今日は修羅場でした・・・これが後2日も続くので、到底正月モードに入れん・・・。
明日に備えて、今から寝ますね・・・。
画家、藤高昇太の公開日記(ブログ)です。主に出展のお知らせや、近況などを書いていきたいと思います。なお、整理のために一部の記事が削除される事がありますので、ご了承ください。 ◎本ブログの文章の一部引用および画像の無断転載を許可いたしますが、以下の注意を守ったうえで、自己責任でお使いください。1.営利目的・非営利目的(何らかの収入を伴わない)に関わらず、出典の明記は大体わかる形でもかまいません。そちらのご都合に任せます。 2.政治的・社会的な信条にかかわらず、いかなる表現も許可いたしますが、最低限のTPOとモラルを守ったうえでご使用お願いいたします。なお、タイトルに◎がついた作品は、版権ネタですので無断転載をご遠慮ください。
まぁ・・・私は個展とか企画展とかに参加してから、キャンバス作品(あんな高いものは売れないのが普通です)はともかく、小冊子や絵葉書が売れれば「お買い上げいただきありがとうございます!」と素直に感謝の念を抱きます。
ですが最近、そういう話について考えてしまう事があって・・・。
何か、一部の喫茶店とかギャラリー、オタク界隈は初心者や趣味者に排他的な態度を取る事で、価値表明をするケースがありがちですが、自分も何か個人的に「折角買ったのに、そういう態度で返されるの・・・?」みたいな経験をしました。向こうに悪意はなかったのかもしれませんが、そこに対して深堀すれば、要らんお気持ち表明になってしまうのでここらで止めときます・・・。
まぁ、これはグラデーションなんだと思います。売る方にも買う方にも選ぶ権利はあります。ギャラリーに限っていえば、ギャラリーストーカーみたいな迷惑客や所属作家をスカウトするためにやって来る勧誘系ギャラリーのスタッフは(業界を汚さない為にも)シャットダウンする権利はあるし、正直私もお客様対応で少なからず「イラッ」とした事がありました。ですが、そこはお互い様、売る方にも問題は存在します。勝手に自分のやっている事を敷居が高いと思い込んだり、そこに対して知識がなかったり(要するに気まぐれに立ち寄ったりする趣味人)する人に排他的な言動や無神経な態度を取ったりする実態はあるわけで、どっちにも刃は向けていかなければ・・・というスタンスです。自戒の為にも・・・。
で、やっぱり買う方からも色々問題は生じてるのはわかるんですが、特に美術業界のしきたりを必要以上にちらつかせて、ガンプラ説教おじさんみたいな態度を拗らせてるギャラリストも、なんかねーと感じたりするわけです・・・。あれははっきりいえば、問題提起とかじゃなくて説教や人を腐してテリトリーを守ること自体が好きな人じゃないかと疑ったり・・・。
「カーズ」というアニメ映画では、ラストでマックィーンがチックに跳ね飛ばされ、クラッシュしたキングを助けるシーンがあります。それはラジエーター・スプリングスでの経験から、今までレーシング業界で傲慢な振る舞いをしてきた自分へのカタのつけ方で、彼は結果として負けてしまいましたが、他人(他車)を傷つける事で勝利を収めたチックが総スカンを食らったのに対してみんなから称賛を浴びます。
ライバルを助けるという意味では、(また書きますが)うさくん先生の読み切り漫画『ピカピカアイドルさやか』にも一定の共通点はあると思います。主人公のさやかはアイドル同士が競争するイベントで、司会の操るロボットにセクハラ妨害されるライバルを助けるんですが、その理由が、「憧れだった存在と邪魔者なしで勝負したかったから」でした。
ここで、「カーズ」とは決定的な違いが生まれます。 勝負が再開された所でさやかは見事勝利、つまり1位の座を掴むのです。この辺りについては、非常に考えさせられます。
自分自身のモラルの為に、勝利のチャンスを敢えて捨て去り、重傷を負ったライバルのもとへ駆けつけたマックィーン。まっとうな勝負ができない環境を排除する為に、敢えてライバルを助けて勝利を獲得したさやか。 そこに、私は勝負のあり方というものを考えてしまいます。
結果は違えども、「カーズ」を監督したジョン・ラセター氏とジョー・ランフト氏、『ピカピカアイドルさやか』の作者であるうさくん先生は、勝負にはモラルが必要だと訴えている所ではストーリーの骨子は同じだと思い、勝負事だらけの世の中(ここでもそういう事について書きましたが)だからこそ、色々自分で持っておくべき指標は必要だな・・・と感じたのでした・・・。『ピカピカアイドルさやか』では、ゲームの主催者が勝負という聖域を汚す現実が書かれていたわけですし・・・。
この文章でちょっとマイケル・サンデル氏の『実力も運のうち』について(町山 智浩氏の偏差値35発言に絡めて)触れたのですが、本書を自分も試しに読んでみた身として、みんながサンデル氏の能力主義批判に付和雷同している中で、結構私は醒めた目であのブームみたいなものを見ていました。
ですが、サンデル氏の主張は正しいんですよ。学歴は金の問題も関与しているとか、自分の努力に自惚れることなく、そこに「運」を見出して謙虚な気持ちを持てとか、そういう所から、エッセンシャルワーカーがバカにされてるけど、職業に貴賤は無いでしょ?という話なんですが・・・。すみません、ちょっと読解能力に自信がないので、そういう内容だったと記憶しています。だから間違ってたらすみません・・・。
で、何か問題だなと思うのは、※サンデル氏の(『実力も運のうち』における)主張自体ではなく、本書に賛同している知識人やネット世論なんですよね・・・。何か日本の学歴言説のダブルスタンダードぶりを露呈しとるというか・・・。 個人的に見れば、都合のいい時には「能力主義が分断を生み出してる」とか、「学歴や職業で人を差別することは間違っている」とかいう美辞麗句をハーバード大学教授という虎の威を借りて振りかざしていますが、都合の悪い時には「定員割れ大学は潰せ」とか「公立中学は動物園」みたいな(Xとかはてな匿名ダイアリーみたいな場所をメインとした)ヘイトで、特定の教育機関や関係者に対する死体撃ちをしてきた、つまりアクセルとブレーキを同時に踏み続けてきた、つまり有利になる状況と相手によって掌返しを巧みにしてきたのが(主に)ネットに蔓延る日本の学歴言説だったのだと思います。実際に、「偏差値の低い大学」を侮辱して嘲笑するような文脈はポップカルチャー上に溢れ返っていますが、こういうタイミングでサンデル氏に諂っている人間が、これまで毅然とそれを批判してきたのか?とも・・・。
そして、日本よりも学歴主義が熾烈なアメリカだからこそ、サンデル氏が呈した問題提起が受験制度そのものを憎み、目標に向かって努力して成功を目指す事自体を、酸っぱいブドウか何かのように解釈して、人気が集まっているのも何だか残念な気がします。日本には弱者に寄り添うフリをしながら、努力や成長しない事自体を仮想敵への憎悪を煽る事でアンダークラスをダシにし(「不都合な真実」みたいな本が、ちょくちょくベストセラーになったりしていません?)、格差の中で特権階級に君臨するインフルエンサーみたいな人達がいますが、そういう人達のお粗末な形で自称弱者の劣情に訴える言説とチャンポンにされてる・・・みたいな現状があるかと・・・。
それに、何でオバマ氏の能力主義肯定論にはあれほど痛烈に批判するのに、政治家としての対応能力は彼より劣っていた(数々のヘイト発言や支離滅裂な政策)ドナルド・トランプ氏への批判がないのは不公平ではないか・・・そんな気持ちも正直ありました。上にも書いた通り、問題提起は正しい部分もあるんですが・・・。大学入試くじ引き制度に関しても、そこに選抜というシステムが存在する限り、選民思想は燻り続けるんじゃないかと思ったり・・・。「俺はくじに当たったから、当たらなかったお前は貧しくて当然だ」みたいな・・・。
まぁ・・・自分も学歴社会のはみ出しっ子みたいなもんですが、その分違和感はあったんです・・・。『実力も運のうち』がしたり顔で持ち上げられるのを見て、何を今更・・・とね・・・。
今日はちょっと用事があって、安佐北区の方まで行きました。やっぱりバスは高いです・・・。JRを使えって話ですよね・・・。
明日くらいに暇があれば、サンデル氏の『実力も運のうち』に対する、(主に日本の)反応について話がしたいな・・・とか思います。本当にあれでいいのかという考えが、正直あったので・・・。
この度、皆様のおかげで紙屋町ベース様にて開催させて頂いていた、個展「Inter space」が無事に終了いたしました。
この場をお借りして、 個展を開催させて頂くにあたり、非常にお世話になった紙屋町シャレオのスタッフの方々、御多忙中にもかかわらず会場にお越しいただき、拙作をご覧になられた上にお買い上げ下さったお客様等に、厚くお礼を申し上げます。
個人的には、絵葉書ではなく自作小説の売れ行きがかなりあったかな?・・・と思います。文字ばっかりなのに・・・。でも増刷した甲斐はありました。
そして最後に、本展で経験したことを糧に、更なるベストを尽くしていきたいと思います。
原爆投下と、その孤児を扱った絵本『そのときぼくは9さいだった』(作:あごうしゅうじ氏・絵:小泉 るみ子氏)を読みました。一応、その原作である『原爆と朝鮮戦争を生き延びた孤児』も読んだのですが・・・。
多くの作品と同じように、原爆の被害者、特に子供だからこそその経験は一層苛烈なもので、家族を失い、なす術もなかった少年に手を差しのべた朝鮮人の金(キム)さんの善意には、頭が下がるものがあります。かつての日本は朝鮮半島に差別と抑圧の限りを尽くしてきたので、普通なら加害国の人間という事で見捨ててもよかったはずですが、そうした怒りや復讐の感情を飲み込み、孤児となった少年と一緒に故郷へと渡った金さんの心情を想像すると、かなりの覚悟や決意を感じる事ができました。ですが、『原爆と朝鮮戦争を生き延びた孤児』では金さんは「金山三郎」となっていましたが、なぜ名前を変えたのかという疑問が残ります。
そして、このお話は現在数多く出版されている「反戦・反核」系の絵本や児童書と同じような「見落とし」も存在すると思うのです。なぜ、金さんは戦争が終わった時に喜んだ(原爆で家族を失った少年にとっては、セカンドレイプに等しい仕打ちだった)のか、日本はアジア周辺諸国にどのような仕打ちをしてきたのか、そこら辺を問われるととたんに目を逸らし始める弱さが存在すると思うのです。それに、1970年に建立された広島の韓国人原爆犠牲者の慰霊碑も(林 志弦氏の『犠牲者意識ナショナリズム』も指摘している通り)平成、つまり1999年になってからやっと平和記念公園に移転するという感じだったので、そうやって「ハネ」にしときながら、被害者に優しくしてくれというのは、図々しくないか?とも・・・。
岡田 索雲先生の(関東大震災における朝鮮人虐殺を扱った)短編漫画『追燈』では日本人の加害性がはっきりと描かれていましたし、東 曜太郎氏の児童書『灰とダイヤモンド』でも主人公のルーツをはっきり「戦争加害者」として存在させ、それとどう向き合うかがはっきり書かれていましたが、上に書いた子供向けのメディアでは、今まで虐殺や侵略の限りを尽くしてきた戦争被害者、つまり相手に許される(ここでも「許し」について書きました)という美談をもって、暗に救済と和解を強要しているような作品がまだまだマジョリティだと思うのです。
『パオズになったおひなさま』や『幽霊少年シャン』のように、「こっちは現地の人と仲良くしていたのに、軍部が戦争でそれを壊した」みたいな話を見る度に、私はこうした清らかな話の裏にある、痛烈な視線を感じざるを得ませんし、いつまで相手の優しさにもたれているわけにもいかないなと感じています・・・。
最近・・・やっと挿絵を描き始めました。モノクロのやつです・・・。
スクリーントーンじゃなく、カケアミの方がラクなんで・・・それで濃淡を出しているというか・・・。情けない話ですよ・・・。
でも、作品世界のガジェット(特に車とか建物とか)を考えるのは、楽しかったりします・・・。
昨日、個展「Inter space」を開催していたわけですが、意外な人と会いました。もう接点は殆どないだろうなとぼんやり考えていた時の矢先だったので・・・。まぁ、覚えてくれているという事はかなり有難い事ですし、一層縁というものを大事にしなければ・・・そういう感じでした・・・。
もう明日で「Inter space」は最終日ですが、その分頑張っていきたいです・・・!
