一昨日、ここでイヤミスについて書きたいと意思表明していましたが、まあ・・・腹の底に溜まっていたものは出したいと思います。その道のプロでもないので、エラソーなことはいう資格はないので我慢すべきだと、ずっと自分にいい聞かせてきたことですが・・・。
保坂 和志氏の『書きあぐねている人のための小説入門』という小説技法を書いた本なのですが、本書は2003年と20年以上前ながら、今日のイヤミスブームの本質を見事にいい当てているなと感じる箇所がありました。4章の「ネガティブ人間を書かない」という所なんですが、(当時における)最近の応募小説や創作学校における被害者意識の強い登場人物然り、ネガティブ人間を描くことへの批判然り・・・。
私だってどっちかというと、正邪でいえば「邪」の方が多くてスキャンダルとか不幸話とかに耳をそばだててしまう弱い部分があります。そういう話だって好きですし。ですが、上に書いた保坂氏の指摘通り、スキャンダラスで露悪的な作品がミステリのメインストリームとして持て囃されるのも・・・と感じていることは事実です。
正直ながら、私は「イヤミス」と銘打たれた小説を数冊読んだことはありますし、宣伝方法から健全な効果を狙ったものではないことぐらいわかります。寧ろ、イヤミスに正義や美徳を求めろということ自体が空気を読めていません。ですが、基本的に(もうこれは個人的な私見になりますが)イヤミスというジャンルは、ファミレスの片隅や道端で他の家庭の不幸、つまりダレソレさんの家が破産した、旦那がDVをした、息子さんがいじめで自殺したとかいった話題を俗悪に騒ぎたてる主婦達みたいな層と、そういうどうしようもない層と同じ感性を持つ作り手との商業的な共犯関係で成り立っているのだと思います。受け手は手っ取り早くチョ・スンヒの戯曲よりもインスタントに人の不幸で歪んだ心理を慰撫されたい。作り手は受け手に爆買いさせるべく、皮相で安っぽいヘイトを提供すればいい。結果として、『バトル・ロワイアル』の大ヒット以降雨後のタケノコのように現れた(過激で不快なエログロありきの)デスゲームものと同じ轍を踏んでいるとうっすら感じています。ああ、そうそう。お手軽な右派知識人の対談とかIDW崩れの左派叩き、芸能人のエッセイでもってるような新書の新興レーベルもね・・・。
前にもここにリンクを貼ったと思いますが、(津波に伴う)原発事故やコロナ、ガザ虐殺など現実があまりにも単純化できない上に悲惨なことばかりなので(これは『小説の神様』シリーズでも指摘されていたことですが)社会や人間関係は正邪入り混じったグラデーションで、自分もどこかで責任を科されているという、ある程度は思考力や教養、耐性を要求される「線」は無視され、「少年犯罪者でも死刑にすべき!」とか「アイツはいじめの加害者だからクズ!」みたいに、シンプルな「点」で理解出るものだけが好まれるでしょう。リンク先の記事のように、ビッグブラザー抜きで2分間憎悪を自分達で実現してしまった現代の申し子の1つが、イヤミスなのかもしれません。