ここで、『波あとが白く輝いている』という児童書の感想を書いたと思いますが・・・まだ、書き足りない所があったので、ここで書こうかと思います。また読んでるのでね・・・。
本作品は、読めばわかると思いますが、結構震災遺児の七海をメインとして、コロナに祖父のガン等、色々な問題が詰め込まれています。ですが、それが『ハッピーバースデー:命輝く瞬間』のように、海光祭の復活という一つのテーマにしっかりと収束されているので、出しっぱなしで終わらない強さがありました。
そういう所で、コロナに震災というといくらでも悲惨に出来そうなテーマを、きっちりブレーキをかけて運転させている所が本作の最大のいい所だとおもうんです。抑速ブレーキを使った安全運転といえばいいのかな?七海が震災遺児ながら当時1歳で母親の記憶が無いというのも、かなり新しい設定ですし。
実際、家族の遺体(性質上、詳しい描写はない)とか直接的な被災の描写、悲痛なサバイバーズギルドの表現は出てくるといえば出てきますが、それを(よくある「震災もの」みたいに)辛さに共感できる強さでこっちが知らないことを責めるように殴るようなものではなく、寧ろそういうキャパがない(うさくん先生がよく主張されている「こち繊」みたいな感じ)人への配慮も行き届いている点に、作者の優しさを感じました。被災者でもないのにこんなことを書くのは気が引けますし(ついでに資格もないのも承知です)、上の方で辛さに共感できる強さで殴ると書きましたが、どうもそういう所から、震災やコロナ関係のドキュメンタリー番組や書籍は、作り手の怒りや使命感が先行し過ぎて、どうやったら受け手に対象が感じた現実を心理的負担として背負わせることができるかというゼロサムゲームになりがちだと感じています。
例えるなら、※原爆投下においても、みんながみんなそういう耐性(つまり、『はだしのゲン』の残酷描写や平和記念資料館の展示など)があるわけではなく、苦手な人の感性に合わせた配慮に基づく表現はあるべきだし、苛烈な現実に対する優しさは甘さや逃避ではないといえます。
それと、『波あとが白く輝いている』のストーリーは多くのコロナ系の話で語られていたような、典型的な「部活や行事が中止になったから、それを立て直すいい子」を描いたものです。ですが、そこにも押しつけがましさはなく、現実への剔抉という形で、震災を知らない子供達を罪や義務を背負わせるような書き方じゃないのが良かったです。
※水沢 悦子先生の『ヤコとポコ』における大家さんの少数派の話ではないですが、実際に中学生の時に、コーラス大会で「消えた八月」を歌わされることになり、その下準備として原爆関係のドキュメンタリーを教室で観る事になりました。すると遺体の写真が映されてそれにショックを受けた女子が寝れなくなりました。再び、辛さに共感できる強さの話になりますが、こういう概念が寝れないようなショックを受ける事すら評価として回収されることに危機感を持っています。せめて、(『ニングル』の「知ラン権利」ではないですが)ナイーブな人間がキャパの相性にあった知り方をする、もしくは精神的健康を守る権利も事実を剔抉するスタンスと同じくらい大事だと思います。