現在、紙屋町ベース様にて、個展「Inter space」を開催中です。
下に、その様子をアップしますので、どうかご覧ください。
このように、キャンバス画をメインに出展していますが、お決まりのようにメカと少女です・・・。 特にメカは線画を使っているので苦労は主線を使わない少女画より苦労が多いですが、やりがいはありますね・・・。といっても、労力を時間換算するという(まだまだの人間にとっては)結構勘違いしやすい領域なのですが(汗)
はい・・・私の靴(スニーカー)が写ってしまっていますが、それはそうと、拙作の絵葉書と自作小説も販売中です。「放課後ウォータイム」はかなり力を入れて書いたジュブナイルSFなので、どうかよろしくお願いします。1人の少女が遠隔操作型ロボットを使用した宇宙戦争に巻き込まれる悪夢を何度も見ており、それが彼女の経験したとある事件に関わってくる・・・そんな内容です。一応、実際の事件をベースとしているので、それなりに参考資料は読み込みました・・・。
それでは、最終日の21日(日)まで、どうかよろしくお願いします・・・。
木瀬 貫吉氏の『本づくりで世の中を転がす:反ヘイト出版社の闘い方』という新書を読みました。私はこらからの『NOヘイト!:出版の製造者責任を考える』を読んでおり、やっぱりあの状況でいうべき人が出始めたな・・・という感じでした。だからこそ、新書という媒体でもかなり酷いものが発行されており、ヘイトでなくとも倫理的観点から見ると「アレ」なものが新書大賞を受賞したりしていると思うので、まだまだ「悪貨が良貨を駆逐する」的状況への物申しは、私も表現者の一人として続けていかなければ・・・と感じています。
なお、ヘイト本に関しては著者の一人であるケント・ギルバート氏が槍玉に上げられていましたが、あんな人物が客員教授だという事は関係した者のOBとしてかなり失望と怒りを抱いています。韓国人留学生に対して(そう見えるように)行った仕打ちも含め、かなり自責の念を抱いております・・・。
レジー氏の『ファスト教養:10分で答えが欲しい人たち』では、アートも槍玉に上げられていましたが、最近Xにおいて(ざっくばらんに纏めると)アートは稼げないといわれているが、妻の友人が美術を専攻して就職に苦労、不動産業界でその知識を生かして大成功を収めた・・・というポストが、かなりバズっていました。
まぁ・・・私も絵を描いてる身ですが、そういう文脈での教養礼賛や勉強礼賛って、Xで受けやすいと思います。 たしかにそれら自体は非常に大事だと思います。私だって怠ってきた分損してる部分はあるんですから・・・。
ですが・・・『ファスト教養』の指摘にあるように、教養って稼ぐために存在するのでしょうか?確かに一理はあると思いますが、社会的地位の向上や所得の増加の目的が教養(アート)の効用とされるのも、随分と下品な気がします。(上にも書いたように)私も絵を描いているので尚更です。確かに承認欲求や欲望はありますが、文化の存在意義というのは目先の利益みたいなものの以前に存在する大事な所から生まれるものであって、それを大事にしないといけないんじゃないのか・・・?と考えていたり・・・。まぁ、完売画家みたいな存在ではない人間のルサンチマンだといわれればそれまでなんですけど・・・。
これは医者をしている親戚の話ですけど、大学の医学部で講演をした時、学生から「医者って儲かるんですか?」と聞かれて唖然としたという話を聞かされた事があります。引用リポストも見て、「教養=金と成功」みたいな身も蓋もない称揚を見てると、私は親戚の話を思い出さずにはいられません。
ああ、それとSF作家の山本 弘氏も『料理を作るように小説を書こう』でも書かれてましたよね・・・。「作家は、金儲けが目的でなるような職業ではありません。そんな人は早晩、挫折するでしょう。」(42P)と・・・。だから自分もああいうアート万能論に違和感を覚えてたりするんですよ・・・。絵心が無い人や学ぶことが苦手な人を漂白してる気持ち悪さが漂っているというか・・・。
白矢 三恵氏の児童書『ぼくらの教室RPG』を読みました。何か、(タイトルが示唆する通り)ひょんなことからゲームに登場するキャラのあだ名をつけられ、ノリのいいクラスメイトのスバルにネタにされ始める少年、秋人を中心にして、「イジり」という行為を考えさせるようなストーリーなのですが、私が真っ先に思い出したのは、安田 夏菜氏の『なんでやねーん!』という作品、つまり同じ児童書でした。
『なんでやねーん!』でもお笑い芸人を両親に持つ少年が、生真面目なクラスメイトの些細な行動や態度をあげつらって、お笑い芸人の相方になって欲しいとしつこくつきまとうシーンがありました。結果、こちらの方はハッピーエンドになっていましたが『ぼくらの教室RPG』はそうした世に蔓延る「お笑いセオリー」が状況によっては加害になり得ることを、きちんと書いていました。こちらのリンクはかなり前の文章でも貼りましたが、こうして人を躊躇なくお笑いのネタにするという事は、(表層的な)コミュ力の高さはあれどもハラスメントの温床となりうるわけです。
で、本題に入りましょう。『ぼくらの教室RPG』では、物語が進行するにつれてどんどんイジりがエスカレートしていきます。そして、この話がいいと思ったのは、ただ加害者であるスバルを成敗するという単純な話にしていない所です。今まで散々スバルと一緒にイジりを持ち上げてきたクラスメイト達が、秋人に理があるとわかった瞬間、スバルを叩き始めるという群集心理のどうしようもなさも描いています。そこで、物語のテーマの一つである「空気を読む」という事に一撃が下されるわけですが、 根無し草のような人間が生み出す加害の構造から抜け出し、真の精神的自立を歩み始める事こそ、薄っぺらな「コミュ力」に流されていくより大事なのだという事が感じられました。
近年、そうしたコミュ力礼賛の風潮のもと、大人しくて浮いている(もしくは、ノリが悪い)人を「ぼっち」とか「コミュ障(症)」みたいなスラングで死体蹴りをするような漫画とかライトノベルが流通していますが、そうしたハラスメント仕草については、もっと批判が加えられてもいいのではないかと思います。 リンク先の記事でも、精神科医の斎藤 環氏が「スクールカースト上位者はコミュ力は高いが共感力は低い」と書いていましたが、まさにそうだと思います。
じゃなければ、人を笑いものにしてイジれるわけがないです。 『ぼくらの教室RPG』ではそうした構造がラストできちんと解体されていましたが、現実では何らかの強者が弱者を一方的にいたぶるというユーモアが、子供向けの作品でも氾濫しているというのが現実なので、『ぼくらの教室RPG』のように、「イジり」の被害にあっている子や、それをよしとしない子達へ地道に武器を配っていくしかないのかもしれません・・・。
今はBlueskyを使ってるんですけど、こういうポストをXで見ました。BlueskyもBlueskyで何だかな~と感じているので・・・。
正直、オープンな所に身を置いてると、疲弊するんですよね。正直・・・。
Facebookみたいなクローズドな所がやりやすいというか・・・。まぁ、それじゃあ宣伝にならんのんでっていう話で・・・。
今後の動向次第では、Xのアカウントも・・・とは思いますが、あの地獄を見た分では、とも・・・。
まぁ、地道にネット活動はやっていきます・・・。
こちらで、川名 壮志氏が原作を務められ、棚園 正一先生が作画を務められた『ひみつ―佐世保事件で妹を喪ったぼくの話』をバンチKAIにて読みました。まぁ、連載前からアレコレ書いて読まんのは(少しガラの悪いいい方になりますが)仁義に反すると思ったので・・・。
で・・・ プロローグと1話を読みましたが、正直「表現がアレじゃん・・・」と思いました。
内容を無自覚になぞっているというか・・・。あの事件における焦燥感や迫力はホントに感じられるのですが・・・。
やっぱり、悪い予感は当たったんですよ・・・。リンク先の文章でもう自分が部外者だという「言い訳」は散々書いたのでもうここではナシにしますが、あの『謝るなら、いつでもおいで』や『僕とぼく』を読んでいる身としては「死体とか犯人を露骨に出すなよ・・・!」と思いました。やっぱり、※東日本大震災を題材にした作品で町を破壊していく津波や大破した原発建屋を描いたり、新型コロナウイルスを題材にした作品で医療現場やパンデミック下の現実をリアリティに基づいて書くような表現とは、性質が違いすぎると感じました。私もあの2冊のノンフィクションに書かれていた、当事者が孕む繊細なセンシティブさに晒されていたからでしょうか、「ぼくたちのムッシュ・ラザール」や「ライフ・イズ・ビューティフル」等のように抜くべきところは敢えて抜く・・・という方が良かったように思えます。
それでも、連載がどうなるかはわかりませんが、あの事件を少しリサーチすれば、加害者の少女がネットで歪んだ礼賛をされていた事はわかるはずで、被害者及び被害者遺族へのセカンドレイプすら助長するような表現に勤しむ人間も存在しました。実際に、最近訪れたとある展覧会では、そういう表現をしているキュレーターも存在しました。ドールを作っていてね・・・。
だからこそ、キャラクター自体を出さない・・・そんな感じで行ってほしかったというか・・・。文章と台詞だけで表現する・・・みたいな・・・。
自分自身、プロの漫画家ではないのでこういう文章を書くのは憚れる事は百も承知だし、遺族でもないのに口出しする事も単なる自己満足で、もしかしたら問題を混乱させているだろう事は百も承知です。ですが、『ひみつ』が(現時点の段階で)川名氏が事件において、当事者と共に歩んできた(良識と苦悩に基づく)道のりへの尊重や配慮ではなく、どっちかといえば『「子供を殺してください」という親たち』とか『ケーキの切れない非行少年たち』みたいな エクスプロイテーション的なものになってるなと・・・現時点では・・・。すみません・・・やっぱり加害者が描かれたという所に・・・しかもお互いが子供だというセンシティブさにメチャクチャ反応してしまったので・・・。ですが、最初に書いた通り、導入部のパニックの描写や大人達の混乱はすごく臨場感があり、単なる残酷さを安売りする「実録事件もの」とは違う迫力はあるなと・・・思いました・・・。
※まぁ、自分もああいう露骨な表現が好きじゃなかったりするのですが・・・。
Xを見ていた所、イラストレーターの楢 喜八氏が亡くなられたというニュース(ポスト)が、目に飛び込んできました。 また、惜しい人が・・・という気持ちです・・・。
楢氏のイラストを最初に見たのは、お決まりの如く講談社のKK文庫から発行されていた、『学校の怪談』シリーズでした。それだけではなく、他の書籍でも楢氏の作品はいくつか見た事があり、子供向けの怖さと大人向けの怖さとで、(私のような若くて、キャリアもガタガタな人間がこれを書く事はどうかというのは百も承知ですが)きちんと使い分けができる人でした。その分、楢氏のイラストには本気を出せば容赦が無いものがありました。だからこそ、学校の怪談シリーズでは、ちゃんとエログロを使わない配慮と優しさがあったと思うのです。
これは私見ながら、世に出回っている子供向けの怖い話では大人の感性を子供に対して捌け口にする事が、美談と捉えられる風潮があります。要するに、子供でも本気を出さないと負けという感じでしょうか? 子供向けの創作であってもガイドラインが曖昧な分、そうなのかもしれませんが、そこら辺のリスクも考えずにやった結果、児童向けホラー(主に児童書や漫画など)でも独善的なエクスプロイテーション的なものが散見されるのが現実です。
こういう所から、一部のマニアとかオタクが運よく自分がそうした事への耐性があったからといって、子供に「トラウマ」を与えよと大はしゃぎして「配慮する優しさ」を冷笑する傾向がありますが、一流の恐怖や闇を提供できるクリエイターというのは、きちんと相手の発達段階を考えて自分のパワーを調節できる「優しさ」がある人ではないかと思います。
まあ・・・長々と楢氏の『学校の怪談』シリーズばかりをメインにして語ってしまいましたが、 歪な構造と細かい線画で構成される楢氏のイラストは他の書籍でも目にしており、私の中では水沢 悦子先生の『ヤコとポコ』で論じられていた「個性」という概念を滅茶苦茶ナチュラルに体現できている人だったと感じています。それ位多くの修業をされてこられたのだなと・・・。
そんな素敵なクリエイターさんは、私が見ている世界で数多くいますが、まだまだ私はその領域にたどり着けていないので、結構・・・悔しいなという気持ちが燻っています・・・。努力不足だから、頑張らねば・・・!
今日は何となく、2回目の更新をしました。新井 けいこ氏の児童書『エレベーターが止まったら』という作品を読んだので・・・。
新井 けいこ氏は、こちらでも共助の美徳について語られていますが、『エレベーターが止まったら』もその一つだと思います。私はタワマンに住んだことがないので、その実情(家賃とか住民同士のアレコレ等)については全くわかりません。だから口出しをするのはどうかと考えますが、一応は感想は書いておこうかと・・・。
まぁ、33階建てのタワマンに住む2人の少年が、エレベーターが故障で止まってから、屋上で開催されるクリスマスパーティーをメインにして、人助けに奔走するというお話なんですが、個人的には「ちょっと・・・」と感じています。想像してください。33階建ての高層建築物を、階段で上り下りする事は大人でも重労働だし、小学生なら猶更でしょう。
私だってそれなりに稼いで生きていければ、お互いに干渉せずに生きられる生活を夢想した事が何度かあります。ですが、現実は人とのかかわりや尊重を自覚しなければ生きていけません。社会に馴致されずとも生きていける(もしくは、そういう権利があると)と宣うのは、普段から自分が腐している「普通の人」 の連帯に守られていると気づきもしない、身勝手なインテリ気取りでしょう。
だからこそ敢えて書きますが、 本来なら(結構嫌な書き方ですが)大人同士が負担と責任を分け合わなければいけない事を、小学生の子供の耐久力を無視して与える事を、果たして一方的な美談として片付ける事が正しいのでしょうか?そんな重労働を、小さな子供の身体に期待として背負わせる事は、寧ろ独善ではないのかという疑問が頭をよぎりました。
新井氏の善意のギヴ&テイクに対する理念は真っ当だし、社会問題に対して独り善がりであざとい説教やアイデンティティ闘争ばかりが先行しがちな今日の児童文学界に対し、まっとうで地道なメッセージは必要とされるものでしょう。だからこそ、人助けや手伝いといっても、大人が耐えられる負荷を子供にそのまま与えるのではなく、年齢や発達段階に沿ったキャパに調整すべきだったのではないか・・・そう感じています。じゃないと、児〇書読〇日記というブログが『ステイホーム』の感想で書いてたような、※「共助という甘い幻想を叩き潰す」という所から社会の基幹に難癖をつけ、その破壊すら望んでいるような無責任な自説にお墨付きがつく事になるのでは・・・とも思います・・・。
※そういう状況で生きていけるのはこの文章で書いた通り、一部の富と権力に恵まれた勝ち組だけで、散々自分が諂ってきた弱者にとっては修羅の国になる事への想像って、あるんでしょうか?多分ないでしょう・・・。
最近、行こうかと思っていた展覧会ですが、ちょっとXで調べてみた所、結構微妙な気持ちになりました。
うーん・・・自分も企業案件とかプロの作家さんに依頼とかやったことがあるんで、その重みを十分思い知った上なんですが、 やっぱり裏切りになる事はやっちゃいかんだろ・・・そう思います。ましてや有償依頼でお金を払っているのにこっちの都合でできません、ていうのは謝罪と自虐の連呼で済むもんじゃないじゃん・・・と感じています・・・。そこまで不安定ならやらん方がよかったのでは・・・とも・・・。こちらこそすみませんね、あの金銭的(社会的)責任が生じてやり取りする時の緊張感を思い出しちゃうんで・・・。
で、話は変わりますが図鑑を昨日買いました。結構高かったですが資料用にと・・・。 一応、子供向けですが、そっちの方が結構カラフルで丁寧に解説されているので・・・。
最近、寒さのせいか喉の調子が悪い(&体がだるい)ので、トローチを買って舐めました。熱は無いんですがね・・・。
でもやっぱり冬は好きですよ・・・汗をかかないんで・・・。
そういえば、キャンバスの下絵に取り掛かりました。ホワイト修正じゃ・・・相変わらず・・・(泣)
今描こうとしている作品の・・・方向性を変えようかね・・・と思っています。
もう色々書きたいことは山積みですが、リアルでのアレコレを優先したいと思います・・・。 でも別の話も書いといたほうがいいかな・・・。
まぁ・・・「巨悪」とはいいますが、また林 志弦氏の『犠牲者意識ナショナリズム』の話をしたいと思います。その中で「日本やドイツみたいな敗戦国ほど、犠牲者意識ナショナリズムが強かった」みたいな話があり、反戦論者の一部では「日本は反省しなかったが、ドイツはちゃんと贖罪した」というのも(一部が)神話だという事がわかります。イスラエルへの賠償?こっちはヒトラーやその側近に騙されてスッテンテンな上に、連合当局の手で分割統治までされとる踏んだり蹴ったりな状況で、そんなん知らんがな!的な態度だったと書かれていました。
で、「巨悪」の話になりますが、よく反権力系の知識人によってこの言葉が使われていますが、そうした弱さが隠れているような感じがします。
今日は来年の事で、一段落済みました。
今度は個展の準備です・・・こちらの方は、遠距離じゃないので融通が利きやすいですね。バスに乗って一発で行けますから。
まぁ・・・今日はデッサンの練習をしてました。アレ関係がホント高かったので、同じ内容が収録された、安い雑誌を買いました。で、高市氏の事が記事で取り上げられていましたが・・・今、「口は禍の元」を地で行ってる展開だと思います・・・。
最近、「許し」という概念についてこんな文章を書きました。
で・・・何か、森 達也氏の『死刑』(角川文庫版です)を読んでいて、同じような感覚に陥ったというか・・・。
本書の後半で、森 達也氏は藤井 誠二氏の『少年犯罪被害者遺族』の「私は一生憎むことを大事にしたい。(中略)私は加害者に癒されたくない」という文章を紹介して、こう書いています。「でも誰かを「憎み続けたい」という人が人がもしいるのだとしたら、何も憎悪を掻き立てることはないのではないかと僕はアドバイスをしたい。(中略)特にそれが知人なら、ちょっと視点を変えてみないかと言いたくなる。」(289P)
・・・確かに、私も災害や事件系のノンフィクションで、怒りと正義に基づく感情移入がベースになっている作品が、あまり得意ではなかったりします。煽られないようにしなければと用心したりしています。ですが・・・。渡邊 ダイスケ氏の漫画『外道の歌』でも描かれていますが、何らかの犠牲者に対して部外者は一つも何らかの要求をすべきでないと思います。もっとも、それが私刑とか自殺だったらさすがに・・・とは思うのですが、森氏のアドバイスは、例えるなら水俣病の被害者や黒い雨の被害者、福島の被災者等、何らかの訴訟を起こしている人達に対して、「そんなに怒らなくてもいいじゃない?視点を変えなよ」というようなものであり、強く影響を受けて煽られるのが嫌なら、引けばいい話なのでは・・・と思うのです。戦うべき問題に「怒るな」というのは、無自覚な暴力では・・・?と感じました。
確かに、森氏の死刑と司法に対する(溜飲を下げるための)ヒステリックな処罰感情に対する批判的な意見には、かなり頷けるものがありました。『犯罪不安社会:誰もが「不審者」?』でも指摘されているように、いままで散々遺族そっちのけか、彼らへのセカンドレイプすら煽るように、犯罪者で解釈ゲームを楽しんできたのに、いざ遺族が声をあげ始めると手のひら返しで遺族という虎の威を借り、今度は加害者糾弾ゲームに勤しみ、簡単に少年犯罪に対しても「死刑」と合唱するような専門家や世論、社会派を語るフィクションの薄っぺらさには、死刑存置派としてかなり嫌なものを感じていました。
そこで私は死刑存置派と書きましたが、死刑反対派(そして厳罰化反対派における)のノンフィクションやフィクションでは、どうも「許して和解する遺族」というものが強調されすぎていると思います。そして、(これはフィクションに多い気がしますが)凶悪な加害者も死刑を前にして、反省して後悔し、涙する・・・そんな美談が前者と同じような扱いを受けていると思うのです。そこで、加害者に怒ったり憎んだり、戦ったりする事が悪い・・・という感じの空気が醸造されすぎているような気が・・・と思います・・・。
そうそう、死刑についてはこちらでも文章を書いたので、よかったら読んでみてください・・・。
最近、深夜に買い物をしに行く際、JRの高架下をくぐる事があるんですが、その壁に落書き、つまりグラフィティが描かれていて、最近消された時には「残念だな」・・・と感じていました。
で、落書き繋がりでこんなものが・・・。マジですげーモンを見た・・・。消してはいけない・・・。名作だから・・・。高校生の時にバスキア氏にハマってたので、落書きにはかなり思い入れがあるんですよ・・・。足が無いのは、幽霊ってことかな・・・?
