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2025年6月16日月曜日

ずっと前の話ですが・・・

 まぁ・・・4月初め位の話になりますが・・・、何か犯罪をテーマとした展覧会を、東京で見たんですよね・・・。DMがネットで流通しとった少年Aのニヤケ顔だった奴・・・。

で、一部の作品を除けば、予想通りだったとは思うんですが、アートを「社会に暴力を振るう側」を媒介として表現している作品がメインでした。まぁ、悪い意味でインパクトに残ったのは、やっぱりキュレーターが制作しとった佐世保の同級生殺害事件の加害者を模したドールで、ご丁寧に『バトル・ロワイアル』のハードカバー版と刃を抜いたカッターナイフが置かれていました。

正直にいいますと、私もそういう表現は好きですし、猟奇的な部分もあるっちゃあるなと、心の片隅で感じています。だからこそ書くんですが、この展覧会のみならず、アートやポップカルチャーで殺人者が祭り上げられる構図は多々あります。ですが、度々私が思うのは、「君達は殺される側や遺族には興味ないんか・・・?」ということなんです。生きづらさとかいって同じように人殺しや犯罪者に同調する人もいますが、(『ジゴサタ』ではありませんが)謂れもなく殺されたことがないクセに、殺人を語ること自体が特権なので、それはつらさ以前の問題だと私は断言できます。

これには私が小学生の時に、少年Aに子供を殺された土師 守氏の『淳』という手記を読んだ影響もあると思いますが・・・まぁ、新潮文庫版だったので、巻末にあった本村 洋氏の解説(にある人権派への批判)も鬼気迫るものがあったしな・・・。そして、蛇足かもしれませんが何かカウンターとして、会場に行く時はバッグの中に『謝るなら、いつでもおいで』を忍ばせていたのでした・・・。

拙い言い訳かもしれませんし、同じような表現をしているので、「表現の自由」という美辞麗句でセカンドレイプに加担しているという自覚はありますが、殺人事件やその犯人を題材にするときは、必ず「殺された側や遺族、そして関係者等」の声が感じられるような作品作りに努めていきたいなと思います。それは、少年犯罪者を模したドールみたいな作品への、ささやかな抵抗であると信じて・・・。