今日は修羅場でした・・・これが後2日も続くので、到底正月モードに入れん・・・。
明日に備えて、今から寝ますね・・・。
画家、藤高昇太の公開日記(ブログ)です。主に出展のお知らせや、近況などを書いていきたいと思います。なお、整理のために一部の記事が削除される事がありますので、ご了承ください。 ◎本ブログの文章の一部引用および画像の無断転載を許可いたしますが、以下の注意を守ったうえで、自己責任でお使いください。1.営利目的・非営利目的(何らかの収入を伴わない)に関わらず、出典の明記は大体わかる形でもかまいません。そちらのご都合に任せます。 2.政治的・社会的な信条にかかわらず、いかなる表現も許可いたしますが、最低限のTPOとモラルを守ったうえでご使用お願いいたします。なお、タイトルに◎がついた作品は、版権ネタですので無断転載をご遠慮ください。
まぁ・・・私は個展とか企画展とかに参加してから、キャンバス作品(あんな高いものは売れないのが普通です)はともかく、小冊子や絵葉書が売れれば「お買い上げいただきありがとうございます!」と素直に感謝の念を抱きます。
ですが最近、そういう話について考えてしまう事があって・・・。
何か、一部の喫茶店とかギャラリー、オタク界隈は初心者や趣味者に排他的な態度を取る事で、価値表明をするケースがありがちですが、自分も何か個人的に「折角買ったのに、そういう態度で返されるの・・・?」みたいな経験をしました。向こうに悪意はなかったのかもしれませんが、そこに対して深堀すれば、要らんお気持ち表明になってしまうのでここらで止めときます・・・。
まぁ、これはグラデーションなんだと思います。売る方にも買う方にも選ぶ権利はあります。ギャラリーに限っていえば、ギャラリーストーカーみたいな迷惑客や所属作家をスカウトするためにやって来る勧誘系ギャラリーのスタッフは(業界を汚さない為にも)シャットダウンする権利はあるし、正直私もお客様対応で少なからず「イラッ」とした事がありました。ですが、そこはお互い様、売る方にも問題は存在します。勝手に自分のやっている事を敷居が高いと思い込んだり、そこに対して知識がなかったり(要するに気まぐれに立ち寄ったりする趣味人)する人に排他的な言動や無神経な態度を取ったりする実態はあるわけで、どっちにも刃は向けていかなければ・・・というスタンスです。自戒の為にも・・・。
で、やっぱり買う方からも色々問題は生じてるのはわかるんですが、特に美術業界のしきたりを必要以上にちらつかせて、ガンプラ説教おじさんみたいな態度を拗らせてるギャラリストも、なんかねーと感じたりするわけです・・・。あれははっきりいえば、問題提起とかじゃなくて説教や人を腐してテリトリーを守ること自体が好きな人じゃないかと疑ったり・・・。
「カーズ」というアニメ映画では、ラストでマックィーンがチックに跳ね飛ばされ、クラッシュしたキングを助けるシーンがあります。それはラジエーター・スプリングスでの経験から、今までレーシング業界で傲慢な振る舞いをしてきた自分へのカタのつけ方で、彼は結果として負けてしまいましたが、他人(他車)を傷つける事で勝利を収めたチックが総スカンを食らったのに対してみんなから称賛を浴びます。
ライバルを助けるという意味では、(また書きますが)うさくん先生の読み切り漫画『ピカピカアイドルさやか』にも一定の共通点はあると思います。主人公のさやかはアイドル同士が競争するイベントで、司会の操るロボットにセクハラ妨害されるライバルを助けるんですが、その理由が、「憧れだった存在と邪魔者なしで勝負したかったから」でした。
ここで、「カーズ」とは決定的な違いが生まれます。 勝負が再開された所でさやかは見事勝利、つまり1位の座を掴むのです。この辺りについては、非常に考えさせられます。
自分自身のモラルの為に、勝利のチャンスを敢えて捨て去り、重傷を負ったライバルのもとへ駆けつけたマックィーン。まっとうな勝負ができない環境を排除する為に、敢えてライバルを助けて勝利を獲得したさやか。 そこに、私は勝負のあり方というものを考えてしまいます。
結果は違えども、「カーズ」を監督したジョン・ラセター氏とジョー・ランフト氏、『ピカピカアイドルさやか』の作者であるうさくん先生は、勝負にはモラルが必要だと訴えている所ではストーリーの骨子は同じだと思い、勝負事だらけの世の中(ここでもそういう事について書きましたが)だからこそ、色々自分で持っておくべき指標は必要だな・・・と感じたのでした・・・。『ピカピカアイドルさやか』では、ゲームの主催者が勝負という聖域を汚す現実が書かれていたわけですし・・・。
この文章でちょっとマイケル・サンデル氏の『実力も運のうち』について(町山 智浩氏の偏差値35発言に絡めて)触れたのですが、本書を自分も試しに読んでみた身として、みんながサンデル氏の能力主義批判に付和雷同している中で、結構私は醒めた目であのブームみたいなものを見ていました。