すみませんね・・・普段は正しさとか規範とかいうとる癖に、これだから(汗)
それに比べりゃ街中にベタベタ張られてる、注意喚起ポスターの言葉遣いとイラストのセンス(そうじゃない場所で毒々しい原色を多用している。サイズも歪)は本当に絶望的ですよ・・・。
来る2026年・・・つまり来年の1月6日(火)より、「ACT新春小品展2026」に拙作を出展・販売させて頂きます。
主な出展内容は、キャンバス画(小品展なので、最大でF3号です)と拙作の絵葉書を予定しています。私は1月15日(木)から1月18日(日)まで会場に常駐させて頂く予定ですので、どうかよろしくお願いいたします。
詳しい事、つまり開催日時などに関してはこちらをご覧くださいませ。
なお、「新春小品展2026」に出展させて頂く、拙作(キャンバス画)の表現には少しセクシャルなものが含まれているので、18歳未満の方や小さなお子様をお連れの方などが見られる際には、最低限の注意をお願いいたします。
うさくん先生の短編漫画に『ピカピカアイドルさやか』という漫画があります。で、私がこのマンガが良作だと思ったのは、コロコロGという子供(少年)向け雑誌に掲載されている事からか、読者層に配慮する形で異性がきちんと、男性目線の性的な欲望に反撃と制裁を下している所なんです。まぁ・・・ありますよね・・・一部の少年誌では水着のグラビアがありますし、セクハラじみたお色気シーンもありますが、個人的にはどうなんねと・・・。
で・・・結構前の話になりますし、そこでうさくん先生の漫画『マコちゃん絵日記』も併せて書いたんですが、やはり「ミルク・マネー」という映画の不信感は結構言語化できていないなと思ったんで、ここで増量して書きたいなと・・・。
まぁ・・・あれって何でラジー賞の最低脚本賞にノミネートされたのか理解できない人ってかなりいると思うんですよ。それでお気持ち表明しているのはせいぜい私だし、Filmarksの最低評価でも、子供が娼婦を買うという許されない行為への矮小化と美化への指摘は無く、せいぜいクオリティの指摘程度のものでした。
でもね・・・どうして女性(男性もですが)をエロい目で見てはいけないのか、何で人間をセクシャルに消費したり遊んではいけないのか、未成年のキスやセックスが何故許されなくて、簡単に体を明け渡してはいけないのか、そこら辺の責任能力や知識が未熟な子供達が、人間を金で買って性のはけ口にするという行為を大したお咎めなしに美談にしてれば、そりゃラジー賞にノミネートされるはずでしょう。それと、買った娼婦に対して主人公の少年が母性を求めるというストーリー展開も、 これまで母親という事で抑圧や負担を(家父長制の為に)押しつけられてきた女性への最大限の偏見と侮辱を与えていると思います。女性は自分に足りない愛情を与えてくれるペットではないです。自分だって散々女性(母親とか祖母、そして教師など)という存在に甘え、迷惑をかけてきたから敢えて書きますが・・・。
この作品が公開された年月を考えれば仕方ないですが、デートレイプとかセクハラみたいな概念が次々と認識される今日、女性が倫理観の欠落した子供達の欲求に怒らず、反撃せずに優しく受け入れるという内容は明らかに問題(小野寺 こころ先生の読み切り漫画『保険の授業聞いてなかった奴』における男子のように)であり、ここで『ピカピカアイドルさやか』に話を戻しますが、自分にとって性的にいけない事や仕打ちをされたら、相応の痛い目に遭うという表現こそ、ついつい異性をエロい目で見がちな私達と、それに迎合するコンテンツが氾濫しているから必要だと思うのです。性暴力の土壌を考えれば、(もう一回書きますが)子供の一線を超えた女性への劣情が(その対象によって!)無責任に優しく受け入れられる話がラジー賞にノミネートされるのは、当たり前ではないかと・・・。
私も別世界を持っている分、それは痛感してます・・・。あ、それと海外レビューでも私と同じような考えの人、いくつか見たな・・・。
まぁ・・・私の中ではバイブルとなっている川名 壮志氏の『謝るなら、いつでもおいで』(集英社のハードカバー版を持っています)なのですが、ちょっと気になる事がありまして・・・。
うーん、何ていうのか・・・かなりデリケートな話だし、他人の事情を知らずに「いっちょ噛み」してもいいのかという葛藤を抱えながらになりますが、川名氏が最近、新潮社をメインに活躍されているからか、同社の漫画ウェブサイトであるバンチKaiにて、『ひみつ―佐世保事件で妹を喪ったぼくの話』という作品が連載を開始するというニュースを目にしました。そう、川名氏の『僕とぼく:妹の命が奪われた「あの日」から』のコミカライズです。
・・・ここからは、もしかすれば、あの事件におけるすべての関係者を傷つけ、敵に回してしまうかもしれないという覚悟で書きますし、まだ配信開始もされていない時に・・・とは思いますが、私は今までスキャンダラスなノンフィクションをコミカライズ(で知名度を更にアップさせる)するような、新潮社関係の商法を見てきたので、あの事件のセンシティブさを考えれば、「そんな方法で商業展開するのか・・・」という思いが、正直拭えませんでした。勿論、『謝るなら、いつでもおいで』や『僕とぼく』が大衆受けの為に事件を面白おかしく暴露していくような内容ではないのは百も承知だし、多分作画担当の漫画家さんもそこはきちんと守っていかれるような表現で連載されると信じています。
ですが・・・やはり、事件の御遺族から許可は取っているのでしょうが、被害者遺族のお父様や二人のお兄様の事を考えれば、あんな商業的な形で明確に露出させてもいいのか・・・と正直感じます。だからこそ、『謝るなら、いつでもおいで』で事件に関わってしまった人々が、川名氏に対して全てを賭すような覚悟で話した事の重大さを、絶対に裏切るような事がないようにして欲しい・・・そう願っています。殺されたのは実際の事件における生身の人間(しかも子供)なので、単にキャラクターとして扱うような失礼が無いように・・・とも思います。
こんな事・・・ 誰かを殺された経験もない第3者がいう事の方が傲慢だという自覚は痛いほどありますし、自分だって表現者として人を傷つける力はかなり有していますが、やっぱり『ケーキの切れない非行少年』とか『でっちあげ』みたいな話を見ていて、ちょっとうっすらとした不信感があったので・・・。
今日は早めの更新です。
何か予定が山積みしとる・・・。やってもやっても新たな課題が・・・という感じです・・・。まぁ・・・個展の方はあらかたやったんで、今度は来年の方を・・・というか・・・。急がねばならん・・・。
まあ・・・久々にデッサンの練習を・・・と思ってやったら・・・盛大に失敗しました・・・。そのままをアップするのはかなりの恥なので・・・モザイクで隠したやつを下にアップしようかと思います・・・。
はい・・・ロベルト・オスティ氏の『目で覚える 動きの美術解剖学』に収録されていたブライアン・ブース・クレイグ氏の「ジェス」という彫刻作品なんですが・・・。何を失敗したかというと、腕や脚の長さとか、ポーズが直立になってるとか、もうできたのは陰影ぐらいなものだったので・・・。スケッチブックにあわせて小さく描かないからこうなるんじゃ・・・。またリベンジします・・・こういうのは・・・。
そういえば、最近藍沢 羽衣氏の『呪われても知りません#スマホ#怪異#Vtuber』という児童書を読みました。 いささかネタバレになるようで恐縮ながら、あれってリアルの人物に対する復讐かと思ったんですよ。でも続きという感じで・・・。何かラストは「トロン」という映画じゃん?と思いました。人間自体がデータになってしまうというか・・・。
以前もこの文章で町山氏のリンクを貼ってるので、裏切りになるかな・・・と思いますが、敢えて何か最近の騒動を書いていきたいと思います。
あの「偏差値は35」っていう話ですよ・・・。 ていうか拓殖大学って、こっちから見ればブランド中のブランドなんですが・・・。中退とはいえ、『ファイブスター物語』の永野 護先生がおられた大学じゃないですか・・・!あれ・・・中学校の時によく読んでましたよ・・・。
本題に戻りますが、大学にあまり詳しくないのに、こんなこと書くのは恐縮ですし、自分の大学の話ではありませんが、例え偏差値が低いかBFかつ定員割れでも(特に地元において)教育機関として成立している大学や学部はあるし、その逆があっても攻撃の材料として使うのは、それ関係の記事を読んだ限りでは批判の手段としては論外だと思います。
まぁ・・・あの手の議論の不快さならわかりますよ・・・2017年から首相とお友達という「クロ」が発生した時に、やっても罰せられる方じゃない、寧ろ(納税者意識や国民感情において)罰することができる方だとわかって味をしめたネット民から、そしてコメンテーターから、死体蹴りと悪魔化の限りを尽くされてきた身としては・・・。あの頃はOBだったけどね・・・。
でも、この手の議論が面白いのは、(ネットを中心とした)マスメディアに深く根付く「Fランク大学」に対する数々のヘイト発言と、こうした町山氏の発言が炎上し、学歴差別絶許みたいな言説が持て囃される事が比例するように成長し、行われている事です。
どうやら、(個人的な偏見になりますが)ネットにおける日本の学歴言説というのは、特定の教育機関やその関係者(特に学生)を蔑視する事と、※学歴厨及び高学歴者へのルサンチマンを解消する為に、必死で学歴社会批判を捲し立てる事がまるで時計の振り子のように行ったり来たりしているのかもしれません。
※なんかここにはサンデル氏の『実力も運のうち:能力主義は正義か?』が単なるリベラル攻撃に使われてるようなさもしさも感じています。お高く止まって社会を見ないリベラルという藁人形を(被害者意識で)叩くことにより、自身のネトウヨ的価値観を正当化する事例をXでかなり見ているもんで・・・。
―相手がちゃんと向き合い始めると、こわがって逃げてしまうところがあるからね。その弱さが、人をひとり殺したよ。
青木 和雄『ハードル:真実と勇気の間で』より
まぁ・・・私も最近、読まんくなった漫画や本はある程度ブックオフに売ったり、それでも売れないものは資源ゴミとして・・・という事を始めています。でも、やっぱり思い入れが強いものもあり・・・という感じでしょうか・・・。
で、何か最近「断捨離」っていう言葉が流行っとるじゃないですか・・・。まぁ、要らんものを捨てたりする範囲なら大いにアリだと思うんですよ・・・。ですが、問題なのは人間関係までその理論を適用してコストカッターぶるような物言いも、断捨離ブームに比例してあらわれている事でしょうか・・・。
この文章と併せてみて、人間まで「It」と見做して排除する事でミニマリストを気取るような言説はSNSに蔓延っていますが、(現実に)替えの効きやすい非正規雇用の労働者や人命を消費する戦場で戦う兵士、そして無縁仏のホームレスにも、ある程度の人間扱いは保障されています。ペットや家畜ですら、その死や生に一定の憐憫は払われています。
そんな中で「人間関係の損切は必要」等と嘯く風潮に、グロテスクなものを感じるのは私だけでしょうか・・・?新井 けいこ氏の『やさしさバトン』という児童書における主張のように、相手への尊重や良心に基づく行為がいかに大事か・・・歪んだ個人主義の極北じゃ・・・。
Xを中心としたネットの世界では、(あればいいというものでは無いですが)大した覚悟も無しにそのぬるま湯から、自分にも保障されている人権や尊厳を腐す言動がホントに散見されますが、結構な贅沢だなぁ・・・と思うこの頃です・・・。
吉野 万理子氏の児童書『花に風』を読みました。今時、貧困とか闇バイトとか、本作のようにハラスメントとか・・・世知辛さの波にうまく乗る児童書はいつの世でもありますが、「想像の世界でくらい自由にさせてあげなよ・・・」とか思いますが、知らんぷりもどうかと思う次第です。
で、何か本作でテーマになっているのは、最初に書いた通り「ハラスメント」です。パワハラとかカスハラとかスクハラが出てくるんですけど、知らず知らずの内に主人公の家族もカスハラ認定される事により、ハラスメントというものを、自分とは関係ない異常な大人同士のイザコザで片さない誠実さを感じました。
そこで、主人公の少女が生け花教室の先輩から・・・そう、アドバイスのフリをした・・・アレを受けるわけですが・・・。アレとはもちろん、主人公が気づいたあの言葉、「スクハラ」ですよ・・・。で、相手の実力や立場の誇示の受け皿にされる主人公を見ながら、(結構場違いかつ極端な例えを持ってくるようですが)殺人事件という最悪な事例に至る事は滅多にないですが、川名 壮志氏のノンフィクション『謝るなら、いつでおいで』で被害者の少女が直面していたような、創作界隈のギスギスはどこにでも転がっている普遍性がある・・・そんな感じがしました。
先輩から主人公が受ける、「アドバイス」という名前のそれですが、インターネット(特にX)を検索していて、そういうのってかなり見ます。よー清水氏も指摘していたと思いますが、厳しいアドバイスのフリをしながら、他者を自分の自己顕示欲や支配欲のはけ口にして、侮辱するような言動をする創作者みたいな・・・。その場合はターゲットが不特定多数なんで、マジで何ともしがたいよな・・・と感じています。自分の仕事にアート(或いは芸術)という冠がついた瞬間、そんな自分を特別視して排他的な選民思想を表明し、自分が勝てる相手に威張り散らすような画家やギャラリー経営者をXやBluesky上で見とるんでね・・・。
そして、(いささかネタバレになってしまいますが)最後に主人公がスクハラの加害者に下した決断は、とても現実的だと思いました。そこで相手も反省して仲直り・・・になると、ハラスメントがなぜ悪であり、やってはいけない行為なのか・・・という教訓の効用が薄れてしまいますからね・・・。
(一部を少し書き換えました)
新井けいこ氏の児童書『やさしさバトン』を読みました。
まぁ、何というのか何でも損得勘定で考えがちな少女、有紗が主人公で、ひょんな事から視覚障害者の女性と交流した事から、果たして行為は損得、つまり自分のメリットだけで受けるものなのか・・・という考えを持ち始める有紗でしたが・・・。
基本的に、私は社会に能力や生産を提供する行動、つまり労働は金銭的なリワードが鉄則であり、それがない労働というのは詐欺師の常套手段か、偽善者の無自覚な搾取だと認識しています。 よくありますよね。「夢」とか「やりがい」みたいなもので人の善意につけ込み、タダ働きさせるような職場とか団体とか・・・。
ですが、社会というのは無償の善意や良識の応酬で運営されているのも事実です。災害のボランティアや、何かあった時に助けてくれる近所の人々、職を失い、金銭的に困窮している加害者家族を無償でサポートする弁護士、無料塾など・・・。私も色々と大勢の誰かに(正直ながら)無償の善意で助けられ、ここまで生きてこられたのでその価値は痛感しています。
『やさしさバトン』は、巷に横行している逆張りトリアージ言説へのアンチテーゼへの主張だと思いますが、私もその言説に反対する者として、いささか理論武装が・・・とは思いました。現代思想の長期主義特集でも木澤 佐登志氏がトリアージ思考を社会に強要するような言説に雷を落としていたと思いますが、他者への行為に善意や良識など、損得では割り切れない感情が何故重要なのかといえば、本書のように「やさしさ」が誰かと繋がっていくと幸せな気持ちになれる程度のことではないと思います。社会に損得や排他的功利主義を応用する事は、社会の根幹や理念、人間同士の基本的な信用を破壊する話であり、社会がそうならないために個人を尊重し、切り捨てる事に抵抗感を与える倫理的ブレーキは必須だと私は考えているわけです。
人を単なる(トロッコ問題的な)価値として扱わない、(必要もないのにわざわざ)排他的切り捨ての精神を持ち込むことが何故有害なのか、そこら辺の反論がいきわたらない限り、説得力は無いように思えます。はっきりいえば、(特にアマチュア界隈で)薄っぺらなエキセントリックと好き勝手な主張が児童書というフィールドで持て囃される風潮はありますが、それに勝つためにはもう少し無償労働のデメリットとか反論は詳しく・・・と感じました・・・。仮想敵として思いつくのは、ハ〇ブネ×ブック〇とか児〇書読〇日記とか、そういう所なんですが・・・。都合よく弱者をダシにして自民党一強政治を腐す癖に、似非文化左翼的な特権意識でその相手(貧困層とか生活保護受給者とか)を抑圧している事に無自覚なあの態度には、以前からかなり感じてました・・・。
先程はちょっとキツめの話を書いてしまいましたが・・・まぁ、(たまには味直し的な話も必要かと思い)先日からBOOTHにて『プライマルの装殻』(PDFファイル)を発売開始しました。詳細はこちらをどうぞ。一応紙版は作ったのは作ってたんですけど、メカデザインやストーリーが見直してアレだったので、2転3転してようやく商売として・・・といった感じです。ちなみに「装殻」は「そうかく」と読みます。
内容は、水沢 悦子先生の漫画『ヤコとポコ』において、オリキャラが時々ガンダムみたいなものに乗って戦いながら、推しキャラであるオリーブ翠先生と適度に交流する話です。
下に、参考までに表紙画像をアップします。
はい、「ガンダムみたいなもの」の全容です。正確には「アーマメント・フィギュア」、略してAFといいます。AFというのは、カズオ・イシグロ氏の小説『クララとお日さま』に出てくる子供型アンドロイド、アーティフィシャル・フレンドの同じ頭文字であるAFからです。キャンバス画に書いたメカをPhotoshop Elementsで切りとり、文字を合成しました。まぁ・・・プラモデルのパッケージをイメージして制作したんですが、某新書レーベルっぽくもあるなぁ・・・。更に、下に無加工のものをアップします。
まぁ、色々書きましたが、もし何か思う事があったらリンク先で読んでみてください・・・という感じです・・・。500円なんで・・・。もし紙じゃったら、ちょっと価格上げるかもしれませんが・・・。
最近、被爆者関連の本を読んでいると、被爆者が(当然ながら)アメリカを憎んでおり、ひょんなことからエノラ・ゲイのクルーが原爆投下について後悔している事を知り、相手への許しと共に悪いのは戦争そのものだ・・・という結論に至る話を見かけました。
こうした戦争被害についての許しについての「美談」はちょくちょくありますし、林 志弦氏の『犠牲者意識ナショナリズム』でも「赦し」について書かれていると思います。ですが・・・。
私だって(子供の時に)許されない事をして許されたり、許されなかったりしながら成長してきました。責任を問われるべく当然の叱責や注意を、被害者意識として正当化するズルさは、今でもあります。
だからこそ敢えて書きますが、この「許し」についてのドラマに、結構ひっかかるものがあります。 ポスト8・6を歩む前の広島は、大本営の設置に数多くの兵士や弾薬を送り出していった宇品港、大久野島の毒ガス工場など、「軍都」、つまり戦争加害者としての側面を大いに持っていました。それを「戦争そのものが悪い」と転嫁し、無邪気に許しを与える姿勢は、海の向こうで侵略や虐殺の憂き目にあったアジア諸国の人達の怒りを矮小化し、なあなあのお互い様精神で、戦争責任を漂白する危険性がないですか?と、感じています。
確かに、被曝された方々の当時の年齢と、それから歩まれた道のりを考えれば心情は同情に値するものです。 私も祖父が入市被曝(被爆者手帳を持っていました)しているので、そこだけは痛いほどわかります。
ですが・・・やっぱり・・・自国中心の被害者意識だけで戦争を伝承する動きがメインな一方で、やはり海の向こうからはキツい目線を浴びせられている現実があり、そのギャップの深さについては考えさせられる・・・そう思うのです・・・。
今日、仕事が終わった後にコンビニへ行こうとしたら、向こうから猛スピードで走ってきた自転車と接触しそうになって・・・もう、許されんぞこれは・・・!!接触しそうにっていっても・・・服が掠ったんだよ・・・!!なんでああ無自覚なんか、自転車にのってる奴の大半は・・・!!
