―「わたしは、おしつぶされるのはいやよ。はっきり、ノーというわ。」
青木 和雄『ハッピーバースデー:命輝く瞬間』より
―子ども達の感情的・認識的な準備ができ、極度に悲惨かつ概念的にも複雑な諸問題を扱える段階に達するのはいつなのか。それこそが決定的な問いであるべきである。
デイヴィッド・ソベル『足もとの自然からはじめよう:子どもを自然嫌いにしたくない親と教師のために』より
以前もちょろちょろこういう系の話をこの公開日記で書いていたと思いますが、書店の児童書コーナーを見る度に、投資とか闇バイトとか、働くことの意義とか・・・なんか世知辛い本が並ぶようになったなーと思います。まあ、私が無知でこうした傾向は前からあった・・・とは感じてますけど・・・。
ですが、なんなんでしょう・・・こうした本に感じられる大人の無邪気な意志・・・みたいなものは・・・。高度情報化社会に伴い、一発の刺激で社会が破滅に至るリスクは比例しているように見える今日、『漂流教室』が当時の公害や戦争の不安を子供に託したように、大人の立場「だけ」で子供にそのまま社会が孕むリスクを伝えればいいという考え(に基づく善意)が、この文章の初めに挙げた児童書から漂っているのです。
丁度、このポスト・・・X経由で『ファスト教養』が最近話題となったライターのレジー氏のものなんですが、あの子供の発達段階とか成長過程とかいったキャパを考慮しない児童書への激しい違和感を見事に表明しているように思われます。 ちょっと私が上げてる児童書とはニュアンスが違うかもしれませんが・・・。
リンク先のポストの言葉通り、「中身」という基本的な部分ができ上る前に、そこら辺を考慮せずに子供を市場競争や自己啓発の論理に引きずり出すようなやり方は、寧ろ子供にとって有害であるとすら思います。その「中身」が伴ってないうちから、いきなり自分の頭で考えろとかリテラシー能力を鍛えろとかいうのは無責任であるし、要らないおせっかいともいえます。余計かもしれませんが、その中には・・・2chの管理人だった人がいるのも・・・。
得てして、段階をすっ飛ばして投資テクとか労働の意義とかを詰め込もうとする大人達は、「学校では教えてくれない」という言葉を金科玉条のように振りかざすフシがありますが、逆にいえば、投資テクとか労働の意義というツールを意義として使うためには段階が不可欠で、その為に学校が存在しているということを軽視していると感じます。
じゃあ・・・一体どーすりゃいいんか・・・って話なんですけど、少なくともこうした大人達の善意こそ懐疑の念を持っておかな・・・とも思うし、『謝るなら、いつでもおいで』というノンフィクションで、こういう言葉があります。
「清く正しく美しく、なんて教えようとするからダメなんだ。いま子どもにいえるのは、ボーっとしていいんだよってことだけだよ。ゆっくりしてていいんだよって」(135P)
ですが、現実社会が(高度情報化の進行に従い)一寸先は闇の毒気に満ちている分、「ボーっとしてていいんだよ」「ゆっくりしてていいんだよ」といい切ることも、正しさの一つかもしれません。逆に、何かあればAIとか闇バイトととか誹謗中傷とか、大人の立場で子供を社会の毒気に晒すことが正しいとはいえない・・・かと思います。勿論子供とはいえ、いつでもボーっとしていいわけがないですが・・・。
私だって就職せずにバイト生活、絵の方だって上手くいってないしあんましロクな大人とはいえないし、子供達の未来をどうこういえる資格は全くないのは承知です。それと、まかり間違っても未成年に提言やアドバイスをしようというなんて、絶対やる気ないです。今がこのザマですから。逆に反面教師にしろというのなら、いくらでもできますが(笑)
でも・・・なんかアレコレたまっとたしなぁ・・・。さらにいえば、エピグラフの本の方がよっぽどまともな文章じゃ・・・(泣)