何か『ワンダー』とか『最強のふたり』とかいった作品で障害者差別とか平等・・・みたいなものを語られても、正直しっくりこない自分がいます。
だって、両作品ともある程度は困窮とは真逆の裕福(実家が太い)で、正常な知能を有しているじゃないですか・・・。オギーはちゃんと勉強ができてたし・・・。
まぁ・・・小学生の時に学校の図書室にあった『どんぐりの家』を読んだ事もあるし、重度(及び軽度)の知的障害者の存在もたくさん知ってる身としては、綺麗すぎるなと・・・。特に『どんぐりの家』って、オギーみたいな子ができることができない子供達の現実、つまり自傷行為や粗相、保護者や支援者の葛藤などが、結構苛烈なタッチで描かれてたので・・・。甘いなと思うんです・・・。それだけで差別を語るには・・・。
何か、もりやまつる先生の『オバハンSOUL』という漫画で、「生きているだけで100点満点」というセリフがありました。ですが、みんながみんな(湯浅 誠氏がいう所の「溜め」みたいなもの)オギーやフィリップみたいじゃない状況で、実際には「生きているだけで100点満点」というテストに合格できるかどうかという熾烈な戦いが存在しているのだと思います。要するに、生きているだけで点数どころじゃなく、その問題を解くことで精一杯という子だっているわけです。だから、「普通に話せる」障害者ばかりが反差別や反偏見のアイコンとして使われている現状も・・・と感じています。それは『ワンダー』のスピンオフである『ホワイトバード』でも感じたのですが・・・。やっぱり、トゥルトーじゃなくて、そこはエリザベート・ツェラー氏の『アントン:命の重さ』の方がかなり痛切でリアルな書き方をされてたと思うんですよ・・・。障害者に対する結末は『ホワイトバード』の方が暗いかもしれません。ですが、一般受けする障害者を出さず、(当時のナチス・ドイツの社会体制に基づく)そこら辺の無慈悲さとリアリティでいえば、やっぱり『アントン:命の重さ』じゃないかなと・・・。すみません、一生懸命『ワンダー』を書かれたR・J・パラシオ氏には申し訳ない答えになってしまいましたが・・・。
正直にいえば、身体障害に対する差別にはあれほど怒りや反意を表明する風潮の裏で、この国のポップカルチャーにおいて知的障害や精神疾患への誤解や差別意識を助長するような作品が普通に流通していると思いますし・・・。だって、「コミュ障」とか「アスペ」みたいなものに加えて、「チー牛」という言葉が漫画に使われてるのを見たんですよ・・・?あの時はマジで衝撃を覚えました・・・。所詮あのチャリティー番組みたいに、最低限話が通じる障害者ばかりを可愛がり、それ以外の障害者を害悪やイジリの対象としてとして差別を容認してきた、この国の身勝手で冷淡な現状が横たわってるのだなと・・・。
それと・・・本題に戻りますが、いじめの加害者であるジュリアンを排除することは、(現実に照らし合わせれば)学級経営としてはある程度正しいことだと思います。ですが、いじめや差別の首謀者を一方的に排除して良しとすることは、結果(ジュリアンに加担していた)みんなが無反省で手のひら返しでオギーにすり寄る・・・という話であって、あんまし差別やいじめを語る文脈として機能させるには・・・と正直思います・・・。
ああ・・・ジュリアン繋がりですが・・・何かとあるブログで映画版の『ワンダー』に言及していた記事があり、ジャックに共感していた管理人がジュリアンを叩いているのを目にしましたが、あれは散々戦争に協力しながら戦後になると被害者意識ありきで戦争を語り、A級戦犯を叩き始めた日本国民の姿を思い浮かべました・・・。ああ、(『ホワイトバード』を引き合いに出したんで)ドイツもそうだったよね・・・何か全部ヒトラー政権のせいにして、イスラエルの補償にも冷淡だったって、『犠牲者意識ナショナリズム』で読んだので・・・。