ですが、サンデル氏の主張は正しいんですよ。学歴は金の問題も関与しているとか、自分の努力に自惚れることなく、そこに「運」を見出して謙虚な気持ちを持てとか、そういう所から、エッセンシャルワーカーがバカにされてるけど、職業に貴賤は無いでしょ?という話なんですが・・・。すみません、ちょっと読解能力に自信がないので、そういう内容だったと記憶しています。だから間違ってたらすみません・・・。
で、何か問題だなと思うのは、※サンデル氏の(『実力も運のうち』における)主張自体ではなく、本書に賛同している知識人やネット世論なんですよね・・・。何か日本の学歴言説のダブルスタンダードぶりを露呈しとるというか・・・。 個人的に見れば、都合のいい時には「能力主義が分断を生み出してる」とか、「学歴や職業で人を差別することは間違っている」とかいう美辞麗句をハーバード大学教授という虎の威を借りて振りかざしていますが、都合の悪い時には「定員割れ大学は潰せ」とか「公立中学は動物園」みたいな(Xとかはてな匿名ダイアリーみたいな場所をメインとした)ヘイトで、特定の教育機関や関係者に対する死体撃ちをしてきた、つまりアクセルとブレーキを同時に踏み続けてきた、つまり有利になる状況と相手によって掌返しを巧みにしてきたのが(主に)ネットに蔓延る日本の学歴言説だったのだと思います。実際に、「偏差値の低い大学」を侮辱して嘲笑するような文脈はポップカルチャー上に溢れ返っていますが、こういうタイミングでサンデル氏に諂っている人間が、これまで毅然とそれを批判してきたのか?とも・・・。
そして、日本よりも学歴主義が熾烈なアメリカだからこそ、サンデル氏が呈した問題提起が受験制度そのものを憎み、目標に向かって努力して成功を目指す事自体を、酸っぱいブドウか何かのように解釈して、人気が集まっているのも何だか残念な気がします。日本には弱者に寄り添うフリをしながら、努力や成長しない事自体を仮想敵への憎悪を煽る事でアンダークラスをダシにし(「不都合な真実」みたいな本が、ちょくちょくベストセラーになったりしていません?)、格差の中で特権階級に君臨するインフルエンサーみたいな人達がいますが、そういう人達のお粗末な形で自称弱者の劣情に訴える言説とチャンポンにされてる・・・みたいな現状があるかと・・・。
それに、何でオバマ氏の能力主義肯定論にはあれほど痛烈に批判するのに、政治家としての対応能力は彼より劣っていた(数々のヘイト発言や支離滅裂な政策)ドナルド・トランプ氏への批判がないのは不公平ではないか・・・そんな気持ちも正直ありました。上にも書いた通り、問題提起は正しい部分もあるんですが・・・。大学入試くじ引き制度に関しても、そこに選抜というシステムが存在する限り、選民思想は燻り続けるんじゃないかと思ったり・・・。「俺はくじに当たったから、当たらなかったお前は貧しくて当然だ」みたいな・・・。
まぁ・・・自分も学歴社会のはみ出しっ子みたいなもんですが、その分違和感はあったんです・・・。『実力も運のうち』がしたり顔で持ち上げられるのを見て、何を今更・・・とね・・・。
今日はちょっと用事があって、安佐北区の方まで行きました。やっぱりバスは高いです・・・。JRを使えって話ですよね・・・。
明日くらいに暇があれば、サンデル氏の『実力も運のうち』に対する、(主に日本の)反応について話がしたいな・・・とか思います。本当にあれでいいのかという考えが、正直あったので・・・。
この度、皆様のおかげで紙屋町ベース様にて開催させて頂いていた、個展「Inter space」が無事に終了いたしました。
この場をお借りして、 個展を開催させて頂くにあたり、非常にお世話になった紙屋町シャレオのスタッフの方々、御多忙中にもかかわらず会場にお越しいただき、拙作をご覧になられた上にお買い上げ下さったお客様等に、厚くお礼を申し上げます。
個人的には、絵葉書ではなく自作小説の売れ行きがかなりあったかな?・・・と思います。文字ばっかりなのに・・・。でも増刷した甲斐はありました。
そして最後に、本展で経験したことを糧に、更なるベストを尽くしていきたいと思います。
原爆投下と、その孤児を扱った絵本『そのときぼくは9さいだった』(作:あごうしゅうじ氏・絵:小泉 るみ子氏)を読みました。一応、その原作である『原爆と朝鮮戦争を生き延びた孤児』も読んだのですが・・・。
多くの作品と同じように、原爆の被害者、特に子供だからこそその経験は一層苛烈なもので、家族を失い、なす術もなかった少年に手を差しのべた朝鮮人の金(キム)さんの善意には、頭が下がるものがあります。かつての日本は朝鮮半島に差別と抑圧の限りを尽くしてきたので、普通なら加害国の人間という事で見捨ててもよかったはずですが、そうした怒りや復讐の感情を飲み込み、孤児となった少年と一緒に故郷へと渡った金さんの心情を想像すると、かなりの覚悟や決意を感じる事ができました。ですが、『原爆と朝鮮戦争を生き延びた孤児』では金さんは「金山三郎」となっていましたが、なぜ名前を変えたのかという疑問が残ります。
