を駆除する時には、殆ど共感なんて沸かないのに、動物実験とか屠畜みたいなものには「権利」が適用されるべきだという議論が沸き起こるのと同じ・・・でね・・・。
イメージとしては、ロスプラでAKを蹴散らすVS・・・といった感じでしょうか・・・。
― だから考える。死刑は何のためにあるのだろう。誰のためにあるのだろう。
森 達也『死刑』より
ああ・・・今日やっとったと思った更新が、まだできていなかった・・・。
まあ、何かあの事件の犯人がもう死刑執行されたというニュースサイトの記事を読みよったんですけど、何か・・・ヤフコメが死刑に対して余りにも素直(或いは純粋)過ぎじゃないか・・・?と思います。法務大臣をスーパーヒーローみたいに称えていたり・・・。
自分自身は死刑存置派ですが、それは自分の家族や(そんなにいませんが)友人が殺されたら、間違いなく死刑を求刑すると思うし、目には目を、歯には歯をの精神はある程度の必要悪だと思うからです。ですが・・・みんな他人事過ぎません?死刑制度というのはもし何かあったら、『死役所』みたいに無罪の人を処刑してしまう(『モリのアサガオ』が「司法の犯罪」と評したように)恐ろしい側面が存在するし、相手、つまり確定死刑囚は腐っても人間だし、死刑制度は外野が簡単に「殺せ」という大合唱で済されるようなものじゃないはずです。いや、「はず」ではなく「じゃないもの」と断定すべきでしょう。もし冤罪で死刑が執行されれば、得意げに法務大臣や刑務官をヨイショしていた人達が、今度は彼らを殺せとネットで喚き始めるはずです。『身銭を切れ』ではないですが、この公開日記も含め、何のダウンサイドを負っていない議論なんて、所詮その程度なんです・・・。
自慢じゃありませんが、私は小学生の時に『淳』という被害者遺族の手記を読んだ影響からか、死刑や犯罪被害者遺族の手記やノンフィクションをよく読んでいます。だからこそ書きますが、ヤフコメみたいなものを見るとそこら辺への教養や知識が欠けたまま、ワイドショー感覚で死刑を持て囃す人達が余りにも多い、という残念な現実があるわけです。溜飲を下げるためにいい加減な感覚で、ただ「殺せ」と叫ぶ人がどれほど存在する事か・・・。だからこそ、死刑制度を(肯定として)考えるにはそんな国民的ダウンサイドを取らない癖に、その権利だけは遊び感覚で要求しているような幼稚な議論にも、手厳しい目線を浴びせなければ・・・と感じるのです・・・。これじゃ「グリーンマイル」のパーシーやで・・・。それに、現場を見てないからそんな簡単に「死んで当然」とか大声でいえるんじゃ・・・。
何か『ワンダー』とか『最強のふたり』とかいった作品で障害者差別とか平等・・・みたいなものを語られても、正直しっくりこない自分がいます。
だって、両作品ともある程度は困窮とは真逆の裕福(実家が太い)で、正常な知能を有しているじゃないですか・・・。オギーはちゃんと勉強ができてたし・・・。
まぁ・・・小学生の時に学校の図書室にあった『どんぐりの家』を読んだ事もあるし、重度(及び軽度)の知的障害者の存在もたくさん知ってる身としては、綺麗すぎるなと・・・。特に『どんぐりの家』って、オギーみたいな子ができることができない子供達の現実、つまり自傷行為や粗相、保護者や支援者の葛藤などが、結構苛烈なタッチで描かれてたので・・・。甘いなと思うんです・・・。それだけで差別を語るには・・・。
何か、もりやまつる先生の『オバハンSOUL』という漫画で、「生きているだけで100点満点」というセリフがありました。ですが、みんながみんな(湯浅 誠氏がいう所の「溜め」みたいなもの)オギーやフィリップみたいじゃない状況で、実際には「生きているだけで100点満点」というテストに合格できるかどうかという熾烈な戦いが存在しているのだと思います。要するに、生きているだけで点数どころじゃなく、その問題を解くことで精一杯という子だっているわけです。だから、「普通に話せる」障害者ばかりが反差別や反偏見のアイコンとして使われている現状も・・・と感じています。それは『ワンダー』のスピンオフである『ホワイトバード』でも感じたのですが・・・。やっぱり、トゥルトーじゃなくて、そこはエリザベート・ツェラー氏の『アントン:命の重さ』の方がかなり痛切でリアルな書き方をされてたと思うんですよ・・・。障害者に対する結末は『ホワイトバード』の方が暗いかもしれません。ですが、一般受けする障害者を出さず、(当時のナチス・ドイツの社会体制に基づく)そこら辺の無慈悲さとリアリティでいえば、やっぱり『アントン:命の重さ』じゃないかなと・・・。すみません、一生懸命『ワンダー』を書かれたR・J・パラシオ氏には申し訳ない答えになってしまいましたが・・・。
