先日、川上 幸之介氏が開催されている企画展「ファランジェ」にお邪魔いたしました。
基本的に、生きていくためにはカネにも行政にも頼らざるを得ない現状がありますが、一定の社会批判が何らかの媒体でないと不健全であると考えています。こういう所から、自分の政治的な心情と現代アートのスタンス・・・とでは相容れない部分もちょろちょろとあるのですが、学生時代を過ごした街に再び行けたということと併せ、最高の日となりました。
会場はKAG様で、倉敷駅近くにある古くて小さなビルの3階にありました。基本的に、私はこうした雰囲気の場所にあるギャラリーも好きでして・・・。多分、銀座の奥野ビルに2回ほどお世話になってきたからでしょうか・・・。広島の廃墟ギャラリー様にお邪魔したこともありますし・・・。
では、下の方に会場の写真をアップいたします。
色々と展示された作品を見てから、やっぱり感じたのはファシズムとか資本主義の弊害、歴史修正主義とかいった「いま」(の悪い部分)を構成している断片を、いかにうまく作品として抽出できているのかがカギとなっているように思われました。そこだけをただ強調していくと、独りよがりで適当なものになりがちですが、作品として成立させなければいけない分、皮相な反権力や震災観やコロナ観にも疑念の眼は向けていきたいな・・・と個人的には考えています。最も、会田 誠氏の作品でゲラゲラ爆笑していた自分にいえる道理などないのかもしれませんが・・・。
特に印象に残ったのは、DASの作品でした。サイケな絵柄が目を引いたのかもしれませんが、毒気のこもった初代シムシティ・・・みたいな感じがしました。そこにあるのは街をパソコンにインストールしたソフトウェアが生み出す電子空間で構築していく楽しみではありません。上から見下ろした視点で描かれた、きめ細かい町の絵を見ていると、寧ろ、そんな狭い空間に押し込まれてアクセクしている(そういうものを作った方の掌で見事に遊ばれている)現代人への冷たい視線を浴びているようでした。
それと、マルコ・ラコウィッツ氏のパラサイト・シェルターでしょうか。私も大して社会的弱者にロクな助けができていない分敢えて書くのですが、当事者を置いてけぼりにして、評論家と作者の言葉遊びで弱者をダシにしている作品(パフォーマンス)もある中で、こうした取り組みは本当にまともだなと思いました。
SNSのぬるま湯でホームレスを始め、社会的弱者を「志〇どうぶ〇園」のような感覚で消費し、好き勝手に社会を腐しているようなオンラインユーザーがいる中で、当事者を対等に見ているからこそ、アートという安全圏に逃げることなく、問題に現実的なアプローチができていると感じました。
それに比べれば、本当に自分が作品の文脈としているものは弱い・・・のかなとか思ったり・・・。今の自分の立場で、こんなことは絶対に書くべきじゃないですが、まあ児童書原作のアニメだってすごくあるんだから、児童書でも・・・みたいな考えがあります。でも、なんかどっかでアプローチに失敗し続けているというか・・・。これは自分が世間知らずなのが悪いってことでいいでしょうか?色々と悩んでいます・・・。
で、話は変わりますが某本を読んでいて結構ムカつくことがありました。道徳について書かれた本だったと思いますが、なんか現代アートを思い付きで叩いているような箇所があって、真面目に向き合っていることを知りもせずに、感覚のズレた社会不適合者のなれ合いみたいないい方をされると、「ちょっと待てや!」と思ったり・・・。確かに、そう取られても仕方のない作品があるのは事実です。ですが、みんな楽々とやってるわけじゃないです。
例えるなら、ピアニストや指揮者と違って、DJというのは適当にターンテーブル回すだけで大金貰えるし、リスナーと併せて音楽的素養のない人達の方が評価されがちでしょ?というのと同じかと・・・。