はっきりいえば、外国人観光客の方が自転車のマナーがすごくいいです・・・。地元民と比べると・・・。
まぁ、来年の1月もまた東京のギャラリーさんで出展するつもりです・・・。よろしくお願いいたします・・・。
この間、しょうたダンボール君と島村 勇希君の二人展(会場:ギャラリーかのえ様)にお邪魔しました。下にその様子をアップいたします。
そして、彼の弟である島村 勇希君のキャンバス画(油絵・アクリル画)も、初めて見ました。 彼にモチーフや制作意図などを聞いた所、宇宙や気をテーマにした絵だそうです。確かに、芯の無い人がよくいう空虚な「自由」ではなく、きちんと物事を観察した上で、それを「自由」に昇華できている強さがかなりあるな・・・と感じさせられました。しょうたダンボール君の作品と併せて・・・。
こうして見ると、やはりゼロからの創作なんていうのは「できない人」がいう言い訳や美辞麗句で、やはりリアルやマテリアルな側面を大切に見ている人が、きちんといい作品を作れるのだ・・・という事をこの展覧会で痛感させられました。
なお、明日はちょっとした報告をしようか・・・と思います。BOOTHを始めたんですよ、BOOTHをね・・・。
一応は・・・メカ自体の全体が完成しました。後は背景・・・海を描いていきたいです・・・。資料ももう揃えてるんで・・・こういう時に図書館って便利だなとか思ったりします・・・。
そういや・・・後ろめたさを感じてるとはいえ、やっぱり色々間違ってるのに自分が正しいマンに遭遇すると・・・やり切れなくなりますね・・・。そんなに私は法外なこといってるわけじゃないのに・・・。
まぁ、気持ちを切り替えて前進・・・あるのみです・・・。
今、キャンバスの線画に着色しています。
で・・・今日、コンビニへと行った時に、老人同士の会話で「三八豪雪」という言葉を聞きました。何か久しぶりに聞く言葉でしたね・・・。
雪も人を殺すから怖いけど、雪の降らない温暖化も怖い・・・という事で・・・。
そういや、『黒魔女さんの小説教室:チョコといっしょに作家修行!』という本を前に読んでいて、伏線を張る事を痛感させられています・・・いきなりアレじゃ成立してないし、何とか自分なりに正当性は持たせたつもりだけど・・・(電子は)BOOTHとか文フリとかに放流してみたいもんです・・・。
中学生の時、美術の教科書でこんな作品を見た事があります。ああそれと、余計な事かもしれませんが、マグリット氏の「呪い」という作品も「s.l.a.i」というゲームで言及されてましたよね・・・エンディングで・・・。
で、本題に戻りますが、この「Blue wash」はリンク先における「大家族」という作品のパロディみたいなものを目指して制作しました。メインテーマは、こういう話やこういう話をベースにしています。 阪神淡路大震災や熊本地震などの災害がすぐ忘れ去られるような風潮に対し、東京が被災地として関わってきた時だけあれ程(全国規模で長年)騒がれるのと同じで、ウクライナという先進国がロシアから攻撃を受けるやいなや、中東やアフリカの紛争を他人事で処理してきた人達が、急に※反戦意識を覚醒させ始めたと思います。恥ずかしながら、私もロシアのウクライナ侵攻に慌てふためくその一人だったのですが、やっぱりこういうのはいかんなーという自省で、拙作を描いていました。
そして、バックで青空が見えるように切り抜かれる形で表現されているのは、(原作のように)鳥ではなくMQ-9リーパーというアメリカの無人爆撃機です。これは、「ドローン・オブ・ウォー」とか、「ドローン・オブ・クライム」といった映画に私が多大な影響を受けている事、児童向けノンフィクションの「ナビラとマララ」が指摘しているように、ドローン爆撃で民間人の巻き添え被害が出ている事等を表現しています。背景の青空は、2つ目のリンク先の記事が象徴しているような「青い眼の人々」を表現しています。
まぁ・・・目の前の少女ですが、かなり結構な言い訳はしないといけません。ヒジャブという被り物から出ている前髪なんですが、結構悩みました。現実に照らしあわせて、出すべきか出さないべきなのか・・・結構あの話はデリケートな問題なので・・・。で、出すとすれば多数の人と同じように撫でつけるような表現にすべきか・・・と思いましたが、きたしま先生の『インプレゾンビの初恋』という漫画を読んでいると、ヒロインの前髪はそうじゃなかったので、それもアリか・・・と思って毛先が見えるようにしました。これで何かあったら・・・文句はいえんぞ・・・私は・・・。
※これはかなりの偏見ですが、日本で外国や異世界を扱ったノンフィクションでも、白人がかなりの数を占めるか、有色人種が全く出てこない作品もあります。それも関係しているのかもしれません・・・。
まぁ・・・一日、日付がズレてれば「13日の金曜日」になっていたんですが、それはいいとして・・・何か、こういうポストを見て、かなり考えさせられたというか・・・。
一応、ポストに貼られたリンクがかなり残酷な内容なので注意してください。どれくらいのレベルかといえば、いつか自分がネットで見た、福島の避難区域に残されたペットが共食いした末の、死骸の画像を見た時のショックに匹敵します。
で・・・やっぱりこんな事いいたくないが「かわいそう」って結構恣意的な言葉だから注意しなきゃなー・・・とかぼんやり思ってます。ポストでは「犬vsクマの構図になるとだいぶ話が違ってくる。動物愛護家たちの反応はどうなるか。」と書かれていましたが、まさにそうかと・・・。同じ「動物」が殺されたという事で・・・。かなり話はこじれそうです・・・。
まぁ・・・リンク先の記事もちょっと情に訴えすぎじゃ・・・?と感じました。第3者に向けてる分、もう少し事務的にできないものかと・・・。結局(クマに惨殺された犬が可哀想という「物語化」みたいな)は、そういうのも何か要らん対立を煽ってるような感じがしますよね・・・。で、何か母がインコが死んで慟哭していたのを思い出しました・・・。
まぁ・・・言い訳として、ここで「明日くらい」と書いていたのですが、色々な事が積み重なって、ようやく京都鉄道博物館様にて開催されていた企画展「TRAinART ~アートする世界の鉄道展」にお邪魔させて頂く事ができました。鉄道系のアートが好きなのと、ただ(鉄道ファン的なものから)好きで描かれるのではなく、鉄道も含めて世の中の事象がアートと関わって、作品として成立していく事は運命といってもいい話だと思うので、是非とも行ってみねば・・・!という思いでした。下に会場の様子をアップしておきます。
特に、やっぱり作品として映えるのはイギリスの鉄道、特に蒸気機関車ではないかと思いました。知っての通り、イギリスは世界で初めて鉄道が開通した国であり、その気概を示すかのように蒸気機関車はただの機械ではなく、一流の工業製品のようにカラフルで、流麗なデザインと装飾が施されています。(ちょっと失礼な表現で恐縮ながら)黒一色の喪服みたいな日本の蒸気機関車に比べると、その違いはかなりあると思います。
これも出羽守の意見になってしまいますが、最近でも一流のデザイナーへと鉄道車両や駅舎のデザインを依頼し、その作品が話題に上ることがありますが、やはりそうした※「点」ではなく、トータル、つまり「線」で考えないといくら形だけヨーロッパの後追いをしても・・・と考えています。現在、度々日本の都市景観の悪さが指摘されていますが、まだまだ先程書いた「点」だけを見ている結果かな・・・とも・・・。
ちょっと不平不満を書いてしまいましたが、やっぱり鉄道も含め、日本の景観がハードウェア頼りの現状で済まそうとしている部分はあると思うので・・・。
何か自分から見て、粗暴だったり道理の合わない考え方をしている(表明している)人間を安直に「ヤンキー」というのは正直、あまり好きじゃないです・・・。まぁ、私もここで「ヤンキー」とかいっててアレな事は承知ですが・・・。
もうこの公開日記で何度か取り上げたとは思うし、同じシーンの説明になってはいるんですが、「12人の怒れる男」という映画で、陪審員の一人がスラムとその住民に対する差別を捲し立て、そっぽを向かれるというシーンがありますが、批判の文脈に「ヤンキー」という言葉を持ち込むことに、そういう無邪気な暴力性を感じます。ヤンキーって・・・マイルドヤンキーとかいいますけど、地方やそこで生きる労働者みたいなものを、都市目線で都合よく矮小化してヘイトするマジックワードじゃねぇか・・・。まぁ、私だってガラの悪い人は好きじゃないですがね・・・。でも・・・自分だって社会に迷惑かけとる部分はかなりあるしなぁ(汗)
まぁ・・・特にネットを見ると、西成は怖いとか、メリトクラシーの成功者は冷酷だとか、クルド人は犯罪予備軍だとか、フォビアの文脈で優位に立つことにより、社会や人との関係性をチャチャッと済ます風潮(これは菅野 仁氏が『友だち幻想』で指摘していた「コミュニケーション阻害語」の親戚ともいえるかもしれません)はどんどん強まっているように感じます。
私の絵の制作においては、党派性みたいなものでは無く、寧ろそこら辺の闇にいっちょ噛みするような感じでやっていきたいのです・・・。だからあんまし気づかれんし売れんのだとは思いますが、高く評価されているような反戦アートとか震災アートとかとは、本当に相性が悪いので・・・。
今、HBの鉛筆で白く塗ったキャンバスに線画を描いています。
やっぱり・・・F30号では大きすぎる気も・・・でも背景を想定に入れれば・・・と思います・・・。今はF20号で、ギリギリ収まる感じです。
可能ならメカだけではなく、何かを添えたいな・・・と感じています。その何かが思いつかない状態で・・・(汗)
そういえば、最近「フキハラ」という言葉を知りました。コンビニや駅においてカスハラの注意喚起ポスターが見られるようになり・・・フキハラもそうだよねーと思います。
まぁ、現場で切羽詰まってれば誰かにしわ寄せが来ちゃうのは仕方ないとしても、イライラしている自分を見せつけ、思い通りにならないとキレるのがスタンダードという職場もありますからね・・・。特に中小では・・・。何か『打ち切り漫画家(28歳)、パパになる。』という漫画で、身につまされる思いでしたよ・・・。いますよね・・・すぐに「仕事舐めてる」とかいうヤンキー的文脈に矮小化するか、付け焼刃の知識で(ADHDみたいな)病気として質問してくる人が・・・。
なんかああいう系の人ほど、簡単にメンタルヘルスを乱用してくるので嫌になります・・・。
で、カスハラに関してはカスのハラスメントかと一瞬思いましたが、「カス」はカスタマーの略語という事らしくて・・・。客が店員をいじめよるのちょくちょく見てきたしなぁ・・・。勝手な妄想だけど、それこそ病気か八つ当たりかと思うんですよねぇ・・・。
(ちょっと色々加筆修正ました)
昨日、見なきゃそれまでなんですが懲りずにまたあの某観賞魚の人のnoteを読んでしまいまして・・・。で、記事を読んでいく内に「ダメだこりゃ・・・」となりましたよ・・・。
これ系の話における焼き直しになっちゃうかもしれませんが、依頼は応援じゃないんですよ。某観賞魚の人は無邪気に応援目的の依頼をする事を推奨しているように見えますが、施しが目的化すると、逆に駆け出しの作家(ギャラが安い分)を金で使い捨てにするような悪循環が生まれると思うし、(私はまだまだの立場ですが)もともとフリーランサーとクライアントはプロ同士、対等な立場でやり取りしながら仕事をさせて頂くという(金銭的なものも含めて)責任関係で成り立っているはずです。そこに応援という「善意」を入れると、描き手に要らんプレッシャーを与える事に繋がる危険性だってあるでしょう。そして、某観賞魚の人は依頼ページを設けていないイラストレーターさんに、依頼を問い合わせる事を応援と結びつけるような事を書いていましたが、それなら普通にココナラやSkeb等のサービス(そして、依頼のページを設けている作家さん)を使えばいいわけで、依頼ページがないのに「突撃」する事は応援どころか、却って(殆どのケースで)悪印象を持たれると思うんですが・・・。
私だって駆け出し状態ですが、知名度が高い人を選ぶのは単に権力とかファン集めだけじゃないです。私もプロ作家さんにゲスト原稿の依頼をさせて頂いた経験がある分「は?何いってんだお前?」みたいな精神状態になりました。
知名度の高いプロ作家が商業面で優遇されるのは、経験が長い分、駆け出しと違ってちゃんと絵の仕事が(こちら側の要望も併せて)柔軟に出来るという事、実務面も含めて何かあったらきちんとした対応と危機管理能力を有しているという事もあるので、そんな認識(見栄目的?)でプロ起用が行われていると思っているのなら、本当に認識が甘いし、わかっていないと思います。私もちょろっと企業案件でお仕事をさせて頂いたことがあるので、尚更なんですね・・・こういう話は・・・。
そういう所でトータルすれば、某観賞魚の人は人の役に立ちたいという前に、ソースを自己啓発やスピリチュアリズムに頼るのではなく、ちゃんとビジネスリテラシーや実務の面をきちんと考えてから、絵描きの事に対して発信や提言をして下さい・・・というお気持ちです・・・。
私だってわからずに間違いを犯す事だってあるし、あの企業案件だって、クライアントさんと私の間に立ってくれる人がいたからこそやらせて頂いたわけなので、偉そうにいうのもなーとは思います。でも、こういう経験があってこそ、某観賞魚の人が依頼を応援としてやろうとしている事にかなり違和感を抱いていたので・・・。違和感ならいいですけど、何も考えずに金をあげる事ばかり考えて、需要と供給の事にズレた理念表明をしているのが、本当に自分の中で苛立ちとして燻っていました・・・。それに、絵描きさんは金を送れば描いてくれる存在ではなく、職業人としての尊厳と仕事を選ぶ自由意思がある事に気づかない限り、某観賞魚の人は益々意識だけが高く、現実と実態にそぐわん事を平気で・・・という思いです・・・。何かクリエイターの尊厳を、(人の都合も考えずに)応援したいという自己実現の為にペット同然に貶めてる感じがせんでもないし・・・。
(追記)そうそう、こんな所で依頼の話はするもんじゃなかったと・・・もっとポジティブな話題で宣伝すりゃいいのに(泣)
(追記2)ただ、企業案や仲介者、正式な窓口がある場合等、条件整理とか責任の所在がある程度は明確な問い合わせ(依頼)まで私は否定していません。ただ、応援するという目的の為だけに、無秩序に突撃するのが問題だと、この文章でいいたい訳です・・・。まぁ、私だってまだまだ駆け出しなんで、寧ろ何かありゃ何なりとメールしてほしい・・・そういう感じだし(汗)
ついに・・・念願のチタニウムホワイトを買いました・・・!
これである程度は背景のアレコレを描けました。次は波頭だね・・・。
まぁ・・・過去に画材屋で唖然とする事をやられまして・・・それはいうまあ・・・。
ただ・・・例えるなら本屋に行って、絵本というジャンルがわからないような対応をされる時の破壊力に似たものだったのですよ・・・それが・・・。絵本だっていうのに新書のコーナーに案内されるというか・・・。
不平はここまでにして、ちょっとコンビニに行ってきます。のり付け遊びが待っているので・・・。
今、2作目に取り掛かっています。チタニウムホワイトの一番大きい奴が・・・品切れだそうで・・・まあいいです、根性で買いに行きましょう・・・!