正直にいえば、身体障害に対する差別にはあれほど怒りや反意を表明する風潮の裏で、この国のポップカルチャーにおいて知的障害や精神疾患への誤解や差別意識を助長するような作品が普通に流通していると思いますし・・・。だって、「コミュ障」とか「アスペ」みたいなものに加えて、「チー牛」という言葉が漫画に使われてるのを見たんですよ・・・?あの時はマジで衝撃を覚えました・・・。所詮あのチャリティー番組みたいに、最低限話が通じる障害者ばかりを可愛がり、それ以外の障害者を害悪やイジリの対象としてとして差別を容認してきた、この国の身勝手で冷淡な現状が横たわってるのだなと・・・。
それと・・・本題に戻りますが、いじめの加害者であるジュリアンを排除することは、(現実に照らし合わせれば)学級経営としてはある程度正しいことだと思います。ですが、いじめや差別の首謀者を一方的に排除して良しとすることは、結果(ジュリアンに加担していた)みんなが無反省で手のひら返しでオギーにすり寄る・・・という話であって、あんまし差別やいじめを語る文脈として機能させるには・・・と正直思います・・・。
ああ・・・ジュリアン繋がりですが・・・何かとあるブログで映画版の『ワンダー』に言及していた記事があり、ジャックに共感していた管理人がジュリアンを叩いているのを目にしましたが、あれは散々戦争に協力しながら戦後になると被害者意識ありきで戦争を語り、A級戦犯を叩き始めた日本国民の姿を思い浮かべました・・・。ああ、(『ホワイトバード』を引き合いに出したんで)ドイツもそうだったよね・・・何か全部ヒトラー政権のせいにして、イスラエルの補償にも冷淡だったって、『犠牲者意識ナショナリズム』で読んだので・・・。
今、ちょっと作品の世界観の為に、ちょっと小説を書いています・・・現在3万文字くらいなんですが・・・で、それなんですが、1万文字くらいにして、『エレクトリック・ステイツ』みたいなSF系グラフィックノベルみたいな感じにしたいと思ってます・・・。
そういや、公文書関係に続き、また広島・・・つまり地元ネタを書きたいと思います・・・。
何かXを覗くと、何か都議選で石丸伸二氏及び、彼の新党である「再生の道」が落選した事について言及するポストがありました。で、「広島でしいたけでも作ってろ 二度とくんな」と・・・。で、引用リポストした人が「品が無い」と評されてましたが、まさにその通りで・・・。それって、トランプを支持している人達に「南アラバマに帰ってトラックの運転手でもやってろ ワシントンDCなんか二度とくんな」という暴力性と同じかと・・・。
もう、BlueskyやFacebookも含め、ネットの言論空間というのが右派も左派も皆劣化しつつあると感じるのは私だけでしょうか・・・?香山 リカ氏は自著『いまどきの「常識」』や『私の「愛国心」』で(当時)他者に対していとも簡単に「バカ」という言葉が使われ始めた状況を指摘していましたが、現在ではすっかり「赤信号みんなで渡れば怖くない」という状況で暴言の規制緩和が行われた結果(とその一部)が「広島でしいたけでも作ってろ」だと思うのです・・・。
昔、知り合いのアーティストさんが「自分の仕事を他者に紹介してもらう」系の話を振られたことがありました。それは勿論断ったのですが・・・。何がいいたいかっていうと、「相手の活動を、仕事として他者に売り込む」・・・みたいな人がいたという話です。最近でも見ましたが、ホントよーない事じゃ・・・と思います。
人の能力にパラサイトして、自分の実績を作りたいだけじゃん・・・。何か悪気が無くて知識がなく、意識ばかり高い人がそういうことする傾向がなくない・・・?
