―こうした犠牲者に目を向けないまま、広島と長崎の被爆者を初めとする日本の民間人犠牲者だけに思いをはせることはできない。
林 志弦著『犠牲者意ナショナリズム』より
最近、とある子供向けアニメのスペシャル版を観ました・・・まあ・・・反戦ものでして・・・前半のギャグとシリアスな部分が、その落差に戸惑わないようにスムーズに繋げられており、こうした作品にありがちな残酷描写も行き過ぎない程度に描かれ、「戦争」というテーマへのメッセージがきちんと胸に落ちてきました。
ですが・・・やはり、アメリカの加害、つまり無差別爆撃の告発という形に終わっていたので、やはりそこで物足りなさを覚えてしまったというか・・・。
不思議と、こうした系の話は自国が「やられた」ことを市民目線で描く話ばかりなのに、自国が「やった」ことについてはなぜか消極的だなと感じるのです。加害責任に関しても、指導者と戦争の構造そのものが悪いということにして、有耶無耶にしてるというか・・・。
以前の文章の焼き直しになりますが、マックで二人のおじいさんが話をしていました。なんでも、知人が満州の開拓民だったらしく、満州に鉄道を敷き、あじあ号のような豪華列車を走らせていた日本人は気概があった、でも、敗戦の際にソ連に侵攻を受け(知人はギリギリでシベリア抑留を逃れたそうです)、ソ連は日本人に対して本当に酷いことをした、原爆投下はまぎれもない大量殺戮だったみたいなことを、えんえんと・・・。
私だって自分の行為の責任を問われた際に、棚上げをやる狡さはあります。それを承知で書くのですが、こうした自国での犠牲者目線ありきで、戦争をレガシーとして伝承しようとする行為は、あのおじいさん達の会話、つまり自国の犠牲が、今まで他国に与えていたことだということに全く気がつかない、歪んだ犠牲者意識と地続きだな・・・と感じることがあるのです・・・。
いや、戦災も経験しておらず、まだまだ若い私がこんなこと書いていいのかな?ということは十分承知ながら・・・。