そういえば、今日は久しぶりに広島風お好み焼きを食べました。やっぱり胃が重くなるけど美味しいですね・・・。ちょっとこども図書館に資料集めに行っていたので・・・でも・・・一番肝心なものを借り忘れていた事に気づきました(汗)もう閉館だし、明日は祝日の振り替えで図書館は休みなのでしょうがないです・・・。
川名 壮志氏の『謝るなら、いつでもおいで』を読んでいて、やっぱり「うざったてー」で始まる自分のクラスへの罵倒は、いつ見ても・・・と感じています。
人を殺すまでに発展しなくとも、あれだけのキツさは今のネットに散乱するものだな・・・と・・・。明日くらいから現地レポを始めます。京都のやつです。
今日は下塗りを済ませました。これからいろいろ描いていきます。
行きつけの画材屋さんに、F12号キャンバスが無かったので根性で東急ハンズまで行って買いました。やっぱり稲荷町からショートカットする路線にしたのは良かったと思います。
で・・・ヒジャブなんですけど・・・前髪は出すのは正解なんでしょうか・・・?それともリアルに即して隠した方がいいのか・・・。きたしま先生の『インプレゾンビの初恋』という漫画では、みんなヒジャブから前髪を出しとったしな・・・それに倣った所はあるし・・・でもシリアスな話だから、どれほど・・・とも思うわけですが・・・。
まぁ、ちょっと調べてみます。これから・・・。
もうこの1年があと2ケ月・・・なので、やる事がどんどん増えていっているような気がします。で・・・作品が1作できあがりました。キャンバス画の方です。
なんかわかりもせんくせに、名画のパロディをやってしまったな・・・という感じです。
昨日の文章で夜行バスの相席ブロック問題を書きましたが、あれで俺が被害にあったら・・・とかうっすら考えました。それで泣く泣く新幹線とか飛行機で行ってる人がいるという想像力は・・・あるんですかね・・・。それか親の死に目に会えんかったりとか・・・。『もしもし、てるみです。』もあるじゃないですか・・・「思いやりと想像力を大事にするんだよ」と・・・。そういや死に目・・・ですが私は主に他者からの報告で全て斎場に行っています。情けない話ですが・・・。こういう時に限って遠くにいるのでね・・・東京日帰りは苦い思い出です・・・。
いつも朝は早いので、その分眠気が・・・という感じです。コーヒーで応急処置をして、使用を済ませましたが・・・。
コンデジにセットしてあったSDカードが、ついに・・・という感じだったので、家電量販店(ヤマダ電機です)で代わりを買いました。それから、電車に乗って中心部まで向かい、アレ・・・の質問をしました。まぁ、やらんでも構わないと・・・。でも・・・そのせいで迷惑をかけたもしれないので、本当に申し訳ない・・・という思いです・・・。
さっき帰宅したばっかりなので、ちょっと寝ますね・・・。色々アイデアもあるが、眠気の発散を優先したいのですよ・・・。
今日はバイトの帰りに、某所をハシゴしました。
それでもいい絵は描けませんでした。まぁ・・・それは自業自得です。誰のせいでもないのです・・・。アレが迫っとる・・・金の事ですよ、また・・・。
ナンタナンタラもやらんといけんし、難儀じゃ・・・。
一時バイト先の近くにあるコンビニで、『昭和40年男』なる雑誌をちょくちょく目にしていました。まぁ・・・多くの人にとっては(私も含め)子供時代の方が・・・という感じでしょうが、それは大人になってからある程度はやるべき義務とか責任とかを、親を筆頭とした多くの大人が肩代わりしてくれた運の良さというべき事かもしれません。私だって古いものを見ると思わずエモさを感じてしまいますし。
で・・・そこら辺のアレコレを見事に論じている本を見つけました。タイトルにある通り、アグネス・アーノルド=フォスター氏の『ノスタルジアは世界を滅ぼすのか』です。
内容は「昔はよかった」とか「懐かしさ」といった感情が、過去が現在より有していた悲惨さをごまかし、右派・左派問わず政治家の政策における武器化やコンテンツの金儲けにも繋がっている事が指摘されています。ですが、私が本書が良書だと感じたのは、著者が一方的にノスタルジアを敵視し、自身の知力や地位、そして倫理を総動員してノスタルジアに加担するアマチュア歴史家や過去を懐かしむ人々をボコるような書き方をしていない事です。寧ろ、ノスタルジアにはポジティブな側面がある事を理解し、中立的なスタンスでお付き合いしていくようなタッチには好感を覚えました。
(個人的な偏見で恐縮ながら)どうもアメリカのこうした一部の評論というのは、相手をデータや理論で殴って「お前は間違ってるから黙っとけ」といい放つようなものがちょくちょくある中、批判対象である相手の立場を尊重して理解するという人がいるという事に、安心感を覚えています。
確かに、(「オトナ帝国の逆襲」でも風刺されてましたよね)「昔は良かった」という感情が誤謬のもと間違った美化として本書の指摘通り、政治や※1社会問題などにおいて力を持つ事があり、それはきちんと批判されるべきです。 ですが、※2過去がある程度は今よりマシだったという事も事実であるし、カウンタックや国電、そしてトーマスなどが未だに人を惹きつける力自体はアリだと思うのです。私もレトロゲームの実況動画を見てニヤけとることはあるし、絵だって一昔前の乗り物から一定の影響を受け取るし、(ストック・エイトキン・ウォーターマンに代表されるような)ハイエナジーサウンドとか好きだしなぁ・・・。
※1例えば、「少年犯罪は現在、凶悪化・増加の一途を辿っている」とか、当時の公害や差別・治安問題を抜きにして「今の若者は可哀想だ」というようなトンデモ理論でしょうか・・・。 小さいものでいえば「#今の小学生は知らない」というプチ権威主義・・・でしょうかね・・・。
※2だからといって、今の時代が絶対善かといえばそうでもない気がします。情報化で社会の利便性は格段に高まりましたが、その高度さは特定の年齢層への分断を煽り、何かあれば(原発事故や、スマホなどの電子機器が無ければ機能しないサービスのように)一発で崩壊するというリスクを格段に孕んでいると思うのです・・・。「クロムハウンズ」というゲームでも、太陽フレアの異常活動で電子機器が殆ど使えなくなった(だから、飛行機を飛ばせないしミサイルも使えない)という、悪夢のような近未来世界でしたよね・・・。
また『ステイホーム』への愚痴になりますが、るるこが聖子おばさんとリノベーションをしていく際に、断捨離のノウハウをネグレクト姉妹に対して行う事(勿論肯定的なタッチです)への指摘がありました。人間はモノとは違うだろ・・・デイブ・ペルザー氏ではありませんが、児童書で(自分より弱い)人間を「It」へと矮小化し、切り捨てるような描写はどうなのかと・・・そうしてもいいロジックが作り上げられいても、ですが・・・。
ああいう社会的弱者を悪魔化して戦争を仕掛け、屈服させるようなシーンは殆ど手放しで礼賛されています。ですがそれを肯定しているレビュアー達は自分の場合になるとどういう態度を取るのでしょうか?多分「公助に丸投げして自分達を見捨てるのか?せめておにぎりだけでも寄こせよ!」とキレると思います。これは賭けたっていいです。
『ファスト教養』の受け売りになりますが、コロナ感染は自己責任という考えが日本では米英の10倍らしいので、だからこうした個人主義という都合のいい言い訳でコーティングされた自己責任論や、「コロナのおかげで働き方改革がなされてよかった」という現実を直視しない勘違い理論みたいなものが、日本では受けるのかもしれません。
それと、つけ加えておきますが、神宮 輝夫氏は『児童文学の中の子ども』でこう書いています。以前もここで引用したのですが、改めて・・・。
「最低のものは、大人である作者が、その理想とする生き方をのみ語ろうとする作品である。児童文学の全歴史を通じて、じつはこの手の作品がもっとも多かった。大人の立場のみから他宗教を非難したり、政治の現状を批判したり、あらまほしい国家形態や社会図をえがくものは、大人から大人へ手渡されているかぎり意味はあっても、子どもとは無縁な芸術といわなくてはならない。」
正直、『ステイホーム』が有する逆張りの理論やそれが(殆ど)無批判に持て囃されるような状況で、もっと子供への影響を考えた慎重な議論があっていいはずです。実際、るるこの家庭のように悠長にバーベキューやリノベーションができるような家庭などほんの少数で、多くの子供がDVや学力低下の脅威に晒され、自殺者だって出ているのです。そんな状況で社会正義や教育制度はクソだといってのける木地 雅映子氏の取り巻きのような存在に対して、無縁とはいわなくても神宮氏が指摘する「大人の立場のみから他宗教を非難したり、政治の現状を批判したり、あらまほしい国家形態や社会図をえがくもの」お気持ちはある程度は正しいのではと思います。自分達がこんな状況で好き勝手やれるのも、ギリギリの状況で己がクソだと思っている義務や責任を果たす人達がいるからじゃないですか?
なお、私自身の観点ですが「コロナのおかげ」という言葉は、一時勃興していた反・反原発本における「寧ろホルミシス効果が認められるから、福島の事故は問題ない!」 とか「直接的な死者は皆無だから、福島は死者数の少ないチェルノブイリと同じように安全!」とか安全圏でいってるような著者と同じような感性だよねーとうっすら感じたりするわけです・・・。
ここで・・・一つブラックすぎる冗談を思いうかべました・・・。
高市氏が首相に就任したと思いますが・・・史上初の女性総理という事で・・・。で、私は『鋼鉄紅女』というSF小説のラストが思い浮かんだんですよ・・・。続編が出るくらいの人気作ですからね・・・。どういう話かはある程度調べればわかるでしょう・・・。
すみませんね・・・作者のシーラン・ジェイ・ジャオ氏には・・・こんな冗談をいうてしまって・・・。
で、今個展のDMをフォトショ(エレメンツです)で作っています。あの鬱陶しい通知を何とか防げたようです。まぁ・・・Blueskyでのアレ(炎上)は可哀想だったけど、アドビも空気が読めんかった所はあるなと・・・。
最近、ちょっとお腹の調子が悪いんで・・・どうしてかな・・・。
それでも、12月の個展に向けてやるべきことはやらんと・・・。
まずはDM制作からです・・・IT系コンテンツはそろそろ誤クリックを誘発させるようなポップアップはやめようやと・・・。
今日は病院に行って、帰ったばかりです。
いかんせん受付の対応が・・・と感じています。先生はいいんですが・・・。
で、今・・・ヒジャブを描きました。ちょっとセンシティブなネタになるかもしれん・・・。
来る12月中旬に、個展「Inter Space」を紙屋町ベース様にて開催させて頂きます。
出展内容は、キャンバス画12枚程度と、自作小説10冊、絵葉書15枚程度を予定しております。作者本人は全期間会場に常駐する予定です。
詳しいスケジュールは下記をご覧ください。
とき
2025年12月 16日(火)~12月21日(日)
11:00~19:00
ところ
〒730ー0011 広島県広島市中区基町地下街100 シャレオ紙屋町ベース
詳しくはこちらをご覧ください。
そういや、幼少期に父が持っていた「OZ」というゲームをやったことがありました。田村 英里子氏とCGアニメーションを融合させた奴で、最近ネットでEDテーマのタイトルを知ることができました。あれも「東脳」と同じくらいサイケな世界観でしたね・・・。
今日はコーナンに行きました。最近買った家具のワッシャーが不足していたので・・・下手にいうたらクレーマー扱いされるかもしれないし、買った方が早いと思ったので・・・。
ああ、それと明日くらいに12月にやる個展について色々告知しようかと思います。会場は紙屋町シャレオの中なので、かなりわかりやすい位置かなと・・・。
Xで、あの日本人ファーストの政党が国立大学を各都道府県に設置という政策を見て・・・その画像を引用したポストのツッコミ通り、もう既に各都道府県に国立大学は設置されてるのですよ・・・。
それと、JICAの話ですが・・・「宇宙兄弟」のあのエピソードを思い出しました・・・。
今回のように、行政や企業がネットのクレームに簡単に屈するような事になれば、(「日本死ね!」のように)炎上=民意という悪しき例が更に出来上がっていくのではないか・・・そう感じています・・・。
なお、移民や難民関係については 、個人的に「多様性」とか「共生」ばかりを高みから唱え、善良な外国人ばかりをファーストにするやり方も・・・と思います。それをいいだしたらかなり無駄に長くなるので、今日はここいらで・・・。12月の事もあるし・・・。
今日は・・・アレでしたが・・・何とか間に合いました。広電は停車駅がかなり多いので、中心部に行くには・・・それなりの時間がかかるのです・・・。特にそっち方向だと・・・。
そういえば、「ヴァイラス」というSF映画があったと思いますが、印象に残っているのは船長です。あの反社会的で不安定なパーソナリティが、そういう方向に向かってしまった末路・・・あれは笑いました・・・。あっさりやられましたが・・・。
今日は64ギガのUSBメモリを買いました。家電量販店で・・・。
そして、紙パレットも無くなったので画材屋で買いました。
今日は雨が降る前に帰れてよかったです。何か色々やらんといけんことがあるので・・・しんどいけど頑張らな・・・。12月と1月と続けてあるから・・・。
井上 林子氏の児童書『11歳のバースデー』シリーズを読みました。それと、最近(本シリーズのイラストを担当された)イシヤマアズサ氏の絵もかなり好きになっていたので・・・。
まぁ、11歳のバースデー繋がりで、こういうのを思い出しました。で、それはそれで、 5巻の中で5人分の子供が、11歳をどう迎えるかが結構丁寧な心理描写と共に描かれているわけですが、私が注目したのは悪ガキの位地知 一也と、キツそうな体育会系の(サブキャラですが)飛田 瑠花です。実際に、いじめの加害者が変わるなんて事はそうそうなく、被害者が逃げなければいけないのが現状です。ですが、それでも人を害することでしか寂しさを表明できなかった一也が、他者を助ける事で変わっていく過程には思わず井上氏の説得力を感じました。
それと・・・瑠花ですが、イチロー氏は「指導する側が厳しくできない」というような事をぼやいていたと思いますが、瑠花はそれを体現する人間だと思います。自分がダンスや運動でできる分、※運動会におけるリレーの練習で他者にきつく当たるのですが、ダンスバトルで負けて号泣する所を、自分が(運動神経が鈍いせいで)最もつらく当たっていた四季 和也に見られてしまいます。ここら辺もかなり秀逸なすれ違いと理解が描かれています。デキると思っていた自分が負けた瞬間・・・クリエイティブな仕事は、東大受験よりも倍率が高いといわれている中、頑張った結果を思い知らされるのはどんな気持ちでしょうか・・・。しかも、瑠花はこの年で自分のせいだと認識してるのが凄いと思いました。
ですが・・・ちょっと問題点を感じたのも確かです。シリーズの2巻で、おませな少女の夏木 アンナが取り上げられていますが、アンナが掃除当番をさぼる女子達(それが瑠花達だったりするのですが)に怒りを内心で表明するシーンで、「あんたたちなんか、将来ゴミやしきに住め!」(35P)という言葉があるのですが、ちょっとそれはどうかね・・・と感じました。
実際問題、私が過去に「いきなり!黄金伝説。」みたいなTV番組でゴミ屋敷の処理と住人の痛切な思いを見ているからでしょうか、何かアンナの思いというのが「ゴミ屋敷」という社会問題に対する差別としてかなり機能してるんじゃ・・・という不安がありました。
こういうのって、 Xみたいな所で仮想敵に「お前頭湧いてんのか?」というような暴力性と紙一重でしょ・・・と正直思いました。
※こういう時に体育ばかりがXをメインに敵視されますが、勉強においても同じ事は起きていると思います・・・。特定の科目は・・・徹底的にできなかったので、その痛みは理解しているつもりです・・・。
1月初めのアレやコレやは・・・何とか90%位が終わりました。あとはヒートンとかつけたりキャンバスの端にステープルを打ち付けたり・・・という感じです・・・。
