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2024年6月16日日曜日

「窓ぎわのトットちゃん」を観ました

 ようやく、アニメ映画「窓ぎわのトットちゃん」を観ることができました。私はやっぱりそっち系の映画と相性がいいことに気がつきました。いや、そういう意味ではなく、みんなの演技が観る人にとって優しいという意味で、です・・・。

で、原作の本は小学校の時に読んだんですが、メインテーマはあからさまな反戦とか戦争の実態を描く・・・ということではなく、運よくいい教育者である小林校長先生に巡り合えた、トットちゃんというはみだしっ子の喜怒哀楽ある学園生活を、ありのまま(多少の脚色を加えた上で)丁寧に描いた作品だと思うのです。戦争のシーンはあくまで背景に過ぎず、先進的な教育理念と環境のもと、廃車になった電車の校舎でイマジネーションの世界に浸ったり、身体障害児である友人の交流を経て、精神的な自立と成長を遂げていく少女の強さ・・・こそがメインではないかと思いました。だからこそ、ラストのシーンにも黒柳氏の現在を考えると、バッドエンドみたいなネガティブな悲壮感は感じられませんでした。だからこそ、空襲のシーン(火災旋風に追われる、みんなが川に飛び込んで、次々と死んでいく描写などがない)も最低限に留められていたのでしょうし・・・。

そして、「大きい1年生と小さな2年生」でキャラクターデザインを担当された金子 志津枝氏が、本作でもキャラクターデザインを務められていると知ったのも、本作を観ようとした理由なのですが・・・。やっぱり、子供の描き方が(私以上に)上手い作家さんって、すごく憧れてるので・・・。

 

で、ちょっと前の1月くらいに、とあるポストがバズっていたのを中心に、教養とか裕福とかいう二項対立で作品を評していたポストをちらほらと見かけました。自分だってロクな感想が書けていないということは承知ですが、そんな安っぽい作品じゃなかったと思います。

これは戦時中を知っている世代が減っているということより、個人的にはSNSを中心としたネットの弊害かな・・・と思うのです。文化資本や教育格差における格付けゲームみたいなものはSNSでインプレゾンビが群がりやすいですが、作者や作品に込められた思い、背景等ではなく前者における脊髄反射の文脈でしか(受け手が)作品を観られない問題が孕まれている・・・と感じます・・・。

こういう所から、トモエ学園(とその生徒達)に難癖をつけにきた子供達のシーンでも、服装が汚いとか貧富とか、そういう話じゃないだろうと私も思っていました。引用リポストにあった通り、彼らがトットちゃん達を罵ったのは貧乏で無教養だからではなく、やっかみと戦時下の憂さ晴らしでしょうし・・・。それと、これも引用リポストの受け売りになりますが、教養と裕福はリベラル的正義の担保にはならないでしょう。ピーター・ティール氏とかイーロン・マスク氏を見ればわかるように、右派の富裕層なんてゴロゴロ存在するわけで、これもSNS受けしやすい弱者差別の一環だなぁと・・・。