何かギャラリーストーカーや、お気持ちの度を越した暴言を吐く一部のギャラリストや画家、イラスト系情報商材など、(ほかの業種と同じく)お絵描きの世界は魑魅魍魎だらけですが、そういうのも闇の一部だと感じています・・・。
で、何か最近の話ですけど、アメリカがイランの核施設にバンカーバスターで攻撃とな・・・。本当に、狂気じみている・・・。それは、ロシアがザポリージャ原発を攻撃した時の衝撃と同じですよ・・・。何か、福島の事故みたいなものが、どうすれば核施設を効率的に壊滅させられるかを、ああした指導者達に教えてしまってはいないか・・・という疑念があります・・・。東京大空襲を行う前に、江戸の大火や関東大震災をリサーチしたアメリカ軍のように・・・。
昨日の文章で、「絵本系の評論について書きたい」みたいなことを書きましたが、有言実行、やってみます。
最近、2回ほど今福 龍太氏の『ここではない場所:イマージュの回廊へ』において、『ぼくのうちに波がきた』という絵本と、その原案になったオクタビオ・パス氏の短編『波と暮らして』が書かれていました。で、何か『ぼくのうちに波がきた』でイラストを担当したマーク・ブエナー氏がこう評されていました。
「ブエナ―の筆は波がこれまで描かれてきた色彩語法を無視し、それを黄色に、橙色に、紫に、黒に発光させる。渦や泡の描写は、まるで毛細血管か神経組織のように波の表面を縦横に走り、波の生命に血流の感覚を付与する。」(166P)
そう・・・一番難しいのは重力に逆らうような(派手な)水の動きなんですよ・・・別世界ではごまかしてますけど、そろそろ本気でやらな・・・と感じています。だから、身体や建物などの固形的なものだけでなく、そうした事までしっかりとした正確さを基にできる作家さんが・・・とマジで思います・・・。
まぁ・・・私の場合はスライム系なんじゃが・・・。
今日は精神的余裕が無いので大した文章は書けません。書いたとしても一昨日の焼き直しになるので・・・。
そういえば、明日は今日と違って精神的余裕がある(かも知れない)ので、なんか本の感想でも・・・と・・・。
絵本系の評論かな・・・。
昨日歪みと書きましたが、そうした事は一部の極端な事例だからこそ目立つのかもしれません。
まぁ・・・何かギャラリーストーカーとかギャラリー商法とかと併せて、排他的な選民思想を振りかざす一部のギャラリストさんや画家も、あそこら界隈の闇なのではないか・・・そう感じることが最近多くなりました。うん・・・ここに書かれてある通り、私も「「知っている」もの同士でグループや壁をつくり、自分たちこそがアート界の中心にいるのだと思い込む」ような人とはホンマ相性が悪く、寧ろフレンドリーで社交的な場所の方が・・・と思ったりします。
カタギでも、自分で作り上げた戦場で誰かを阻害するような画廊は・・・と正直感じてます・・・。
そういえば、SNSの使い方関係であんまし好きじゃない作家さんが、『電話がなっている』みたなエロいYAとか児童文学に対し、きちんと反対意見を書かれてたので安心しました。ああいう系の話が無責任な文芸オタクに持て囃されている中で、はっきり児童書に性描写や暴力を持ち込むことを「虐待」と断じ、「充分な注意を払わなければならない」と評するのは、商業的なダウンサイドを取らない児童書オタク達の妄言より、業界に対するプロの言葉がいかに大切かを物語っていると思います・・・。
何か、勧誘系ギャラリーの話なんですが、正直あんまし害にならん所と、実際に悪として業界に君臨している所があると思います。
後者についてはもうネットで叩かれてるし、DMとかメールが来れば毅然とした対応を取るべきなのですが、やっぱりそうじゃない方も・・・と感じています。