今日は珍しく寄り道せずに帰りました・・・で、行く時の話なんですが、音鉄らしき人が自撮り棒につけた集音マイクをホームのスピーカーに密着させて放送を録音していました。こういう鉄オタ&鉄道ファンのせいで、こっちの肩身が・・・と正直思いました。でも、当たり前かもしれません。これまでのメディアが鉄道ファンを過度に美化していた事が問題であって、だからこそ鉄道ファンが(あの時点で更に)傲慢で非常識な行動を取り始めたのではないかと・・・。第一非鉄の方がちゃんとお金会社に落としてるじゃん・・・。
まぁ、自分が見たのは一部の極端な事例だという事は、理解しているのですが・・・。
前に壊れた椅子を廃品回収に出そうとして・・・その日に出しておくのをすっかり忘れてたんですよ・・・。なので、自室には椅子の骸が・・・。まぁ、近くの家具屋さんでもう代わりは買いましたが・・・。
で、最近ジャンニ・ロダーリ氏の『青矢号:おもちゃの夜行列車』を再読していますが、私はそこで水沢 悦子先生の『ヤコとポコ』の3巻を思い出しました。あの、ポコがヤコにオモチャの電車を買ってもらうエピソードです。
子供の時は、愛情という動機付けで(クリスマスや誕生日などに)タダでオモチャが貰える子供がいます。そこに感謝を見出すのか、それとも当たり前と取るのかという受け止め方次第で、愛情を物で受け取る資格があるかどうか・・・がわかってくると思うのです・・・。
資本主義の社会において、ある程度は金額が信用や何かの価値(賠償金や給与の額)として関わってくることは必然です。ですが、そんな価値観やベファーナによる義務を蹴ってまでフランチェスコをオーナーに選ぼうとしたオモチャたち…やっぱり無償の愛ってどういう事なのか・・・考えさせられてしまいます・・・。
今、キャンバス上に主線を描いています。ちょくちょくホワイトで修正しながら・・・。
で、最近犬のかがやき先生のエッセイ漫画を読んでいます。で・・・「なるほど・・・」と思ったエピソードがありました。かなり強烈で、自分の漫画を見したら3回死んでもらったというアレです・・・。 基本的にそういう路線でも(基本的に)面白いものはあるけど、殆どは個人的なヘイトなので読んでるとどんどん憂鬱になるな・・・とか感じたりします。
まぁ・・・マナーの悪い人を見たり、人間関係のいざこざに晒されると、 そうなる気持ちは自然だとして・・・。
で、キャンバスの話に戻りますが、そのまま画材屋に行くことも可能でしたが、一旦家に帰りました。 ちょっと疲れてたので・・・。
今日、はてな匿名ダイアリーで結構強烈な記事を見ました。まぁ・・・オタク文化と融合した日本のIT界隈が、夢の溢れていた世界から現在、どれだけの地獄絵図になっているか・・・という内容だったのですが、何か身につまされます・・・。
あの記事は腐っても匿名だし、話を捏造している疑惑は十分にあります。それに、正直ITエンジニアの末路を通り魔に集積しすぎだと思いました。ですが・・・オタク系人間のダークサイドをかなり暴き出していると思いました。何か子供向けのメディアに対しても、エロと露悪をはけ口にしてような二次創作やレビューってあるし、こっちだって(ちょっとだけ)同じ罪を犯してるもんなぁ・・・。
で、12月になったらある事が始まります。まとまったら具体的な事をこの公開日記で書くのでお楽しみに・・・。
(文章の一部を少し書き換えました)
以前、ここでちょろっと裏サイト・・・みたいな事を書いたと思います。まぁ・・・あんましダイレクトいうのも・・・とは思っていたんですが、ちょっと腹の底から感じてた事なんで、敢えて書いていきたいと思います。
小学生の時から、青い鳥文庫ってちょくちょく読んできたんですよ。(10年前くらいの話ですが)最近の例でいえば、天空町のクロネとか超絶不運少女シリーズ、ここは京まち、不思議まちシリーズとか好きでしたし・・・。ですが最近、青い鳥文庫の公式サイトを覗いてみて、なんかかなりこっちの不信感がヤバくなっています。色々思う事があってリンクは貼りませんが、「「それは正義が許さない!」掲示板」というサービスが存在します。そのシリーズは読んでいないので恐縮ですが、本作品にあやかり、(主に)匿名でマナーの悪かったり道理が通っていないクラスメイト(とか大人)の悪口を書きこめるようでして・・・(汗)あの・・・こういう(金八先生でもテーマにされてましたね)学校裏サイトみたいなサービスを、反社じゃなくてカタギの企業、しかも児童文庫の公式サイトが提供しているのはどうなんだという疑問が、私には激しく湧きました。
私だって、こんな年でも社会的な責任を守れていない部分が多々ある、情けない現実があります。ですが、子供を対象にした正規のサービスが最悪の場合には間接的な殺人や大きなトラブルになりかねないオンラインの憎悪劇を煽り、あまつさえ無自覚に助長している様は、企業の社会的責任や倫理に照らしあわせてマジでアウトだろ・・・と感じています。その元締めだろう編集者さんや、作者さんはどう考えていたんでしょう・・・。
改めて、「それは正義が許さない!」掲示板を見ると(多分どっかから批判されたんでしょうけど)しばらくお休みという事でしたが、 ページはちゃんと存在してるし、ああいう姿勢から正直、好感は持っていませんでした。まぁ・・・講談社の本ならちょくちょく買ってるんし(汗)やっぱり最近の児童書では『波あとが白く輝いてる』がかなり推せる作品だったりするんですが・・・。
で、話を戻しますがそれでも買いたくは無いな・・・と感じています。やったのなら、閉鎖するにしても説明責任を果たすべきだと思います・・・。だって子供が対象なら猶更かと・・・。
話は変わりますが、集英社みらい文庫のページも見ましたが、ノベライズ版絶叫学級の新刊・・・あれ、いしかわえみ先生の描きおろしイラストが好きで何冊か買ってました。ですが・・・あれはアウトだな・・・と思います。まぁ、黄泉が黄泉男をガラス片みたいなやつで顔面を刺してて、しっかり返り血も描かれとる・・・みたいな感じなんですね・・・。なんか出版不況かどうかはわかりませんが、何か一部の児童書レーベルのタガが、子供をATMにする為に外れかけてる・・・そんな気持ちがうっすら浮かんでいます・・・。
最近、ビブリオバトルに対する批判的なポストをXで見ました。で、なんかそれがゲーム的勝ち負けを伴う言語化や、大会結果が推薦入試にまで繋がり、パフォーマンスが目的化する流れはちゃんと批判せいという趣旨だったんですが、私としては「そんなに問題か?」と正直思いました。確かに楽しみや趣向に勝敗の概念が不必要に持ち込まれる風潮には、批判が必要です。「バトらない」というのも賢明な選択です。ですが、ビブリオバトルに参加していない身からすれば、山本 弘氏の『BISビブリオバトル』シリーズを読んで、「結構こういうのって楽しそうだなー」と思った事も確かです。私だって(かなり嫌な例えですが)日曜画家ならまだしも、ある程度仕事としてやってるので売上とか賞歴みたいな競争に組みこまれざるを得ないし、だったら辞めろという話でして・・・。
それに、私の持っている本に、『小さなことにくよくよするな!3』で著者のリチャード・カールソン氏はこう書いています。「人生に競争はつきものだ。そんなことはないフリをしたり、競争を避けようとあらゆる努力をしてもむだなこと。」(198P)と。そう、私達はある程度競わされ、誰かに値踏みをされる事で生きなければならない現実があるわけです。業績は社内で何位か、賞はどれくらいとってるのか、売り上げは何万部か・・・。だからこそ、子供の時からある程度何か(部活とかテストとか)で競わされる事は、必要悪だと思っています。それこそ「バトらない」ことが目的化すれば、(これは都市伝説ですが)みんなで手を繋いでゴールするリレーみたいになりませんか?それと、競争を否定する社会がどんな不自由で残酷なものか、かつてのソ連や東ドイツを見ればわかると思います。
問題なのは、競争に対しての私達の目線やシステムで、競争自体を否定しても結局はどこかで新しい競争が生まれるだけでしょう。
だからこそ、競争とはほどほどの関係を保ちつつ、カールソン氏の書いている通りにベストを尽くして心から競う、負けてもハッピーでいる事ではないでしょうか?
そうじゃないと、全てのコンテンツは衰退すると思うんですが・・・。10年前に公募で掠った事しかない人間の、戯言ですけどね・・・。
まさか・・・あの人が首相とは・・・。まぁ・・・同じ日本国民として絶句しています・・・。まぁ、「あんな人や政党は選ばれないでしょ」みたいな甘い安心感は、正直ありましたが・・・。
ですが、ネット左派の(そうした仮想敵に対する)罵詈雑言だってどうね?と思うし、しばらくはアレ関係からは離れて、どっちも冷徹に表現していきたい・・・そんな思いがあります。
どっちもしんどいね・・・今から首相として仕事をするような人も自民党も、そして人格攻撃を交えたネット民の政治的意見表明も・・・もうしゃべり場化してるんですよ・・・ 社会そのものが・・・。移民とか日本人ファーストとか、新総裁とかの「お題」がどっかから出て、それに対してネット民が党派性で社会派ぶった暴言を虚空に投げ合っているという・・・ね・・・。
ここで、ちょっと『電脳戦機バーチャロン』シリーズの凄さを語りたい・・・と思います。
何が凄いのかといえば、バーチャロイドの顔・・・なんですよね。バイザー状のパーツで覆われた眼部を中心とした顔はほとんど同じデザインなのに、それぞれのタイプに個性を感じられるというか・・・一歩間違えばコンパチの誹りを受けかねない状況で、見事に別機種である事をこちらに納得させるようなデザインは、流石といわざるを得ません。正直にいえば、ACVシリーズはそれをやろうとして、ある程度は失敗していると思います・・・。オンライン偏重とかも併せて・・・。
因みに・・・私が好きなのは、やっぱりベルグドルとかVOX系です・・・。自分の絵を見たら、やっぱり地に出とるなぁ・・・(汗)
最近、Xで「刑務所に入りたいのなら、紙幣をコピーして自首すれば、包丁で人を刺すよりもラクに捕まるよ?」みたいなポストを見ました。まぁ、ああいう事件は(池田小学校とか秋葉原のそれらみたいに)本人が※犠牲者を発生させてチヤホヤされる事を欲しているので元からそんな考えは・・・と思います。要するに通貨偽造より、殺人の方がかなりセンセーショナルに報道されるので「殺人=普通の人ができない事をやって、社会に影響を与えられる存在」という勘違いが与えられるというか・・・。
で、今日は雨が降っています。靴が濡れたのでホンマ・・・と思います。靴を洗わなければ・・・。
※決まって、子供とか通りすがりの通行人とかですよね・・・狙われるのが・・・。
今日、ちゃんと登録はしていたはずなのに・・・アレができてなかったと・・・。
おかしいですね・・・。
まぁ、ちょっと某所に行って確かめてきます・・・今から・・・。それと・・・あれも忘れ取った事に気がつきました・・・。バイトと絵の事を言い訳にして、すっかり大事な事を放置しとったツケが回っとる・・・!!
これじゃ人の事なんてとやかくはいえません・・・(泣)
はい、再起します(汗)
そういえば、来年くらいからまた出展しようかと思います。話がまとまり次第、ここで告知します・・・。
今日は画材屋に行って、絵具をちょっと買ってきました。
もう10月なので、気温が落ち着いてきたように見えます。やっぱり好きな季節は冬ですよ・・・。汗で服が汚れる事が無いので・・・。
ちょっと前の話ですが、アートコンプレックスセンター様にて開催(企画:大槻香奈氏)されていた「おひめさま展」にお邪魔いたしました。下に、その様子をアップいたします。
「おひめさま展」という事で、私の「おひめさま」的なものに対する考え・・・を書いていきたいです。
最近、ディズニープリンセスだけに限らず、数々の「王女様」とか「女王様」みたいなジャンルが商業主義的な部分で幅を利かせていると思います。ですが、それは女児にどれだけ買わせるかというだけの派手さばかりが強調される中、「おひめさま展」では寧ろそうした風潮にNOを突きつけ、表層的な利益の理論に流されないファンタジーの世界への、信念の強さが感じられました。
先程、ディズニープリンセスと書きましたが、ディズニーやピクサーの作品は大好きです。 ですが、今日の風潮を見るにあたり「プリンセス」という概念がただ対象をATMとしてみるような概念が拡大し、「おひめさま展」のようにちゃんと「夢見る力」を醸成する力学とは反対の方向へとズレていっていないか・・・そうした懸念もあります・・・。
最近、「アウティング」という言葉を知ってから、何となくうさくん先生の漫画『マコちゃん絵日記』という漫画の10巻に収録されたあのシーンを思い出しました・・・。
交際関係をバラされそうになってキレるエピソードですよ・・・。『多美ちゃん愛の主張の巻』っていうんですけどね・・・。
で、最近保坂 和志氏の『書きあぐねている人のための小説入門』という本をまた読んでいますが、 回想形式ではなく時系列で書けみたいな話がありましたが、じゃあ、『わたしを離さないで』とか『グリーン・マイル』、『ハローサマー・グッドバイ』なんかはどうなんでしょうね・・・?と思いました。私の今描いている小説も、(かなり身の程を弁えない話になっていますが)『わたしを離さないで』に影響されて回想形式なので・・・NGかな・・・?と思ったりしています・・・。もう7万字というノルマはある程度達成していますが・・・。
これから結末とその肉付けを書いて、遂行して時間があればキンコーズあたりに・・・という感じです・・・。
中央図書館が・・・ついにエールエールA館への移転を始めましたね・・・。
個人的にはそれには賛成です。今まで中央図書館を利用していて思ったんですが、段差が無駄に多いし、アクセスも半端な所にあって歩かされるし、そして何より・・・もうこれは止めときましょうか・・・。いい始めると必要以上に怒りと悪意がコントロールできなくなるから・・・。
そういえば、木村 いこ先生の『午前4時の白パン』を読みました。特にソース天ぷらとだし巻き卵のエピソードが良かったです。一番美味しそうだから・・・という理由じゃなく、セクハラ酔っ払い親父とか、斎場で死人の悪口をいう親族とか、そういうロクデナシに会った時の主人公の対応が・・・という意味です。
やっぱり言葉だけじゃなく、行為で示す事も必要な時があると思うんで・・・。
最近、あることでかみ合わないことが非常にストレスになっています・・・。
で、話は変わりますが、今日ちょっと電車を描いとって両開きドアにしなければならないのが、片開きになっていたので、すぐに描き直しました・・・。こういうのって、小説が関わってくると非常に難しくなるので・・・。
最近『アフェイリア国とメイドと最高のウソ』を読んだのですが、本当にイチから架空の国を創り上げるのって、本当にハードな作業だと思います。こっちもやってるから骨が折れる・・・で・・・一応、『世界の地下鉄』とか『世界の路面電車』みたいな本を読んでから主人公の生活圏内を描いているというか・・・。で、なぜそれらなのかというと、公共交通機関も重要なお国柄や、地域性の一部だったりすると思うからです。だから、ガイドブックで名所を知るだけでは、世界は作れない・・・そんな認識があります。
ていうか、商業出版してねーのにいえるんか・・・そんな偉そうな事・・・?
そういえば、商業出版と書きましたが、AI絵本についても同様の事を思いました。
なんかAIでプロンプト入力すれば楽勝!みたいな記事をnoteでいくつか見ましたが、どうして絵本が描きたいのに、プロの技法書や作品を読んで勉強しようとはしないのか・・・こういう状況を放置しておけば、いずれ時間が無くても楽に稼げる手段だという事で、情報商材屋やセミナー屋に児童書業界が本格的に汚される日が来るのではないか・・・そんな不安があります・・・。
何か生成AIの使い方を推奨するような児童書をネットでチラチラ見かけましたが、あれ・・・子供が使うような代物じゃないと思いますよ・・・最も、ネットなんてベーシックな倫理観が醸成できていない子供が触れるものでは無いと私は思いますし、AI界隈なんて検索エンジン以上の自由度を、経営者とその取り巻きがキラキラした理念ばかりで語り、誰も責任を取っていないのが現実だと思います。まぁ・・・宿題関係でGoogleが闇落ち(例えば、これです)したような話がある中、子供にあんなものを使わせようなんて・・・狂ってるとしかいいようが無いです・・・。
何かAIとかネットとかがあるから、子供に教えればいいのではなく、どう守り、どう対処していくのか・・・そんな考えも必要ではないのでしょうか・・・?