そして、このお話は現在数多く出版されている「反戦・反核」系の絵本や児童書と同じような「見落とし」も存在すると思うのです。なぜ、金さんは戦争が終わった時に喜んだ(原爆で家族を失った少年にとっては、セカンドレイプに等しい仕打ちだった)のか、日本はアジア周辺諸国にどのような仕打ちをしてきたのか、そこら辺を問われるととたんに目を逸らし始める弱さが存在すると思うのです。それに、1970年に建立された広島の韓国人原爆犠牲者の慰霊碑も(林 志弦氏の『犠牲者意識ナショナリズム』も指摘している通り)平成、つまり1999年になってからやっと平和記念公園に移転するという感じだったので、そうやって「ハネ」にしときながら、被害者に優しくしてくれというのは、図々しくないか?とも・・・。
岡田 索雲先生の(関東大震災における朝鮮人虐殺を扱った)短編漫画『追燈』では日本人の加害性がはっきりと描かれていましたし、東 曜太郎氏の児童書『灰とダイヤモンド』でも主人公のルーツをはっきり「戦争加害者」として存在させ、それとどう向き合うかがはっきり書かれていましたが、上に書いた子供向けのメディアでは、今まで虐殺や侵略の限りを尽くしてきた戦争被害者、つまり相手に許される(ここでも「許し」について書きました)という美談をもって、暗に救済と和解を強要しているような作品がまだまだマジョリティだと思うのです。
『パオズになったおひなさま』や『幽霊少年シャン』のように、「こっちは現地の人と仲良くしていたのに、軍部が戦争でそれを壊した」みたいな話を見る度に、私はこうした清らかな話の裏にある、痛烈な視線を感じざるを得ませんし、いつまで相手の優しさにもたれているわけにもいかないなと感じています・・・。
最近・・・やっと挿絵を描き始めました。モノクロのやつです・・・。
スクリーントーンじゃなく、カケアミの方がラクなんで・・・それで濃淡を出しているというか・・・。情けない話ですよ・・・。
でも、作品世界のガジェット(特に車とか建物とか)を考えるのは、楽しかったりします・・・。
昨日、個展「Inter space」を開催していたわけですが、意外な人と会いました。もう接点は殆どないだろうなとぼんやり考えていた時の矢先だったので・・・。まぁ、覚えてくれているという事はかなり有難い事ですし、一層縁というものを大事にしなければ・・・そういう感じでした・・・。
もう明日で「Inter space」は最終日ですが、その分頑張っていきたいです・・・!
現在、紙屋町ベース様にて、個展「Inter space」を開催中です。
下に、その様子をアップしますので、どうかご覧ください。
このように、キャンバス画をメインに出展していますが、お決まりのようにメカと少女です・・・。 特にメカは線画を使っているので苦労は主線を使わない少女画より苦労が多いですが、やりがいはありますね・・・。といっても、労力を時間換算するという(まだまだの人間にとっては)結構勘違いしやすい領域なのですが(汗)
はい・・・私の靴(スニーカー)が写ってしまっていますが、それはそうと、拙作の絵葉書と自作小説も販売中です。「放課後ウォータイム」はかなり力を入れて書いたジュブナイルSFなので、どうかよろしくお願いします。1人の少女が遠隔操作型ロボットを使用した宇宙戦争に巻き込まれる悪夢を何度も見ており、それが彼女の経験したとある事件に関わってくる・・・そんな内容です。一応、実際の事件をベースとしているので、それなりに参考資料は読み込みました・・・。
それでは、最終日の21日(日)まで、どうかよろしくお願いします・・・。
木瀬 貫吉氏の『本づくりで世の中を転がす:反ヘイト出版社の闘い方』という新書を読みました。私はこらからの『NOヘイト!:出版の製造者責任を考える』を読んでおり、やっぱりあの状況でいうべき人が出始めたな・・・という感じでした。だからこそ、新書という媒体でもかなり酷いものが発行されており、ヘイトでなくとも倫理的観点から見ると「アレ」なものが新書大賞を受賞したりしていると思うので、まだまだ「悪貨が良貨を駆逐する」的状況への物申しは、私も表現者の一人として続けていかなければ・・・と感じています。
なお、ヘイト本に関しては著者の一人であるケント・ギルバート氏が槍玉に上げられていましたが、あんな人物が客員教授だという事は関係した者のOBとしてかなり失望と怒りを抱いています。韓国人留学生に対して(そう見えるように)行った仕打ちも含め、かなり自責の念を抱いております・・・。
