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2023年7月16日日曜日

文化的特権

 前にも表現規制についてちょこちょこ書いたと思います。

で、某小説の表現を巡るトラブルでも、同じことを感じました。あの被害者意識は「タブー破り」を生業とするクリエイターにある程度備わっているものじゃないか・・・?と・・・。

なんか普段は文化的な強者として、弱者を巡るセンシティブな部分で悪乗りをし、表現の自由を免罪符にしてさんざんその尊厳を挑発するようなことをやっておきながら、いざ当事者や行政が売られた喧嘩を買うと、今までの威勢はどこへやら、まるで自分が迫害されているような、被害者意識に基づいたいい方をする風潮って、結構あると思います。或いは、「じゃあ、クラッシュ・バンディクーみたいなゲームは動物虐待だから絶版させろっていう論理ですか?」みたいな藁人形論法で反論してくるというか・・・。

別にやる気があるならやってもいいと思いますが、いざ自分が問われる側になったら被差別者みたいな顔をして、同情を乞うようなアレには違和感を覚えるというか・・・。

それって、「全ての表現は誰かを傷つけるリスクがある」という開き直りのもとに、やってきた方が散々茶々を入れ、悪意を向けてきた人らが一番切実に求めてきたことじゃないの・・・?とも・・・。

それから別の話になりますが、風刺みたいな表現が「弱者に対する強者への抵抗」みたいな話にもちょっとだけ違和感を覚えます。確かに政治的問題で本当にセンスのある作品があるのは事実ですが、そこにも風刺という免罪符が存在しているのだと思います。

(これも藁人形論法になってしまいますが)「権力者ならいくらでも笑ってOK」みたいな理論は、政治家の出自や容姿をバカにする論点のズレた質の悪い表現になりがちだし、ワイドショー的な悪乗りに堕してしまうと思うのです。例えば、野々村議員の変顔だったり、特定の市町村を茶化すような「風刺画」だったり・・・。

なんかそこらでも、弱者性みたいなものが免罪符になっているな・・・と感じるこの頃であります・・・。

まあ、(恣意的な科学的正しさと俗流ニーチェ主義をふりかざす)左派系タタリ神みたいな人が、政治家や富裕層の不正や脱税にはお咎めなしなのに、逆にセーフティネットや人権問題を腐してちやほやされていることもあるので、「権力を表現で糾す」というのも正しい部分があるとは思います・・・。

今日は更新がちょっと遅くなりましたが、大阪に行ってきたのですよ・・・どうしてもお邪魔したいギャラリーがあったもので・・・それでバタンキューじゃ・・・。