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2024年4月8日月曜日

自己責任論と闇の貴族と落書きアート

ずっと前から、「自己責任論」という概念が賛否を呼んでいると思いますが、どっちもこの社会を語るには飽和状態かな・・・とか思ったりします。そういう所から、私は新堂 冬樹氏の小説『闇の貴族』を思いだすのです。

(売れないという以上)自分もいつそうなるかも知れないという恐怖感も併せ、貧困層や生活保護受給者やホームレスに対する差別意識や、暴力団や裏社会に対する(実態を理解していない)半端な賛美にはきちんとした批判を向けておかなければならないことは当然だという前置きの元で、ずっと前にも感想を書いた『闇の貴族』とか「自己責任論」について語っていきたいと思います。

『闇の貴族』は、苛烈な少年時代を過ごし、今ではアウトローとして頂点に立とうとせん男、加賀 篤の興亡をメインに描いているのですが、本作の序盤で加賀の経営する倒産整理会社を頼るディスカウントショップの社長や、SMクラブでプレイ後の後始末をしている老人に冷徹な目を向け、一般の人なら同情を向けそうなコメントを辛辣な言葉で一蹴しています。

特に(傍から見れば)零落していると思われる人間に追い打ちをかけ、意志薄弱な結果である自業自得として冷徹に分断するような言葉ならSNS上で山ほどありますが、単なる悪意や害意(という憂さ晴らし)の発露でしかないものと比べると、そういう言葉は新堂氏が実際に裏社会の現実を生身をもって体感してきたことと併せて、加賀 篤みたいに壮絶な生い立ちを背負い、カタギのような安全圏で生きていない人間が発するからこそ、不思議と説得力が生まれてくるのだ・・・と感じています。


で、話題は変わりますがとある落書きの話題に関してです。前提として、私はバンクシー氏(の痛烈なセンスを有する風刺)の活動やチンポムの社会に対する向き合い方の誠実さには、到底凌駕できない部分が沢山あると思います。

話を戻しますが、真っ当な責任能力があり、かつ頭が良くないと芸術として成立しませんから・・・ああいうのは・・・。まあ、つけ加えるなら一昔前のNYを走る地下鉄の落書きも、日本の公共交通機関の(サイズも歪な)毒々しい色彩の啓発ポスターより遥かにセンスがあるなぁ・・・と感じていますし・・・。ですが、お騒がせアートみたいなものに対して抵抗みたいな感情も無いといえば嘘になります。

で、やった人は逮捕されたわけですが、犯罪と表現の自由の境目・・・みたいなものに対してのお気持ちは色々有しています・・・。論点すり替えかもしれませんが、市民的不服従とか抗議みたいな大義名分で犯罪が正当化されるなら、元内閣総理大臣を(自作した)銃で撃ってもいいってことになるでしょ・・・?と思うわけで・・・。市民主義・・・ちょっと橋爪 大三郎氏を思いだしてしまったな・・・。