レジー氏の『ファスト教養:10分で答えが欲しい人たち』では、アートも槍玉に上げられていましたが、最近Xにおいて(ざっくばらんに纏めると)アートは稼げないといわれているが、妻の友人が美術を専攻して就職に苦労、不動産業界でその知識を生かして大成功を収めた・・・というポストが、かなりバズっていました。
まぁ・・・私も絵を描いてる身ですが、そういう文脈での教養礼賛や勉強礼賛って、Xで受けやすいと思います。 たしかにそれら自体は非常に大事だと思います。私だって怠ってきた分損してる部分はあるんですから・・・。
ですが・・・『ファスト教養』の指摘にあるように、教養って稼ぐために存在するのでしょうか?確かに一理はあると思いますが、社会的地位の向上や所得の増加の目的が教養(アート)の効用とされるのも、随分と下品な気がします。(上にも書いたように)私も絵を描いているので尚更です。確かに承認欲求や欲望はありますが、文化の存在意義というのは目先の利益みたいなものの以前に存在する大事な所から生まれるものであって、それを大事にしないといけないんじゃないのか・・・?と考えていたり・・・。まぁ、完売画家みたいな存在ではない人間のルサンチマンだといわれればそれまでなんですけど・・・。
これは医者をしている親戚の話ですけど、大学の医学部で講演をした時、学生から「医者って儲かるんですか?」と聞かれて唖然としたという話を聞かされた事があります。引用リポストも見て、「教養=金と成功」みたいな身も蓋もない称揚を見てると、私は親戚の話を思い出さずにはいられません。
ああ、それとSF作家の山本 弘氏も『料理を作るように小説を書こう』でも書かれてましたよね・・・。「作家は、金儲けが目的でなるような職業ではありません。そんな人は早晩、挫折するでしょう。」(42P)と・・・。だから自分もああいうアート万能論に違和感を覚えてたりするんですよ・・・。絵心が無い人や学ぶことが苦手な人を漂白してる気持ち悪さが漂っているというか・・・。
白矢 三恵氏の児童書『ぼくらの教室RPG』を読みました。何か、(タイトルが示唆する通り)ひょんなことからゲームに登場するキャラのあだ名をつけられ、ノリのいいクラスメイトのスバルにネタにされ始める少年、秋人を中心にして、「イジり」という行為を考えさせるようなストーリーなのですが、私が真っ先に思い出したのは、安田 夏菜氏の『なんでやねーん!』という作品、つまり同じ児童書でした。
『なんでやねーん!』でもお笑い芸人を両親に持つ少年が、生真面目なクラスメイトの些細な行動や態度をあげつらって、お笑い芸人の相方になって欲しいとしつこくつきまとうシーンがありました。結果、こちらの方はハッピーエンドになっていましたが『ぼくらの教室RPG』はそうした世に蔓延る「お笑いセオリー」が状況によっては加害になり得ることを、きちんと書いていました。こちらのリンクはかなり前の文章でも貼りましたが、こうして人を躊躇なくお笑いのネタにするという事は、(表層的な)コミュ力の高さはあれどもハラスメントの温床となりうるわけです。
で、本題に入りましょう。『ぼくらの教室RPG』では、物語が進行するにつれてどんどんイジりがエスカレートしていきます。そして、この話がいいと思ったのは、ただ加害者であるスバルを成敗するという単純な話にしていない所です。今まで散々スバルと一緒にイジりを持ち上げてきたクラスメイト達が、秋人に理があるとわかった瞬間、スバルを叩き始めるという群集心理のどうしようもなさも描いています。そこで、物語のテーマの一つである「空気を読む」という事に一撃が下されるわけですが、 根無し草のような人間が生み出す加害の構造から抜け出し、真の精神的自立を歩み始める事こそ、薄っぺらな「コミュ力」に流されていくより大事なのだという事が感じられました。
近年、そうしたコミュ力礼賛の風潮のもと、大人しくて浮いている(もしくは、ノリが悪い)人を「ぼっち」とか「コミュ障(症)」みたいなスラングで死体蹴りをするような漫画とかライトノベルが流通していますが、そうしたハラスメント仕草については、もっと批判が加えられてもいいのではないかと思います。 リンク先の記事でも、精神科医の斎藤 環氏が「スクールカースト上位者はコミュ力は高いが共感力は低い」と書いていましたが、まさにそうだと思います。
じゃなければ、人を笑いものにしてイジれるわけがないです。 『ぼくらの教室RPG』ではそうした構造がラストできちんと解体されていましたが、現実では何らかの強者が弱者を一方的にいたぶるというユーモアが、子供向けの作品でも氾濫しているというのが現実なので、『ぼくらの教室RPG』のように、「イジり」の被害にあっている子や、それをよしとしない子達へ地道に武器を配っていくしかないのかもしれません・・・。
