最近、「許し」という概念についてこんな文章を書きました。
で・・・何か、森 達也氏の『死刑』(角川文庫版です)を読んでいて、同じような感覚に陥ったというか・・・。
本書の後半で、森 達也氏は藤井 誠二氏の『少年犯罪被害者遺族』の「私は一生憎むことを大事にしたい。(中略)私は加害者に癒されたくない」という文章を紹介して、こう書いています。「でも誰かを「憎み続けたい」という人が人がもしいるのだとしたら、何も憎悪を掻き立てることはないのではないかと僕はアドバイスをしたい。(中略)特にそれが知人なら、ちょっと視点を変えてみないかと言いたくなる。」(289P)
・・・確かに、私も災害や事件系のノンフィクションで、怒りと正義に基づく感情移入がベースになっている作品が、あまり得意ではなかったりします。煽られないようにしなければと用心したりしています。ですが・・・。渡邊 ダイスケ氏の漫画『外道の歌』でも描かれていますが、何らかの犠牲者に対して部外者は一つも何らかの要求をすべきでないと思います。もっとも、それが私刑とか自殺だったらさすがに・・・とは思うのですが、森氏のアドバイスは、例えるなら水俣病の被害者や黒い雨の被害者、福島の被災者等、何らかの訴訟を起こしている人達に対して、「そんなに怒らなくてもいいじゃない?視点を変えなよ」というようなものであり、強く影響を受けて煽られるのが嫌なら、引けばいい話なのでは・・・と思うのです。戦うべき問題に「怒るな」というのは、無自覚な暴力では・・・?と感じました。
確かに、森氏の死刑と司法に対する(溜飲を下げるための)ヒステリックな処罰感情に対する批判的な意見には、かなり頷けるものがありました。『犯罪不安社会:誰もが「不審者」?』でも指摘されているように、いままで散々遺族そっちのけか、彼らへのセカンドレイプすら煽るように、犯罪者で解釈ゲームを楽しんできたのに、いざ遺族が声をあげ始めると手のひら返しで遺族という虎の威を借り、今度は加害者糾弾ゲームに勤しみ、簡単に少年犯罪に対しても「死刑」と合唱するような専門家や世論、社会派を語るフィクションの薄っぺらさには、死刑存置派としてかなり嫌なものを感じていました。
そこで私は死刑存置派と書きましたが、死刑反対派(そして厳罰化反対派における)のノンフィクションやフィクションでは、どうも「許して和解する遺族」というものが強調されすぎていると思います。そして、(これはフィクションに多い気がしますが)凶悪な加害者も死刑を前にして、反省して後悔し、涙する・・・そんな美談が前者と同じような扱いを受けていると思うのです。そこで、加害者に怒ったり憎んだり、戦ったりする事が悪い・・・という感じの空気が醸造されすぎているような気が・・・と思います・・・。
そうそう、死刑についてはこちらでも文章を書いたので、よかったら読んでみてください・・・。