何か、「カタギ」の方でも、一部のギャラリー経営者が勧誘系ギャラリーに出展した作家や、その出展歴までをも悪し様にいうのも何だかな・・・と思ってます。自己弁護じゃないですが、勧誘系ギャラリーはともかく、そこら辺の出展経験がある作家さんを含めて差別するような言動も、読んどってホントにキツいというか・・・。
知人とも話したのですが、ギャラリー経営やアート活動を(その性質故に)神聖化し、排他的な選民思想をXやBlueskyにお気持ち表明する経営者さんがいますが、あれもどうかね~・・・と・・・。上の文章で差別と書きましたが、あれもベクトルは違えども、(語弊を恐れずに書けば)悪徳ギャラリーと併せて、業界の歪みじゃん・・・と・・・。
普通だったら、ギャラリー経営者は他のギャラリーや作家(が有するキャリア等)の悪口をそんなネットに書かんって、知人もいうとったし・・・。
何か、小説の書き方を書いた本ってすごく出ていますが、個人的に欲しいのはロボットやメカ(或いは、その戦闘)の描写を指南する本も・・・と感じています。あれはホント人の作品を見たり、実際の戦争の本を読んだりして創っていくしかないんで・・・。
そして、個人的なことですが・・・障害児を「かわいい」と形容するのには大反対ですが、それをわざわざChatGPTに質問して回答させるのは、個人的にどうなんでしょうと思います。こういうのは自分の言葉をちゃんと尽くしてこそ・・・と感じます。「こち亀」のアニメ版でも、電極+に両津が「自分の字でちゃんと書け!」と叱っていたのを思い出すというか・・・。
私も、一部の支援者が当事者をダシにして教祖化・インフルエンサー化する風潮には苛立ちを覚えている分・・・。信奉者もいる分エコーチェンバー化も著しいしな・・・。
今日もキャンバスに線画を仕上げています。所々をホワイトの絵の具で修正しながら・・・。
で、ミナモアに新設された広電の停留所で、もう試運転が始まったとか・・・。猿猴橋電停ももう見納めじゃな・・・。
私も結構ここで何やかんやにいっちょ噛みしてるので、ギルティですが、「タレントも政治的発言をすべき!」「何で音楽フェスに政治を持ち込んじゃいけないのか!」みたいな話ってあるじゃないですか・・・。でもね・・・現状としてはそこまで成熟した発言ってできてないと思います。私達も含めて・・・。最近じゃあの声優さんの騒動もあったばかりだし・・・。
榊原 英資氏の『幼児化する日本社会』では、タレントみたいな存在が専門外の事にコメントすることへの批判がありましたが、半端に聞きかじった知識で(考えもせずに)ソンタクとかモリカケとかハイガイシュギみたいな言葉を乱用し、そこに本人のフォロワーやアンチがたかって場外乱闘(ありていにいえば「炎上」)以上のことに発展しなかった・・・という方が正しいと思います。
これはモーリー・ロバートソン氏が『挑発的ニッポン革命論:煽動の時代を生き抜け』で(有名人が政治的主張をすることに対し)「有名であればあるほど、感性でモノを言う事が許されている。」(122P)と指摘されていたのですが、その言葉通りに、有権者として一番責任が厳しく問われている分野を、スタンスが右派(あの声優さんの騒動みたいに)であれ左派であれ、間違っている所やズレてるところがあっても、「有名人だから」というブランド性で許されてきた・・・いや、許されるべきだという考えがなかったでしょうか。「有名人は政治的発言が許されない」という被害者意識のもとに・・・。そう、ロバートソン氏の指摘通り、外国でも有名な俳優やミュージシャンが政治的発言をする例はありますが、日本のようにただ政治的トレンドに適当に乗っかり、中学生でもできるようなコメントをいいっ放しで終わるのではなく、ちゃんと一有権者としての責任感と信用を負ってるかという違いはあるかなと・・・感じています・・・。
これは、私も選挙において間違った判断をしてしまったという過去があり、その責任感を感じているから・・・なのですが・・・。
