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2025年11月23日日曜日

許す事、許される事

最近、被爆者関連の本を読んでいると、被爆者が(当然ながら)アメリカを憎んでおり、ひょんなことからエノラ・ゲイのクルーが原爆投下について後悔している事を知り、相手への許しと共に悪いのは戦争そのものだ・・・という結論に至る話を見かけました。

こうした戦争被害についての許しについての「美談」はちょくちょくありますし、林 志弦氏の『犠牲者意識ナショナリズム』でも「赦し」について書かれていると思います。ですが・・・。 

私だって(子供の時に)許されない事をして許されたり、許されなかったりしながら成長してきました。責任を問われるべく当然の叱責や注意を、被害者意識として正当化するズルさは、今でもあります。

だからこそ敢えて書きますが、この「許し」についてのドラマに、結構ひっかかるものがあります。 ポスト8・6を歩む前の広島は、大本営の設置に数多くの兵士や弾薬を送り出していった宇品港、大久野島の毒ガス工場など、「軍都」、つまり戦争加害者としての側面を大いに持っていました。それを「戦争そのものが悪い」と転嫁し、無邪気に許しを与える姿勢は、海の向こうで侵略や虐殺の憂き目にあったアジア諸国の人達の怒りを矮小化し、なあなあのお互い様精神で、戦争責任を漂白する危険性がないですか?と、感じています。

確かに、被曝された方々の当時の年齢と、それから歩まれた道のりを考えれば心情は同情に値するものです。 私も祖父が入市被曝(被爆者手帳を持っていました)しているので、そこだけは痛いほどわかります。

ですが・・・やっぱり・・・自国中心の被害者意識だけで戦争を伝承する動きがメインな一方で、やはり海の向こうからはキツい目線を浴びせられている現実があり、そのギャップの深さについては考えさせられる・・・そう思うのです・・・。