今はBlueskyを使ってるんですけど、こういうポストをXで見ました。BlueskyもBlueskyで何だかな~と感じているので・・・。
正直、オープンな所に身を置いてると、疲弊するんですよね。正直・・・。
Facebookみたいなクローズドな所がやりやすいというか・・・。まぁ、それじゃあ宣伝にならんのんでっていう話で・・・。
今後の動向次第では、Xのアカウントも・・・とは思いますが、あの地獄を見た分では、とも・・・。
まぁ、地道にネット活動はやっていきます・・・。
こちらで、川名 壮志氏が原作を務められ、棚園 正一先生が作画を務められた『ひみつ―佐世保事件で妹を喪ったぼくの話』をバンチKAIにて読みました。まぁ、連載前からアレコレ書いて読まんのは(少しガラの悪いいい方になりますが)仁義に反すると思ったので・・・。
で・・・ プロローグと1話を読みましたが、正直「表現がアレじゃん・・・」と思いました。
内容を無自覚になぞっているというか・・・。あの事件における焦燥感や迫力はホントに感じられるのですが・・・。
やっぱり、悪い予感は当たったんですよ・・・。リンク先の文章でもう自分が部外者だという「言い訳」は散々書いたのでもうここではナシにしますが、あの『謝るなら、いつでもおいで』や『僕とぼく』を読んでいる身としては「死体とか犯人を露骨に出すなよ・・・!」と思いました。やっぱり、※東日本大震災を題材にした作品で町を破壊していく津波や大破した原発建屋を描いたり、新型コロナウイルスを題材にした作品で医療現場やパンデミック下の現実をリアリティに基づいて書くような表現とは、性質が違いすぎると感じました。私もあの2冊のノンフィクションに書かれていた、当事者が孕む繊細なセンシティブさに晒されていたからでしょうか、「ぼくたちのムッシュ・ラザール」や「ライフ・イズ・ビューティフル」等のように抜くべきところは敢えて抜く・・・という方が良かったように思えます。
それでも、連載がどうなるかはわかりませんが、あの事件を少しリサーチすれば、加害者の少女がネットで歪んだ礼賛をされていた事はわかるはずで、被害者及び被害者遺族へのセカンドレイプすら助長するような表現に勤しむ人間も存在しました。実際に、最近訪れたとある展覧会では、そういう表現をしているキュレーターも存在しました。ドールを作っていてね・・・。
だからこそ、キャラクター自体を出さない・・・そんな感じで行ってほしかったというか・・・。文章と台詞だけで表現する・・・みたいな・・・。
自分自身、プロの漫画家ではないのでこういう文章を書くのは憚れる事は百も承知だし、遺族でもないのに口出しする事も単なる自己満足で、もしかしたら問題を混乱させているだろう事は百も承知です。ですが、『ひみつ』が(現時点の段階で)川名氏が事件において、当事者と共に歩んできた(良識と苦悩に基づく)道のりへの尊重や配慮ではなく、どっちかといえば『「子供を殺してください」という親たち』とか『ケーキの切れない非行少年たち』みたいな エクスプロイテーション的なものになってるなと・・・現時点では・・・。すみません・・・やっぱり加害者が描かれたという所に・・・しかもお互いが子供だというセンシティブさにメチャクチャ反応してしまったので・・・。ですが、最初に書いた通り、導入部のパニックの描写や大人達の混乱はすごく臨場感があり、単なる残酷さを安売りする「実録事件もの」とは違う迫力はあるなと・・・思いました・・・。
※まぁ、自分もああいう露骨な表現が好きじゃなかったりするのですが・・・。
Xを見ていた所、イラストレーターの楢 喜八氏が亡くなられたというニュース(ポスト)が、目に飛び込んできました。 また、惜しい人が・・・という気持ちです・・・。
楢氏のイラストを最初に見たのは、お決まりの如く講談社のKK文庫から発行されていた、『学校の怪談』シリーズでした。それだけではなく、他の書籍でも楢氏の作品はいくつか見た事があり、子供向けの怖さと大人向けの怖さとで、(私のような若くて、キャリアもガタガタな人間がこれを書く事はどうかというのは百も承知ですが)きちんと使い分けができる人でした。その分、楢氏のイラストには本気を出せば容赦が無いものがありました。だからこそ、学校の怪談シリーズでは、ちゃんとエログロを使わない配慮と優しさがあったと思うのです。
これは私見ながら、世に出回っている子供向けの怖い話では大人の感性を子供に対して捌け口にする事が、美談と捉えられる風潮があります。要するに、子供でも本気を出さないと負けという感じでしょうか? 子供向けの創作であってもガイドラインが曖昧な分、そうなのかもしれませんが、そこら辺のリスクも考えずにやった結果、児童向けホラー(主に児童書や漫画など)でも独善的なエクスプロイテーション的なものが散見されるのが現実です。