まぁ最後の方も、出羽守っぽくなったしなぁ・・・。
まぁ・・・4月初め位の話になりますが・・・、何か犯罪をテーマとした展覧会を、東京で見たんですよね・・・。DMがネットで流通しとった少年Aのニヤケ顔だった奴・・・。
で、一部の作品を除けば、予想通りだったとは思うんですが、アートを「社会に暴力を振るう側」を媒介として表現している作品がメインでした。まぁ、悪い意味でインパクトに残ったのは、やっぱりキュレーターが制作しとった佐世保の同級生殺害事件の加害者を模したドールで、ご丁寧に『バトル・ロワイアル』のハードカバー版と刃を抜いたカッターナイフが置かれていました。
正直にいいますと、私もそういう表現は好きですし、猟奇的な部分もあるっちゃあるなと、心の片隅で感じています。だからこそ書くんですが、この展覧会のみならず、アートやポップカルチャーで殺人者が祭り上げられる構図は多々あります。ですが、度々私が思うのは、「君達は殺される側や遺族には興味ないんか・・・?」ということなんです。生きづらさとかいって同じように人殺しや犯罪者に同調する人もいますが、(『ジゴサタ』ではありませんが)謂れもなく殺されたことがないクセに、殺人を語ること自体が特権なので、それはつらさ以前の問題だと私は断言できます。
これには私が小学生の時に、少年Aに子供を殺された土師 守氏の『淳』という手記を読んだ影響もあると思いますが・・・まぁ、新潮文庫版だったので、巻末にあった本村 洋氏の解説(にある人権派への批判)も鬼気迫るものがあったしな・・・。そして、蛇足かもしれませんが何かカウンターとして、会場に行く時はバッグの中に『謝るなら、いつでもおいで』を忍ばせていたのでした・・・。
拙い言い訳かもしれませんし、同じような表現をしているので、「表現の自由」という美辞麗句でセカンドレイプに加担しているという自覚はありますが、殺人事件やその犯人を題材にするときは、必ず「殺された側や遺族、そして関係者等」の声が感じられるような作品作りに努めていきたいなと思います。それは、少年犯罪者を模したドールみたいな作品への、ささやかな抵抗であると信じて・・・。
明日は何かヤバそうですが、こっちも色々ワガママいって絵を描かせて貰ってるので、お互い様・・・の精神で頑張りたいと思います。
まぁ・・・別世界の事で今、植物を調べとるんよね・・・ヘチマとかアサガオとか、そこら辺の蔦とか・・・。やっぱりリアリティはと思うので・・・。
この度、皆様のおかげで「なにものてん」(企画・開催地:アートコンプレックスセンター様)に拙作を出展させて頂くことができました。
今回、拙作を出展させて頂くにあたり、大変お世話になったギャラリーのスタッフの方々、御多忙中にもかかわらず、拙作をご覧になった上にグッズ等をお買い上げくださったお客様等に、厚く御礼申し上げます。
この経験を力に、更なるベストを尽くしていきたいと思いますので、今後ともよろしくお願いいたします。
なお「なにものてん」開催中に、拙作のファンアートをお客様に頂きました。名前は非公開という条件のもと、アップロードの許可を頂いたのでここにアップいたします。
ええ・・・こちらの作品のファンアートなのですが、シリアスでごつい(ようになんとか描いた)ロボット兵器が、ぬいぐるみのような可愛らしさで表現されている所が、正反対な雰囲気な分すごくいいな・・・!と感じました。ロボットを抱いてる女の子のおかげで、いい意味で殺伐とした印象が薄れていますし・・・!最近、こきち先生の『えんじぇるめいと』を読んで、単行本が待ちきれないんで、今日りぼんの最新号を読んだんですよ・・・。で、ちょっと考えたことを書こうと思って・・・でも、全体を把握してるわけじゃないし、もうちょっと待ってから・・・とも思います。
人の不幸は描きやすいけど、やっぱり思い付きでやったら・・・という感じです・・・。