昨日の文章で、寮 美千子氏の『あふれでたのはやさしさだった』を読んだので、その詳しいレビューを書きたいといっていましたが、約束通りやりますね。
まぁ・・・何か正直に書くと・・・ 私は小学生時代に母の所有していた土師 守氏の『淳』を読んだ影響から、(寮氏が主張していたように)少年犯罪者が社会の犠牲者だからこそ犯行に及んだ弱者、みたいな書き方には乗れないし、もっというなら、ここでは書けないようなドス黒い感情を何度か刺激されました。藤井 誠二氏的な感じの・・・。ていうか、『空が青いから白を選んだのです」も新潮文庫だったしなぁ・・・。
で、本書で書かれていた涵養プログラムで行われた、「愛情」や「癒し」等は、被害者や被害者遺族がまず最初に必要とするものだろうという思いが、何度も本書を読んでいる時に頭をよぎりました。(寮氏に限らず、人権派とされる人々が厳罰派に対して主張する)「根っからの悪人なんていない」という性善説が、なぜ人を殺してはいけないのか、悪い事をしたらどうなるのかという倫理観の重要さを、どっか矮小化しているような感じがして・・・。
ですが、やっぱり非行少年や少年犯罪者に対する寮氏の態度は本物だと思うのです。こうした活動では、しばしばネットでチヤホヤされる事を考えている、身勝手な支援者がいます。彼らは自分がバズを稼ぐため、支援の対象が反撃しにくいのをいい事に、愛情や活動の名を借りた暴言や差別意識を露にした発言を繰り返し、同じく薄っぺらな人権意識高そうな人達がせっせとシェアに勤しむのを、何度か私は見ています。
ですが本書を読んでいて、そういういい加減で不快な描写が一切なく、寧ろ彼らの為に対等に接するという覚悟のある言葉に、嫌でも私は引きこまれていきました。
『ステイホーム』という児童書では、「悪い子を家に入れるな」という主人公の言葉から、こうした存在を突っぱねる事をよしとしていましたが、公助ばかりに丸投げして知らんぷりするのではなく、ある程度は自分事として考えなければ、私が憎んでいたものも存在し続けるのかもしれません・・・。
最近、気になっていた本を読みました。
寮 美千子氏の『あふれでたのはやさしさだった』です。
同じく同氏が編集した『空が青いから白をえらんだのです』も読んだ経験も併せ、後日レビューを書きたいと思います。
今日は・・・まぁちょっと、ゲートパークプラザで開催されていたオクトーバーフェスに寄りました。シュニッツェルとソーセージがやっぱり美味しかったです。あっという間だったな・・・・オクトーバーフェス・・・。
最近、ちょろっとXで通信制高校の事を覗いて・・・やっぱりXでバズるような高等教育関係の話題にロクなものはないな・・・と思いました。生存バイアスに基づく声のデカい私見ばかりで、反撃できない相手に戦争を仕掛けた自慢大会になっとるというか・・・。
で、通信制高校にお気持ちを表明しとったのが某フリースクール経営者・・・なんですが・・・。これはどの支援者にもいえる闇・・・みたいなものなんですが、まともな教育者なら自分の経歴はともかく、その生徒を晒す・・・なんて事があるんでしょうか?それと、他の教育機関をデカい声で罵倒するなんて・・・通信制高校の事はあまり知りませんが、やっぱりそれって非常識でないのか・・・?と思うんですね・・・。
何か地道な活動で評価を徐々に得るのではなく、ネットでバズる事を最優先に動いている支援者が、(かなり酷い例えですが)ブランド家畜を育てて送り出すような物言いをしているケースを、ネット上でかなり見ます。だからこそ、そういう学校を選ぶときには要注意・・・ということなんでしょうね・・・。
で、あのフリースクールの経営者の不登校発言と支持者たちの発言を見るにあたり・・・こういう面では、木地 雅映子氏の『オルタ』とか『ステイホーム』で主人公が感じていた怒りや苦痛の一部は30%位は正しいと思うんですよ。特に『オルタ』では問題児にいじめ紛いの事をされているのに、担任教師が「世の中勉強だけじゃない、他者とぶつかりう事も教育の一環だ」という事をいわれたら、そりゃ・・・と思うわけで・・・。
いま買いたい漫画があるのですが・・・その為には販売サイトにログインして、ちょっとコンビニで金を下ろして手続きを・・・という話になるので、ちょっとやりとうないんじゃ・・・。で、記念すべきことに小説が5万文字を突破・・・仮定ノルマで7万文字くらいを目指してるので、戦闘シーンを勉強してからそれもあわせ・・・といった感じですかね・・・。
そういえば・・・今辞めるつもりは無いですが、Blueskyも結構利用者が増えるにつれて、キツいポストが目立つようになったな・・・と・・・結局Blueskyも、(押切 蓮介先生の短編漫画ですが)『真剣10代しゃべらね場』化していくのでしょうね・・・。
久々に、ロボットの絵を描きました。下にアップします。
それと・・・このロボットは、一時NASAが研究していたロボット、「EVAレトリーバー」というロボットに影響を受けています。だからこそ、下の方のロボットは目を発行させてなかったというか・・・何か「出雲重機」っぽさも出したかったし・・・。参考としてこちらをどうぞ・・・。
で・・・何かロボットの名前は単に「スイーパー」っていう名前にしようかと思っています。これはXboxのロボゲー「叢」のラスボスが「ジオ・スイーパー」という名前だったので、そのオマージュ・・・という感じです・・・。
もう9月半ばなのに・・・まだセミが鳴いているとは・・・ちょっとヤバいかもしれんな・・・。で、そろそろiPad側の絵が溜まって来たんで、そっちをアップしたいと考えています・・・。それと、もう来年に出展が決まってるんですけど、作品がね・・・(泣)早くやらないと・・・。
昨日、マイクロソフトとかGoogleが何とか・・・みたいな話をしていましたが、約束通り今日本題に入りたいです。
何か、最近はAIブームなせいか、様々なIT系企業が自社のブラウザにAI検索機能をつけたりしていますよね。Googleでは、一部の検索だとAIによる概要が勝手に表示されるし、ニュース機能や急上昇ワードなど、「頼んでねえよ」的な機能を否応なしに見せられるようになりました。しかも、非ログインで他のブラウザから入ったら、デフォルトにしろというメッセージを必ず出してくるGoogleも大概だと感じてます。
それと、PCを使っていたらこないだは画面を覆うポップアップまで行使しながら、Winsows10のサポートが終了するからWindow11にしろという告知がきました。正直腹立つな・・・こういうの・・・。しかもアップデートしようとすれば、スペックがそうじゃないからできないといわれたし・・・。
Xにおいても、イーロン・マスク氏が買収する前のアップデートすら場当たり的で酷いものがありました。 トレンドにニュース機能と、ヘイトやいじめ、炎上等の温床は既に構築されていました。
有名なITサービスのどれもこれもが、ちょっとやそっとの事ではユーザーは減らないからという慢心でしょうが、多くのユーザーに改悪への怒りを買っているにもかかわらず、新サービスを使う権利への考慮ではなく、まずは強制的に使わせる事を推進しているように思えます。EdgeとかCopilotにおけるやり方もそうでしょう。どんなに良質なコンテンツでも使わせる事ばかりに貪欲で、他サービスの利用の妨害すらやってるものにロクなものはないと思います。初期設定やChromeをDLした際に、OSから何をされたのか思い出してください・・・。
それでも、ユーザー達は数多の改悪に舌打ちをしながらも、渋々それらを受け入れているのが現状で、さっきも書いたように「ちょっとやそっとの事じゃ」破綻はしないわけです。だからといって、ユーザー目線を無視した独り善がりの改悪を続けていれば、どこかでツケは払わされるのではないか・・・そんな思いがあります・・・。
最近、マイクロソフトとかグーグル関係に抱いていた・・・モヤモヤを上手く言語化できそうな感じがせんでもないので、明日くらいに書きますね。今日はもうアレコレあったので・・・。
それとですね・・・好きな画家さんの一人ですが、奈良 美智氏がXにおいてロンドンでバンクシー氏の絵が消されようとしている事を、広島の原爆投下で影が焼き付いた事になぞらえてポストしているのを見て、少し不適切なのでは?と感じました。あんましリンクは貼りたくないんですが・・・。
(ちょっと下の文章書き換えました)
ヨソから見ればセンシティブな事はそうなんでしょうが・・・政権批判や右派批判の都合のいいツールとして、現地住民やその被害の記憶を猿回しの猿として使う事例は数多く見かけますが、かなり根深い問題といえます・・・。
猿回しの猿という事で、高尾山で飼育されているニホンザルの写真をアップしました。これも自身の主張の為に他者の場(と動物)を利用しているので、私もギルティです(汗)今日は早めに更新しておきます。
いま・・・デジタルで構想をしてるんだけど・・・色々と・・・まとまらんのがつらいです・・・。
そういや、今日母と電話している時に、車を買い替えたといわれました。ああそうね・・・今まで○○の信者だったのに、××になったのね・・・。同じ軽自動車ながら・・・。広島だからといって皆が皆、マツダの信者ではないという事を、子供の時から痛感しています・・・。
昨日は長い雷雨の上に、ずっと警報が携帯(ガラケーなんです)で鳴り続けていたせいで、余り寝れませんでした。しかも、JRが大雨のせいで止まっていたので、泣く泣くタクシーを・・・約4000円かかりました・・・。
で、今日はとある漫画を読みました。それについては後日・・・という感じです。
もう眠気がすごいんで・・・。
そういえば、小学生の頃に手塚 治虫先生の伝記を読んでいた事がありました。で、実家で叔父が学制時代から持っていた『ブラックジャック』や『どろろ』それから『ロップくん』などを何度か読んでいました。で・・・。何か伝記で悪書追放運動が取り上げられていて、手塚先生の漫画がバッシングを受けたり、燃やされたりしていて児童書か漫画かという論争がありました。どっちが上・・・みたいな・・・。
で、最近私はこれを思い出したんですよ。前の文章ですが・・・。 何ていうのか・・・神宮 輝夫氏の『現代日本の児童文学』という本なんですが、ソースはネットで恐縮だし、手塚先生もそれを守れていない部分は多々あるとは思いますが、自著『手塚治虫のマンガの描き方』で「基本的人権だけは、断じて茶化してはならない」とした上で、「一、戦争や災害の犠牲者をからかうようなこと。一、特定の職業を見下すようなこと。一、民族や、国民、そして大衆をばかにするようなこと。」と書かれていますが、神宮氏はリンク先の文章にあるように、鉱夫という職業(肉体労働者)を無理解で見下し、職業差別や格差、世の中に存在する不公平等を是認するような事を平然といい放っているわけです。
児童文学に携わる人間がこんな考え方なら、当時の子供達が面白さだけではなく、その本性を見抜かれて自然と漫画になびいていったのは当然の結果ではないのか・・・ふとそんな考えが頭をよぎりました・・・。
最近、もう誰かはいいませんが、婚活したいというのをXで見ました。
あの・・・ハナからそういう考えで結婚して、家を支えるというのを口実にするなんてちょっと「お前、人生舐めとるんか?」という考えが頭をよぎりました。いや・・・そういうスペックで配偶者と結ばれたいとか夢見るような事をいってると、やっぱり扶養目的なのかと疑ってしまって・・・。昔はお見合いといってましたけど、婚活という言葉にイラっときてるのもあるな・・・。別に私は専業主婦も兼業主婦も否定はしてませんが、玉の輿みたいな話を今の社会状況でいうこと自体、かなりモヤモヤするんですよ・・・。
もうこの話は話せばキリがないので一旦止めます。で、話題を変えますね。
なんかiPadで構想を練ってますが、中々答えにたどり着くことができません。やっぱり塗りつぶしツールのせいなのか・・・?でも楽だよなぁと思います。キャンバス画と違い、色彩も一定してるし・・・。
それと・・・なんかまた地元でアレやコレやしたいと思います。 経済状況次第ですが・・・。
電車に乗っていたら雨が激しく振り始めて、そしてあっという間にあがって晴れるという・・・どんな天気でしょうか・・・。
そういえば、生成AIを使って特攻隊員の動画を捏造している、みたいなニュースをネットで見てから、真っ先にこれを思い出しました。 過去の記事ですが・・・。やっぱり、こういう関係の話はそろそろマイルドな言葉(「やめてほしい」みたいな)ではなく、能登半島地震における怒声に近い避難勧告アナウンスの感覚でいさめる段階に来ていると思います・・・。
今日は急いでたのと、財力に余裕があったのとで、ちょっとタクシーを使いました。
で・・・目的地に着いた時に、料金が3230円だったのに運転手さんが「3000円でいい」といってくれまして・・・。運転手さんのいう通りにしましたが、なんか良心が疼きました・・・。
で、最近カズオ・イシグロ氏の小説を読んでいます。『わたしを離さないで』っていう作品なんですけど・・・映画版も観ました・・・。キレたトミーが車から降りて絶叫するシーンが印象に残ってますね・・・。
今、新作に「そろそろ取り掛かろうか・・・」と思います。
そういやりぼんを読んだ所、『えんじぇるめいと』が結構ヤバめな展開になってきましたね・・・のわのアレは人為的なものだったのか・・・。それと『絶叫学級 転生』ですけど、不登校児の描写が結構なんだかなーと思いました・・・。
ステロタイプって作品作りに悩んだときは絶好のツールになるわけですが、当事者の事を考えたらどーなんね?と思うんですよ・・・。 不登校だって、巷のメディアではしばしば怠惰でゲームばかりしてるみたいな描写がありますが、現実に不登校に向き合っている当事者者や関係者の気持ちを、木っ端みじんに叩き潰している事に気づいた方がいいと思います・・・。
なんかちょっと体の調子が、しんどいなと思うこの頃です。まぁちょっと食べて寝りゃ治るか・・・。
そういえば、今日は電車の中で寝ていましたが、目的の駅で何とか降りる事ができました。良かったです(笑)
最近、広島市現代美術館にて開催中の展覧会「記憶と物」にお邪魔しました。
特に戦禍のアーカイブという事で、それらしい作品がかなりありました。特に戦争被害のアーカイブだけではなく、加害からもアーカイブする試みがあったのが良かったと思いました。
下に、その様子をアップいたします。
特に私が興味を持ったのは、小森はるか氏と瀬尾夏美氏の作品です。一番がそれ目的でやってきたのですが・・・。何か、11歳の時に何があったかとか、その際何を感じたか・・・みたいなアンケートがあって、結構正直に答えました。11歳・・・そうですね、インパクトに残っているのはアレとかアレだよなぁ・・・と思って書きました。で、みんなの回答がファイルに収まっていたので見てみて・・・人生で一番怒ったのがソレかい!みたいな感じでかなり笑ってしまいました。大したことないじゃん・・・とも・・・。
そして、今日の話に移りますが・・・無駄足という経験をしました・・・こんな暑い中を南区まで・・・まぁ、これもあと1ヶ月くらいの辛抱じゃ・・・。
また・・・更新を忘れてました・・・。まぁ、別に責任なんか伴わん些細な話だから、どうでもいいか・・・。
で・・・何か塗りつぶしツールに手を出してるんですね・・・デジタル作画で・・・。今まではチマチマ塗り絵みたいにペンで縫ってたんですが・・・スポイト機能の関係で・・・あれ筆塗りでスポイトするとどうしてもムラが生じちゃうんです。だから・・・という感じですかね・・・。で、影は手塗りで・・・やってます・・・。
便利だからこそ、何かダレんようにしていきたいな・・・と感じています・・・。
最近、岩波ジュニアスタートブックやちくまQブックスなど、ミニサイズの入門書が次々刊行されていますが、後者のレーベルから発行されている『あなただけの物語のために』を読みました。著者は『NO.6』や『バッテリー』等を書かれているあさのあつこ氏という事で、児童書繋がりでちょっと興味が湧いて読んでみました。そこで一番印象に残ったのが「紛い物の物語」(100P)という言葉でしょうか。
石田 衣良氏も短編集『約束』の中で同じような事を書いていたと思いますが、「耳障りがよくて、美しくて、あなたの全てをわかると言い、あなたはこうするべきだと諭す。そして、絶望して当然だと囁く。あなたの絶望を知りもしないし、知ろうともしないくせに、偽物の共感だけを垂れ流してくる。」(100~101P)という書中の言葉は、最近社会派といわれるフィクション(特に漫画とか小説とか)でも、ただこれ見よがしに実態を振りかざし、作者が社会的弱者をダシにして露悪に酔っているだけの作品が散見される中、一定の正当性があるなと思いました。
こうした「絶望」には他人事としての格差や貧困、そして虐待や震災等が入りやすい(と感じる)ですが、やっぱり自分を「他者の語る絶望」からコントロールする事も必要だし、それは逃げだと責められがちですが、安直な逃避や甘さではないという事を認識しています・・・。
ここでAI絵本について書きましたが、やっぱり冒涜的でもないような気もします。あれは感情的になり過ぎた・・・まぁ、ちょろっと見てもAI絵本ってああいう感じだったし、金儲けの為にクオリティやその責任より、他者や社会をATMとしてどう独占するかみたいなやり口は、子供でも見破るでしょう。やっぱり勝つのは、商業的責任と品格の上に成り立っているビジネスだと思うのですよ・・・。同じく収益を目的とすればの話ですが・・・。
これって憶測ですが、noteを見た限りでも本当に絵本や児童書をリスペクトしており(または愛しており)、好きだからこそ職業としてコミットしたいと思ってる人って、かなり少ないと思います。ただ絵を数枚生成して文章が短くて楽そうだし、そういう所で大金が稼げてワナビになれるという事しか考えておらず、結果として何でもAIの出した答えに頼り、(かなり人をバカにした話になりますが)創作の勉強を1つもしていない感じでしょう。先人への敬意もなさそうだし。だからこそ、そんな機能を提供しているプラットフォームや彼らの創作意欲をビジネスとして扇動する企業の存在も、ギルティだなぁ・・・と・・・。