こういう所から、一部のマニアとかオタクが運よく自分がそうした事への耐性があったからといって、子供に「トラウマ」を与えよと大はしゃぎして「配慮する優しさ」を冷笑する傾向がありますが、一流の恐怖や闇を提供できるクリエイターというのは、きちんと相手の発達段階を考えて自分のパワーを調節できる「優しさ」がある人ではないかと思います。
まあ・・・長々と楢氏の『学校の怪談』シリーズばかりをメインにして語ってしまいましたが、 歪な構造と細かい線画で構成される楢氏のイラストは他の書籍でも目にしており、私の中では水沢 悦子先生の『ヤコとポコ』で論じられていた「個性」という概念を滅茶苦茶ナチュラルに体現できている人だったと感じています。それ位多くの修業をされてこられたのだなと・・・。
そんな素敵なクリエイターさんは、私が見ている世界で数多くいますが、まだまだ私はその領域にたどり着けていないので、結構・・・悔しいなという気持ちが燻っています・・・。努力不足だから、頑張らねば・・・!
今日は何となく、2回目の更新をしました。新井 けいこ氏の児童書『エレベーターが止まったら』という作品を読んだので・・・。
新井 けいこ氏は、こちらでも共助の美徳について語られていますが、『エレベーターが止まったら』もその一つだと思います。私はタワマンに住んだことがないので、その実情(家賃とか住民同士のアレコレ等)については全くわかりません。だから口出しをするのはどうかと考えますが、一応は感想は書いておこうかと・・・。
まぁ、33階建てのタワマンに住む2人の少年が、エレベーターが故障で止まってから、屋上で開催されるクリスマスパーティーをメインにして、人助けに奔走するというお話なんですが、個人的には「ちょっと・・・」と感じています。想像してください。33階建ての高層建築物を、階段で上り下りする事は大人でも重労働だし、小学生なら猶更でしょう。
私だってそれなりに稼いで生きていければ、お互いに干渉せずに生きられる生活を夢想した事が何度かあります。ですが、現実は人とのかかわりや尊重を自覚しなければ生きていけません。社会に馴致されずとも生きていける(もしくは、そういう権利があると)と宣うのは、普段から自分が腐している「普通の人」 の連帯に守られていると気づきもしない、身勝手なインテリ気取りでしょう。
だからこそ敢えて書きますが、 本来なら(結構嫌な書き方ですが)大人同士が負担と責任を分け合わなければいけない事を、小学生の子供の耐久力を無視して与える事を、果たして一方的な美談として片付ける事が正しいのでしょうか?そんな重労働を、小さな子供の身体に期待として背負わせる事は、寧ろ独善ではないのかという疑問が頭をよぎりました。
新井氏の善意のギヴ&テイクに対する理念は真っ当だし、社会問題に対して独り善がりであざとい説教やアイデンティティ闘争ばかりが先行しがちな今日の児童文学界に対し、まっとうで地道なメッセージは必要とされるものでしょう。だからこそ、人助けや手伝いといっても、大人が耐えられる負荷を子供にそのまま与えるのではなく、年齢や発達段階に沿ったキャパに調整すべきだったのではないか・・・そう感じています。じゃないと、児〇書読〇日記というブログが『ステイホーム』の感想で書いてたような、※「共助という甘い幻想を叩き潰す」という所から社会の基幹に難癖をつけ、その破壊すら望んでいるような無責任な自説にお墨付きがつく事になるのでは・・・とも思います・・・。
※そういう状況で生きていけるのはこの文章で書いた通り、一部の富と権力に恵まれた勝ち組だけで、散々自分が諂ってきた弱者にとっては修羅の国になる事への想像って、あるんでしょうか?多分ないでしょう・・・。
最近、行こうかと思っていた展覧会ですが、ちょっとXで調べてみた所、結構微妙な気持ちになりました。
うーん・・・自分も企業案件とかプロの作家さんに依頼とかやったことがあるんで、その重みを十分思い知った上なんですが、 やっぱり裏切りになる事はやっちゃいかんだろ・・・そう思います。ましてや有償依頼でお金を払っているのにこっちの都合でできません、ていうのは謝罪と自虐の連呼で済むもんじゃないじゃん・・・と感じています・・・。そこまで不安定ならやらん方がよかったのでは・・・とも・・・。こちらこそすみませんね、あの金銭的(社会的)責任が生じてやり取りする時の緊張感を思い出しちゃうんで・・・。
で、話は変わりますが図鑑を昨日買いました。結構高かったですが資料用にと・・・。 一応、子供向けですが、そっちの方が結構カラフルで丁寧に解説されているので・・・。
最近、寒さのせいか喉の調子が悪い(&体がだるい)ので、トローチを買って舐めました。熱は無いんですがね・・・。
でもやっぱり冬は好きですよ・・・汗をかかないんで・・・。
そういえば、キャンバスの下絵に取り掛かりました。ホワイト修正じゃ・・・相変わらず・・・(泣)