最近、私も同じ闇に引きずりこまれそうになったので敢えて書きますが、生活保護バッシングや外国人(特に移民や外国人労働者等)バッシングにおいて、それを主張する側は「我々は差別主義者ではない。あくまで悪行を批判している」という理論をよく使います。ですが、近頃見る制裁系の漫画だったり、Xに流れている言説を見るにあたり、そんな建前らしい冷静さを欠く、見るからに貧困層や外国人の差別を煽るような表現がワンサカ・・・という感じです・・・。
で、『ファスト教養』でも某メンタリストのホームレスに向けた差別発言が取り上げられていましたが、社会復帰の為に頑張っていなければ差別していいというのは、上に書いた「あくまで悪行を批判している」という言い訳と同じだったりします。
まぁ・・・こうした問題は存在するし、私もはっきりいえば不真面目な態度の外国人労働者(注意しても逆にこっちを挑発してくる)にガチギレしそうになったことはあります。最初に書いた「闇」というのも、外国人が新幹線の中で、音を出しながらスマホゲームをずっとプレイしていたことなんですが・・・。私の席の前で・・・。
だからこそ・・・こういうことは本当に、本当に慎重に扱っていかなければ・・・と思います。こういう議論の行先は、最近の声優さんが書いたブログの記事みたいにすぐなっちゃうんで・・・。
昨日のミッションは・・・無事に果たせました・・・おかげ様で・・・。
で・・・話は変わりますが・・・ おとといくらいの話です。「なにものてん」出展中の話なんですが・・・。
常駐が終わり、会場(ギャラリー様)からホテルに帰ろうとした所、何か子供が二人、こっちに向かって走ってきました。で、その1人はオモチャの銃を振り回しながら走ってきて、正直「どうかね・・・」という気持ちにさせられました。私もモデルガンとか持っていた時期がある(今も資料用に一丁あります)し、親との約束をちょくちょく破ってしまった経験があるので、人の事なんて言えませんが、やっぱりそんなものを外で持ってたらどうなるかORどういう印象を持たれるか・・・親子で考えるチャンスがありそうだな・・・とか色々思いました。
大人だったら即通報になるかもしれんぞアレ・・・。子供だから色々と許されてるというのを、思い知ることがあってもいいかもしれん・・・。安倍氏のアレも含めて・・・。
OR・・・あんまし英語使わんけど、だからこそ久々に使ったような感じがするんじゃ・・・英語と日本語のチャンポンを・・・。
明日は・・・かなり高難度なミッションが待ち構えています・・・。
朝の4時くらいに起き・・・朝イチの地下鉄と新幹線を乗り継ぎ・・・帰るというミッションなんですが・・・できるんじゃろうか・・・。いや・・・やらなきゃ金がフイになる・・・。
そして今日は・・・ささやかなビッグプロジェクトをある程度完成させることができました。電子書籍のメリット・・・それは、いちいち印刷所に行かなくてもいいことです・・・。紙も紙で、いい所はあるんですが・・・。
そういえば、昨日は「なにものてん」に出展させて頂いている小説が、ある程度は売れました。本当に有難うございます・・・!
現在、「なにものてん」(企画・開催地:アートコンプレックスセンター様)に拙作を出展させて頂いておりますが、こちらのオンラインショップでも拙作を販売中ですので、どうかよろしくお願いいたします。
それと、こちらでも会場の様子が撮影された動画が公開されているので、よろしければご覧くださいませ。特に私は妬血氏の肉体と骸骨が融合したような作品と、ベロニカ 都登氏のいつも通り、エロティシズムを纏ったストイックな少女達を描いた作品が印象に残りました。いや・・・ベロニカ氏の作品は、アートコンプレックスセンター様ではよく拝見させて頂いているのですが・・・。
この日を入れればあと2日・・・頑張っていきたいと思います・・・!
