中松 まるは氏の児童書『ロボット、被災地へ行く』を読みました。
この作品は、舞台としてかなり重要な事を論じていると思います。
大体、被災地と聞くと(情けない事に、私も一瞬そう思っていました)東日本大震災を舞台にした話を連想してしまいますが、本作が題材としているのは2024年に発生した能登半島地震です。 東日本大震災は関東大震災と同じようにその犠牲者数や被害規模、重大な原発事故の発生などから、「普通の災害」と比べると現在でも多くのプロンプトが投げかけられており、原発事故や津波の被災者というプロンプトに答えを振り絞る事が社会のニーズと完璧にマッチするので、結果としてそっちが優先されるケースがかなりあるでしょう。それは日本国民全体の問題として波及したのだから、当たり前といえば当たり前の話なんです。
だから、結果として3月11日を(9月1日と同等に)災害の典型として向き合う事が、災害系の創作では定着している感がありますが、そうじゃない事は都合よく社会の無意識や創作の中で漂白、あるいは何でも東日本大震災の被害に吸収・統合されてしまう部分はあるんじゃないかと思います。2016年に発生した熊本地震から10年経った時、そのタイミングで「私はあの地震から10年経って、ようやく答えをだそうと思いました」みたいな事を悩みながら表明し、創作として吐き出したい位ショックを受けたクリエイターがどれほどいたんでしょうか?何かそのあたりにおける文化的な意味付けにも、正直居心地の悪さを感じる自分がいて・・・。
という事で、いささか前置きが長くなりましたが、『ロボット、被災地へ行く」ではこの手のわかりやすさをある程度拒絶しながら、災害における問題点や善意の葛藤を描いている所がいいと思いました。
小学5年生の少年、悠真は父親からプレゼントとして貰った、ペット見守りロボットの使い道を考えていました。
そんな中、能登半島地震が発生。児童書故にそこまで鬼気迫る書き方ではないですが、怒号のようなアナウンサーの声や、焼け野原となった市街地の描写には、かなり生々しさがありました。逆をいえば、あの元日における混乱や被害の状況を、中松氏がきちんと押さえていたからだと思います。
話を戻しますが、そこで悠真はロボットを能登半島地震の被災地で何とか役に立てようと思い、ロボットを石川に送る事を思いつきます。ですが、みんなが好意で迎えてくれるわけではなく、悠真はロボットごときに何ができるかという被災者の厳しい目に晒される事になります。へこたれそうになる悠真ですが、改めて努力するうちに、ロボットが持つ可能性を再認識するようになり・・・という感じです。
本作は能登半島地震そのものだけではなく、そこから被災者が抱えるジレンマ(「頑張っている被災者」という過剰な英雄視の裏にある、複雑な感情)や、今では全く報道されなくなっても、コロナ感染はある程度現在進行形である状況などが書かれていますが、最初にも書いた通り、テーマに対して読者と作家の合意形成が得やすい東日本大震災ではなく、能登半島地震をベースにして語っている所が、一番重要な所だと思います。更に、ただ能登半島地震ではなく、悠真が直面した現実を東日本大震災が孕む問題(間違った支援や野次馬)に話を繋げている所が、災害系の児童書として、非常に抜かりが無いと感じました。
だからこそ、語弊を恐れずに書けば、東日本大震災はその規模と内容故に、日本社会全体の命題による伝承と問題提起として選定されるケースが多いです、それだけ重要だからこそ、東日本大震災を物語の典型例として終始させるのではなく、他の問題にもしっかり目を向けているのが、『ロボット、被災地へ行く』の魅力だと思うんですよね・・・。