今描こうとしている作品の・・・方向性を変えようかね・・・と思っています。
もう色々書きたいことは山積みですが、リアルでのアレコレを優先したいと思います・・・。 でも別の話も書いといたほうがいいかな・・・。
まぁ・・・「巨悪」とはいいますが、また林 志弦氏の『犠牲者意識ナショナリズム』の話をしたいと思います。その中で「日本やドイツみたいな敗戦国ほど、犠牲者意識ナショナリズムが強かった」みたいな話があり、反戦論者の一部では「日本は反省しなかったが、ドイツはちゃんと贖罪した」というのも(一部が)神話だという事がわかります。イスラエルへの賠償?こっちはヒトラーやその側近に騙されてスッテンテンな上に、連合当局の手で分割統治までされとる踏んだり蹴ったりな状況で、そんなん知らんがな!的な態度だったと書かれていました。
で、「巨悪」の話になりますが、よく反権力系の知識人によってこの言葉が使われていますが、そうした弱さが隠れているような感じがします。
今日は来年の事で、一段落済みました。
今度は個展の準備です・・・こちらの方は、遠距離じゃないので融通が利きやすいですね。バスに乗って一発で行けますから。
まぁ・・・今日はデッサンの練習をしてました。アレ関係がホント高かったので、同じ内容が収録された、安い雑誌を買いました。で、高市氏の事が記事で取り上げられていましたが・・・今、「口は禍の元」を地で行ってる展開だと思います・・・。
最近、「許し」という概念についてこんな文章を書きました。
で・・・何か、森 達也氏の『死刑』(角川文庫版です)を読んでいて、同じような感覚に陥ったというか・・・。
本書の後半で、森 達也氏は藤井 誠二氏の『少年犯罪被害者遺族』の「私は一生憎むことを大事にしたい。(中略)私は加害者に癒されたくない」という文章を紹介して、こう書いています。「でも誰かを「憎み続けたい」という人が人がもしいるのだとしたら、何も憎悪を掻き立てることはないのではないかと僕はアドバイスをしたい。(中略)特にそれが知人なら、ちょっと視点を変えてみないかと言いたくなる。」(289P)
・・・確かに、私も災害や事件系のノンフィクションで、怒りと正義に基づく感情移入がベースになっている作品が、あまり得意ではなかったりします。煽られないようにしなければと用心したりしています。ですが・・・。渡邊 ダイスケ氏の漫画『外道の歌』でも描かれていますが、何らかの犠牲者に対して部外者は一つも何らかの要求をすべきでないと思います。もっとも、それが私刑とか自殺だったらさすがに・・・とは思うのですが、森氏のアドバイスは、例えるなら水俣病の被害者や黒い雨の被害者、福島の被災者等、何らかの訴訟を起こしている人達に対して、「そんなに怒らなくてもいいじゃない?視点を変えなよ」というようなものであり、強く影響を受けて煽られるのが嫌なら、引けばいい話なのでは・・・と思うのです。戦うべき問題に「怒るな」というのは、無自覚な暴力では・・・?と感じました。
確かに、森氏の死刑と司法に対する(溜飲を下げるための)ヒステリックな処罰感情に対する批判的な意見には、かなり頷けるものがありました。『犯罪不安社会:誰もが「不審者」?』でも指摘されているように、いままで散々遺族そっちのけか、彼らへのセカンドレイプすら煽るように、犯罪者で解釈ゲームを楽しんできたのに、いざ遺族が声をあげ始めると手のひら返しで遺族という虎の威を借り、今度は加害者糾弾ゲームに勤しみ、簡単に少年犯罪に対しても「死刑」と合唱するような専門家や世論、社会派を語るフィクションの薄っぺらさには、死刑存置派としてかなり嫌なものを感じていました。
そこで私は死刑存置派と書きましたが、死刑反対派(そして厳罰化反対派における)のノンフィクションやフィクションでは、どうも「許して和解する遺族」というものが強調されすぎていると思います。そして、(これはフィクションに多い気がしますが)凶悪な加害者も死刑を前にして、反省して後悔し、涙する・・・そんな美談が前者と同じような扱いを受けていると思うのです。そこで、加害者に怒ったり憎んだり、戦ったりする事が悪い・・・という感じの空気が醸造されすぎているような気が・・・と思います・・・。
そうそう、死刑についてはこちらでも文章を書いたので、よかったら読んでみてください・・・。
最近、深夜に買い物をしに行く際、JRの高架下をくぐる事があるんですが、その壁に落書き、つまりグラフィティが描かれていて、最近消された時には「残念だな」・・・と感じていました。
で、落書き繋がりでこんなものが・・・。マジですげーモンを見た・・・。消してはいけない・・・。名作だから・・・。高校生の時にバスキア氏にハマってたので、落書きにはかなり思い入れがあるんですよ・・・。足が無いのは、幽霊ってことかな・・・?