現在、「なにものてん」(企画・開催地:アートコンプレックスセンター様)に拙作を出展させて頂いております。下にその様子をアップいたします。
まぁ・・・ちょっと空気読めんかったかな・・・と感じています・・・。
人外とはいえ・・・純然たる(自立意思のない)ロボット兵器の絵を出したんで・・・微妙にズレとるというか・・・。それはさておき、本作は自分が制作したジュブナイルSF小説擬き(笑)をベースにした世界観のキャンバス画とか絵葉書とかを出展しています。
なんか一人の少女が宇宙戦争の悪夢を見ている所からスタートするこの作品・・・是非とも手に取ってもらえれば・・・と儚い願いを感じたりしています・・・。
それでは、最終日の6月8日(日)までよろしくお願いいたします。
高校の時に偶然、何か灰谷 健次郎氏を批判的に論じた『灰谷健次郎:ーその「文学」と「優しさ」の陥穽』という本を見つけて、興味本位で買ったことがあります。まぁ・・・やっぱり何か私も『兎の眼』ですごいインパクトを受けた一人なんで、灰谷氏に熱狂していた一人だったのですが・・・。
まぁ、やっぱり一方的な絶賛の中にいれば、(いまどきの言葉でいえば)エコーチェンバー現象に基づく排他性も生まれるわけで、そんな中で灰谷氏に批判を向けるというのはある程度、勇気のあることだったと思います。中でも『笑いの影』における差別表現から度重なった灰谷氏の倫理的なミスや、剽窃(だから私も参考文献を明記しておかなければ・・・と思うのですが)ともいえる行為、都合のいい自然主義への指摘は、正しい故に灰谷ファンとしては結構耳が痛いな・・・と感じました。だからこそ、余計に灰谷氏に感化された人は読む必要があるかと・・・。
ですが・・・何か本書は手放しで絶賛できるものではなかったです。読んでいると「灰谷憎し」の為に「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」といわんばかりに、作中の揚げ足取りに終始しているような感がありましたし、事実誤認ともいえる箇所がありました。ソースが半ばウィキペディアなのが非常に情けないですが、『太陽の子』に関しても、「全くアメリカ軍基地のことがでてこない」(P48)とありますが、キヨシ少年のエピソード(沖縄時代の家が「アメリカの基地の飛行場の下」であることや、母親が「アメリカの兵隊に乱暴され」たこと)を読むにあたり、「全く」ノータッチではありませんし、「失業率が本土と比べて異常に高い」(125P)という指摘は、ラストのろくさんが刑事に訴える時のセリフでちゃんと「失業率は全国最高」と書かれてたりするので、フォロワーに囲まれてチヤホヤされている作家に一撃を下したいという意識ばかりが先行し、その辺りから灰谷氏(とその作品)を不当に傷つけていると思いました。
ちょっと話は変わりますが、こういう系の話は一部の半端なマニアが弄することがよくありますが、こうした発言は本書の執筆者である黒古 一夫氏のように商業的責任を科され、そこら辺から生ずるTPO(品位)を守ってこそ初めてできるものであり、ネットを中心として本末転倒ともいえる事態が起きているのは由々しき事態だと日々考えています・・・。
昨日の予告通りに、まぁ・・・ご依頼をお送り頂き、仕事をやらせて頂いたことを報告したいと思います。
まぁ・・・一昨年位から・・・なんか偶然っちゃぁ偶然なんですけど・・・、白木の郷様(公式サイトはこちらです) が御発行されるパンフレットのイラスト制作のご依頼を受け、色々と・・・絵を制作させて頂きました。下にパンフレットの画像をアップしたいと思います。それではどうぞ・・・。依頼主の方には許可済みですので・・・。
そして、ロボットは昔のブリキの玩具を参考にしています。ライティングがちょっときつすぎたことを反省しています・・・。
なお、当然ながらここまでは自分一人の力で来られたわけではありません。まだまだ未熟な画家で、お仕事のノウハウがチンプンカンプンであったような私にご依頼を下さった白木の郷のスタッフの方々、拙作、つまり私の絵に職業的な責任を与えてくださったデザイナーの方、間に立って交渉のサポートをして下さった方々など、皆様のお助けが無ければ到底お仕事はできませんでした。この場を借りて、厚くお礼を申し上げます。