よくあるフィクションで、「人は見かけじゃない!」という言葉があると思います。
それはそれで正しい部分があると思います。例えば、『ワンダー:君は太陽』という映画でも、顔面に重い障害を持つ子供がいじめを受けるシーンがあり、リアルでもそんなことなんて山ほどあるでしょう。現に、程度の差があれルッキズムを振りかざすメディアなんて、昔から目にしていましたし。 だからこそ、「人は見かけじゃない!」という言葉は「理想の見かけ」を加害として、そうじゃない人間に押し付けてくる武器として機能する側面もあると思います。
で、話は変わりますが、タクシーについて話題を変えます。
以前のバイトで、職場の最寄り駅にタクシープールがあったのですが、「人は見かけじゃない!」について考えて・・・しまうことが・・・ありまして・・・。
なんか路肩の出っ張りにしゃがみ、そこで将棋盤を開いて、(当然、ゲーリーじいさんのチェス状態じゃなく)二人で将棋をしている運転手さんがいたんですね。それはともかく、道に痰を吐いている運転手さんや、何が問題だったのかはわかりませんが、二人で怒鳴り合いの喧嘩をしている運転手さんもいました。正直、こんな人のタクシーに乗りたくないな・・・と思いました。だって常識に照らし合わせて・・・そうじゃないですか・・・。私も絵描きというフィールドで犯しているかもしれませんから自戒として書きますが、一部のこういう行動でタクシー運転手という職業がどういう風に見られるか、ということも・・・。
まあ、なんだかんだいっても、生物学的な問題が障害になっていない限りは、社会において「見かけ」が必要とされることって、結構あるんだなと思ったりするわけですよ・・・。逆張りみたいでイヤな書き方になっていることは非常にわかってますが・・・。
例えば、葬儀の際にアロハシャツを着てくるような親族がいたら、相手を今後どうするか?という話であって・・・。