すみませんね・・・普段は正しさとか規範とかいうとる癖に、これだから(汗)
それに比べりゃ街中にベタベタ張られてる、注意喚起ポスターの言葉遣いとイラストのセンス(そうじゃない場所で毒々しい原色を多用している。サイズも歪)は本当に絶望的ですよ・・・。
来る2026年・・・つまり来年の1月6日(火)より、「ACT新春小品展2026」に拙作を出展・販売させて頂きます。
主な出展内容は、キャンバス画(小品展なので、最大でF3号です)と拙作の絵葉書を予定しています。私は1月15日(木)から1月18日(日)まで会場に常駐させて頂く予定ですので、どうかよろしくお願いいたします。
詳しい事、つまり開催日時などに関してはこちらをご覧くださいませ。
なお、「新春小品展2026」に出展させて頂く、拙作(キャンバス画)の表現には少しセクシャルなものが含まれているので、18歳未満の方や小さなお子様をお連れの方などが見られる際には、最低限の注意をお願いいたします。
うさくん先生の短編漫画に『ピカピカアイドルさやか』という漫画があります。で、私がこのマンガが良作だと思ったのは、コロコロGという子供(少年)向け雑誌に掲載されている事からか、読者層に配慮する形で異性がきちんと、男性目線の性的な欲望に反撃と制裁を下している所なんです。まぁ・・・ありますよね・・・一部の少年誌では水着のグラビアがありますし、セクハラじみたお色気シーンもありますが、個人的にはどうなんねと・・・。
で・・・結構前の話になりますし、そこでうさくん先生の漫画『マコちゃん絵日記』も併せて書いたんですが、やはり「ミルク・マネー」という映画の不信感は結構言語化できていないなと思ったんで、ここで増量して書きたいなと・・・。
まぁ・・・あれって何でラジー賞の最低脚本賞にノミネートされたのか理解できない人ってかなりいると思うんですよ。それでお気持ち表明しているのはせいぜい私だし、Filmarksの最低評価でも、子供が娼婦を買うという許されない行為への矮小化と美化への指摘は無く、せいぜいクオリティの指摘程度のものでした。
でもね・・・どうして女性(男性もですが)をエロい目で見てはいけないのか、何で人間をセクシャルに消費したり遊んではいけないのか、未成年のキスやセックスが何故許されなくて、簡単に体を明け渡してはいけないのか、そこら辺の責任能力や知識が未熟な子供達が、人間を金で買って性のはけ口にするという行為を大したお咎めなしに美談にしてれば、そりゃラジー賞にノミネートされるはずでしょう。それと、買った娼婦に対して主人公の少年が母性を求めるというストーリー展開も、 これまで母親という事で抑圧や負担を(家父長制の為に)押しつけられてきた女性への最大限の偏見と侮辱を与えていると思います。女性は自分に足りない愛情を与えてくれるペットではないです。自分だって散々女性(母親とか祖母、そして教師など)という存在に甘え、迷惑をかけてきたから敢えて書きますが・・・。
この作品が公開された年月を考えれば仕方ないですが、デートレイプとかセクハラみたいな概念が次々と認識される今日、女性が倫理観の欠落した子供達の欲求に怒らず、反撃せずに優しく受け入れるという内容は明らかに問題(小野寺 こころ先生の読み切り漫画『保険の授業聞いてなかった奴』における男子のように)であり、ここで『ピカピカアイドルさやか』に話を戻しますが、自分にとって性的にいけない事や仕打ちをされたら、相応の痛い目に遭うという表現こそ、ついつい異性をエロい目で見がちな私達と、それに迎合するコンテンツが氾濫しているから必要だと思うのです。性暴力の土壌を考えれば、(もう一回書きますが)子供の一線を超えた女性への劣情が(その対象によって!)無責任に優しく受け入れられる話がラジー賞にノミネートされるのは、当たり前ではないかと・・・。
私も別世界を持っている分、それは痛感してます・・・。あ、それと海外レビューでも私と同じような考えの人、いくつか見たな・・・。