以前、この公開日記で平河 ゆうき氏の『くいなちゃんはゾンビ!:最強ゾンビちゃんは学校に通いたい!?』のレビューを書いたんですが、まぁ・・・結構まとまらん形というか・・・もしかすれば場違いな感想になっていたかもしれないんで、もしそうだとすれば、作者の平河 ゆうき氏と、イラストを担当された、からあげたろう氏にこの場を借りて謝りたいです・・・。
それはさておき、本作はゾンビ少女である、在美 くいなを中心としたドタバタコメディにまぎれてかなり重要な事を書いてると思ったシーンがあったので、ここに何で私がそう思ったのか・・・?というのをつらつら書いていきたいです・・・。
8年前の事故で両親もろとも死亡したに見えましたが、一人だけゾンビとしてよみがえったくいなは、ゾンビバレのリスクを承知しながら、祖母が心配する中、学校に通う事を決意します。そして、くいなは作中で同じクラスの若月 頼人と大日南 桃にこういいます。
「 家にこもっていれば、ゾンビだって知られないし、頼人くんに手伝ってもらう必要もない。だけど……それじゃ生きてるって、言えないんだよね。生きるって、いろんな人と、いろんなかたちで、つながることなんだね」(80P)
こういう所で、教育制度そのものを否定し、「学校からの解放」を叫ぶウェブ論客や評論家などが存在しますが、確かに教育制度にはフラッシュアップの余地が絶えず存在しますし、時によっては学校に通う事をシャットダウンしなければ、子供が守れない事態だってあります。ですが、教育機関に通わずとも学力を維持できるのはそうした環境や財力に恵まれた子供であり、給食がセーフティーネット(命綱)だという子供だっているわけです。それは栗沢 まり氏の『あの子のことは、なにも知らない』で指摘されていたように。
なので、くいなのいう通り「いろんな人と、いろんなかたちで、つながること」は単なる(『心のノート』あたりが書いてそうな)「みんな仲良し」ではなく、そうした方が社会のプロテクトが機能し、誰かが助かる確率が高くなるという部分もある訳です。だからこそ、一定の社会参画への馴致と帰結はどこかで行わなければいけないわけで、それを肉体が死んでいるゾンビにいわせるという所に、かなりのニクさと痛烈さを感じました。
その辺りで公助が(弱者に対して)機能しないと文句を言っている側が、相対的弱者ばかりに目を向けて個人主義に基づく極論を弄するのをブログやXでよく見ており、よって彼らは社会問題に対する倫理的な裏切りを露呈していると思います。
・・・まぁ、この文章も結構あんましまとまってないな・・・とへこんでしまいますし、教育関係者でもない私がいうのもアレっちゃアレなんですけど、教育制度や教育機関の在り方を全否定するのではなく、何かもっと中庸な議論ができれば・・・と思っています。じゃなきゃ誰も救われんと感じるんで・・・。