最近、『戦艦大和の歴史社会学』という本を読んでいて、恥ずかしながら「テクノ・ナショナリズム」という言葉を初めて知りました(汗)まあ・・・「犠牲者意識ナショナリズム」なら自分の胸の内で何度も使ってきた言葉なんですがね・・・(笑)
で、「テクノ・ナショナリズム」繋がりで、 ここでも取り上げた話をまたしたいと思います。
リンク先の文章の中で、風船爆弾を扱った児童書(書いたのは当時風船爆弾を作っていた元女工さんでした)について触れていますが、あとがきで「和紙で気球を作り、風の力だけでアメリカまで飛ばしたアイデアと、高い技術力だけは誇ってもいいもののように思えました」とか、「戦後日本の目覚ましい経済復興も、そういうアイデアと高い技術力によるもので、風船爆弾は、ある意味では、日本を最もよく象徴するものの一つ」とか書かれていたので、正に『戦艦大和の歴史社会学』で指摘されていた、「テクノ・ナショナリズム」そのものじゃん!と思って頭が思わずクラクラしました・・・。結果と責任を考えず、超弩級戦艦を建造したことありきの美化と、風船爆弾に対する元女工さんの言葉は不気味なほど一致しているというか・・・。
で、風船爆弾の児童書に話を戻しますが、犠牲者はアメリカ側の無差別爆撃や原爆投下の比ではないとはいえ、一応は妊婦まで殺害していることに対して、最後まで殆ど反省や謝罪の言葉はありませんでした。そこにあるのは、「戦争だから仕方がなかった」という受け身の意識と、それどころか上に書いたように、戦争に加担していたことへの無自覚な美化でした。
よく、(地元に限定した話ですが)原爆投下を巡り、アメリカの大統領や(アメリカの)国民意識に罪悪感や加害責任を問う声は何度も聞きます。ですが、こういう話がある中で、正直どうしてエノラ・ゲイやボックスカーのクルーやルメイのような指導者たちに改心と自覚を迫るのは、ちょっと虫が良すぎるのでは・・・?とも感じています・・・。第一、相手には加害者意識を持てと迫る中、中韓を始め、アジア周辺諸国への侵略や虐殺は全て戦争そのものが悪いという矮小化や、戦争指導者への棚上げ、それらだけではなく被害者の心情を考慮せず、相手に許しと和解を強要してきた部分だってあるのではないか・・・?と、風船爆弾の児童書を閉じて思うのでした。