まぁ、私も絵を描いている時に色々「不勉強だなぁ」と思う事はあるし、無知を晒してしまった事はありました。今だって現代アートのトレンドに乗れず、独り善がりのテーマをチマチマいじっているに過ぎませんし・・・。
それに、美術史については正直疎い所もあるので、おなじ脆さはあるんですが(汗)
昨日の記事で、お母さんの絵本とか子供の漫画制作についてアレコレ書いたと思いますが、何か最近、それをAIに全部やらせて、マネタイズに繋げて儲けましょう!みたいな感じの記事をいくつかnoteの記事で見ました。そうですか・・・続きは金を払えと・・・。典型的じゃん・・・。
・・・はっきりいって、冒涜的ですよ・・・これは・・・。私だって、自作小説のアドバイスをAIに聞いたりとかするから同じ穴のムジナだという事は承知の上で書きます。ですが、イラスト系情報商材みたいな理論を、より慎重な倫理観と責任感が必要とされる、子供相手の商売で露骨に流そうとするのって、果たしてどうなのかと感じています・・・。 AIイラスト自体が問題じゃないんですよ・・・私も好きなのあるし・・・ですがね・・・子供の前でそんな商法をやるなんて事が、冒涜的だといいたいんですよ・・・。
自分だって絵はまだまだ下手糞ですが、元からできる人がAIを活用するのはともかく、できない人が努力を回避してワナビになりたがったり、この記事で書いたように無責任な金儲けとして絵本をダシにするような事が続いていれば、それはしっぺ返しとしていつかは当事者達に降りかかってくると思います。まぁ、自分はAIにあんまり手を出してないけどそういう部分があるから他人事じゃない(汗)
何かね・・・『なんでも魔女商会』シリーズのコピー魔法の話を思い出すよねぇ・・・。
昨日の文章で、女の子がどーたら・・・みたいな話をしてたと思うので、それについて書いてみたいと思います。
なんか電車の中で、少女漫画の付録らしきノートに小学生くらいの女の子が、真剣な表情で何やらラフみたいなものを一心に描いていました。で、なんか・・・『マコちゃん絵日記』という漫画に出てくる剛田 知根という少女が出てくるのですが、彼女と同じようにもしかすれば漫画家志望で、せっせとコンペに投稿しているんじゃないかと想像しました。
で、翻って・・・なんかこれって全然関係ないかもしれませんが、自分の中で対照的に結びついていたので、書いておきたいです。図書館で何か、お母さんの手作り絵本ガイドみたいな本を見かけました。で・・・寺村 輝夫氏が自著で、お母さんが自分の子供に向けて作るような童話をケチョンケチョンに貶しよったな・・・という事を思い出しました。この文章の最初で漫画家志望(じゃないか)という子供を見たと書きましたが、やっぱり向きあい方が違うのです。
お母さんが子供に対して作る童話や絵本の場合、どうしてもわが子が対象(商業的責任も伴わない)という事で必要以上の妥協や独り善がりの愛情表現が先走り、結果として子供を見くびるものができ上るし、そういう事を推奨する人も一定の数で存在します。 だからといって冷厳で残酷なものを作れというわけじゃないですが、血縁関係だからある程度許されるという甘えに基づく創作もどうなのかと感じています。翻って、知根のような漫画家志望の子供達はどうでしょうか?評論する相手は親じゃなくて、子供だからといって配慮せずに対等に扱う容赦のない大人なので、自然と責任感が生まれますし、その分本気になっていますよね?子供がああなんだから、もう少しシャキッとしんさい!と、正直思いました・・・。
そういえば、今日は夕立がすごかったです。雷も鳴ってたし・・・ミナモアに避難してました・・・。
この度、倉敷にあるギャラリーKAG様で行われている企画展、「ドゥ・ゼイ・オウ・アス・ア・リヴィング?」(企画・開催:川上 幸之介氏)にお邪魔いたしました。下にその様子をアップいたします。
こうした、「生きる権利」という言葉が作品の中に巡っている展覧会を見て、拙い私見ながら、ちょっと感じた事を書いていきたいと思います。
本展で指摘されていた、権力や社会自体がなす抑圧以外にも、ネットにおいて人権や福祉などに対して恣意的な科学的正しさを持ち出し、弱者を選別してその死体蹴りに酔うような言説をチラホラと見かけます。そして、本展が主張する人間が「生きる権利」自体にまでインセンティブや排他的なトリアージ的選択を迫るような話がある中で、アートは更にどれだけ対峙できるか・・・みたいな思いが頭をよぎりました。もともと、そういう人達はこちらの真面目な怒りや問題提起を「サヨクのヒステリー」として冷笑しながら仲間と一緒に片すのが普通ですが、やっぱりヤバさはヤバさとして、地道に続けていかなければ・・・と感じます。
それと・・・これはちょっと気になったことですが、オレグ・クリーク氏のパフォーマンス映像なんですが、(モザイクありだとしも)男性器が視認できるような状況なら、年齢制限は必要なのでは・・・と正直思いました。やっぱり、いくら反権力でも子供でも見れるとしたらそれは虐待であり、少し問題であると感じました・・・。
ここで、『波あとが白く輝いている』という児童書の感想を書いたと思いますが・・・まだ、書き足りない所があったので、ここで書こうかと思います。また読んでるのでね・・・。
本作品は、読めばわかると思いますが、結構震災遺児の七海をメインとして、コロナに祖父のガン等、色々な問題が詰め込まれています。ですが、それが『ハッピーバースデー:命輝く瞬間』のように、海光祭の復活という一つのテーマにしっかりと収束されているので、出しっぱなしで終わらない強さがありました。
そういう所で、コロナに震災というといくらでも悲惨に出来そうなテーマを、きっちりブレーキをかけて運転させている所が本作の最大のいい所だとおもうんです。抑速ブレーキを使った安全運転といえばいいのかな?七海が震災遺児ながら当時1歳で母親の記憶が無いというのも、かなり新しい設定ですし。
実際、家族の遺体(性質上、詳しい描写はない)とか直接的な被災の描写、悲痛なサバイバーズギルドの表現は出てくるといえば出てきますが、それを(よくある「震災もの」みたいに)辛さに共感できる強さでこっちが知らないことを責めるように殴るようなものではなく、寧ろそういうキャパがない(うさくん先生がよく主張されている「こち繊」みたいな感じ)人への配慮も行き届いている点に、作者の優しさを感じました。被災者でもないのにこんなことを書くのは気が引けますし(ついでに資格もないのも承知です)、上の方で辛さに共感できる強さで殴ると書きましたが、どうもそういう所から、震災やコロナ関係のドキュメンタリー番組や書籍は、作り手の怒りや使命感が先行し過ぎて、どうやったら受け手に対象が感じた現実を心理的負担として背負わせることができるかというゼロサムゲームになりがちだと感じています。
例えるなら、※原爆投下においても、みんながみんなそういう耐性(つまり、『はだしのゲン』の残酷描写や平和記念資料館の展示など)があるわけではなく、苦手な人の感性に合わせた配慮に基づく表現はあるべきだし、苛烈な現実に対する優しさは甘さや逃避ではないといえます。
それと、『波あとが白く輝いている』のストーリーは多くのコロナ系の話で語られていたような、典型的な「部活や行事が中止になったから、それを立て直すいい子」を描いたものです。ですが、そこにも押しつけがましさはなく、現実への剔抉という形で、震災を知らない子供達を罪や義務を背負わせるような書き方じゃないのが良かったです。
※水沢 悦子先生の『ヤコとポコ』における大家さんの少数派の話ではないですが、実際に中学生の時に、コーラス大会で「消えた八月」を歌わされることになり、その下準備として原爆関係のドキュメンタリーを教室で観る事になりました。すると遺体の写真が映されてそれにショックを受けた女子が寝れなくなりました。再び、辛さに共感できる強さの話になりますが、こういう概念が寝れないようなショックを受ける事すら評価として回収されることに危機感を持っています。せめて、(『ニングル』の「知ラン権利」ではないですが)ナイーブな人間がキャパの相性にあった知り方をする、もしくは精神的健康を守る権利も事実を剔抉するスタンスと同じくらい大事だと思います。
最近読んだ戦時中の食生活を扱ったグルメ漫画で、日本統治下で近代化が進み、現地住民に今でも感謝されているという加害の矮小化と正当化に近い描写が行われていたのを思い出しながら、戦後の東京の闇市を舞台にした児童書『灰とダイヤモンド』を読みました。
なんか宣伝とかXのレビュー等を見た上で読んだのですが、この小説はただ登場人物を「かわいそうな被害者」として描き、あやふやな「戦争の悲惨さ」として語るような事をしていません。日本をちゃんとアメリカと同じ「戦争加害国」として、その責任追及ともいえる描写が数多くあり、今まで(東京大空襲に代表されるような)無差別爆撃や原爆投下において、中韓を始めとした周辺アジア諸国に対しての蛮行を「免罪符」にしているような作品がある中で、『灰とダイヤモンド』は日本をきちんと戦争加害国として描いた数少ない児童書だと思いました。私の住む広島でも原爆投下後のポスト8・6ばかりが語られがちですが、その前を辿ると、(今は無き国鉄宇品線や大本営の設置を見るにあたり)戦争加害の一翼を担っていた歴史があるわけです。
しかも、その書き方も主人公サイドが(よくある反戦もののように)「無垢な市民を騙した権力者が悪い」という様な逃げも許していないので、著者の戦禍に対する誠実な視線を感じました。
そしてラストに「殺す側」に関与してしまった主人公の決意が描かれていますが、戦争加害者だけではなく、家族が事件を起こしたり、広陵高校のように自分が通う学校が重大な不祥事を起こしたりと、主人公のような環境に晒されてしまう子供達はいるわけです。加害がテーマである故に、過去の話だけではなく、現在の問題にも刃が突きつけられているように思えました。
今日はキャンバスを買いました。F12号のやつです。まぁ・・・交通費の無駄だし・・・そんな時間があるなら絵を描けよって話ですけど・・・夕方になったらまた、バスで北上したいと思います・・・外出しないかも知れないけど・・・。
そういやグラフィックノベル・・・そろそろ絵だけじゃなく、本文もセットでやらな・・・と考えています・・・。
いまどきのアレコレで、「正しさを疑え」っていう言葉があるじゃないですか。
ですが、まだ正しさや規範すら理解できていない子供に、そういう事から教えるのは却って逆効果であると思います。そういう大人は子供を対等に扱うことが、適切な子供扱いより優れていると思っているフシがありますが、悪平等のいい換えだと思います。
ああ、そうそう。正しさでいえば今日、煽り運転の現場を見ました。決定的瞬間ですよ。
ポルシェに無理な割り込みをしようとして、国産車のワゴン(デリカでした)に乗った奴がクラクションを何度も鳴らして・・・なんで国産車のクラクションの大半は、あんな不快な音程なのか・・・そういう奴ほどあんな音を好むという事でしょうかね・・・。個人的には外国の車や一部の高級車ブランド、バスやトラックみたいにちゃんと都市環境に適応した低音にしてくれ!と思うんですよ・・・。最近のマツダも低音でしたよね・・・。車高が高いから無敵だと思ったのか・・・それ故にポルシェが高級車であることを理解できなかったのか・・・。
ハードばかり取り繕い、ソフトにちゃんとコストをかけないからこんなことになるんですよ・・・。 まぁ、私も絵を描く時にケチることあるから、人のこといえんか(汗)
私は『グリーン・マイル』を映画・原作両方見ていますが、やっぱり印象に残っているのはポールやブルータス、ジョン・コーフィ等と併せて、パーシーなんですよね・・・あの性格と共にやった事が強烈な印象として残っているので・・・。ドラクロアの死に方・・・みんな覚えてると思います・・・。だからパーシーがぶん殴られたのは、正直よかったと思います。ああ・・・これも私刑の肯定じゃ・・・情けない・・・。
で・・・現実世界においても、また広陵高校の話になりますがそういう展開ってあると思うんですよね・・・。パーシーは看守という立場で、死刑囚が反論できない立場につけこみ、日頃から囚人への虐めを行ってきました。そして、幼稚な恨みでドラクロアの処刑をあんな風にして・・・。こうした「社会正義」を隠れ蓑にして、自分の日頃から感じているストレスや恨みを犯罪の加害者に使う構造・・・これも「加害」の一種じゃないかと思います。
で・・・何かXのポストを見たんですが、その通りで被害者の親族が本当にそれを望んでるのかってことなんですよ。こうした「虎の威」を借りた身勝手なバッシングなら他にもあります。自身も原発の電気を使っていたという自省(これは私も反省せねば・・・と日々思っています)なく、被災者をダシにして行われていた反原発デモ、同じく、被爆者をダシにして8月6日・8月9日に大挙して押し寄せるデモ団体、敗戦と同時に天皇陛下を「天ちゃん」とか「天公」とか呼び捨てにし始めた人々・・・。
だからこそ、被害者を盾にした炎上やバッシングほど、ロクなものはないな・・・と感じています・・・。
最近、和田 登氏の児童書『キムの十字架』を読みました。『ほろびた国の旅』とか『大久野島からのバトン』と同じく数少ない、戦争加害国としての日本を描いた作品でしたが、(滅茶苦茶な計画による)朝鮮人の強制労働がメインテーマという事で、私はふと、中学生の時に『嫌韓流』という漫画がベストセラーになっていた事を思い出しました。
まぁ・・・で、当時のネットを見ると、その時はTwitterやYoutube等が無かったので、個人ブログや2chで韓国・中国叩きが結構あったな・・・と記憶しています。
そして、高校になってからアメリカの大学で銃乱射事件が起き、犯人が韓国からの移民という事で、事件に便乗して「韓国人だからそうなる」みたいなブログ記事も結構ありました。
何ていうのか・・・一昨年位に(こういう読み方は結構情けないと思いますが)ウェブ上で岡田 索雲先生の『追燈』という漫画をちょろっと読んだのですが、今日では殺人まではいかなくともレイシストはそうする理由をどこからでも紐づけるような存在だし、私達にもそういう悪は燻っていると思うので、気をつけなきゃいけんな・・・と感じています。
最も、私は※9月1日(と3月11日)だけ防災やメディアリテラシーについて真剣に考える事を演出する風潮が、あまり好きではありませんが・・・。
※9月1日は「防災の日」ですが、そこに東京目線をうっすらと感じています・・・。
今日は暑いですね・・・。
まぁ・・・あと3週間くらいの辛抱です・・・。
何か広陵高校関係で思い出したのは、何か石田 衣良氏の『うつくしい子ども』ですね。
あの時犯罪被害者の心情にただ乗り(そういうのはレッドオーシャンでしたし、今でもそうですが)し、加害者と加害者家族を糾弾すれば確実に金になっていたのに、そういう「英雄譚」を退けて敢えてその「英雄譚」を生み出す者、享受する者を辛辣に、痛切に斬った石田氏は本当に勇気がある作家だと思います。自分自身も天邪鬼なんで、こういう時に専門外のタレントとか俳優に(世論の一環という認識で)意見をいわせるメディアもどうかしてると思いますし、敢えて何かバッシングの嵐に一石を投じる意見の方がまともじゃないのか・・・と感じています・・・。これとかこれが一番共感したな・・・今回の騒動では・・・。
ここでも同じこというとったなぁ・・・。記事の使いまわしみたいですが、許してください・・・。
広陵高校のアレ・・・ですけど、もうXとかBlueskyとか、お察しの結末になりそうですね・・・。公的な裁きが待てん、もしくは嫌ならそういう国に引っ越せばいいのに・・・そんな気持ちが頭をよぎりました・・・。
何かロシア人への嫌がらせとか、木村 花氏の自殺、東電やJR西日本への無責任なバッシングなど、私刑感情を満たしたいという意見に対し、ネットが冷淡な評決を下してもいい話になってきてるのでは・・・そう感じています。
ああ・・・そうそう、私は今回の事件を矮小化したり、加害者を擁護する気はさらさらないです。ただ、私刑感情をネットで行使することは問題をさらにややこしくして、治安をさらに下げるだけなので意味はないといいたいだけです・・・。noteを見たけど、あっちの方がXより100倍マシなこというとるよ・・・。
何か週刊新潮のコラムが創氏改名という事で大炎上していましたが、何か私としては「またか・・・」という感じでした。『言論のテロリズムⅡ:「捏造雑誌」週刊新潮を解剖する」という本を高校時代に読んだ身としては、水俣病患者を「ニセ患者」呼ばわりしたり、沖縄で米兵に暴行された少女を嘲笑したりするような記事がその本で糾弾されていたし、松本サリン事件でも冤罪被害者である河野 義行氏の家系図を面白おかしく暴露したりするような雑誌でしたから・・・。
最も、こういうのは週刊新潮だけの異常性や問題ではないと思います。 週刊誌はともかく、PV獲得優先のニュースサイトやバイラルメディア、まとめサイトなどのイエロージャーナリズム全般に通ずる話であり、個人的には社会派ぶった悪意や害意をガス抜き(つまり私刑感情を煽る)として提供しているに過ぎない・・・と思うのです。だからイエロージャーナリズムは等しくイエロージャーナリズムであり、まともな良識を持っているなら信頼などすべきではないと・・・。
ですが、私も時折実話ナックルズやアサヒ芸能、週刊大衆とか買ってるんですがね(笑)矛盾の極みじゃ~(汗)
今日は記念すべき・・・『ふたごチャレンジ!』シリーズの10巻を買って、その感想を・・・というつもりでしたが、Xでまたああいう話系の話が話題になっていたので、そっちの方を優先したいと思います。
私自身、特定の科目(当然理数系)が結構苦手だったので、それを併せて敢えて書きますが、学生時代に勉強はできたけど目立たず、DQNっぽい人達にいじめられた(と主張している)人達が体育会系の問題点を鬼の首でも取ったかのように指摘して、メリトクラシー系のナショナリズムを振りかざすのを見て、色々と腹の底から疑問が湧きあがってきます。
これは、『ファスト教養:10分で答えが欲しい人たち』や『実力も運のうち:能力主義は正義か?』でちょこちょこ指摘されているとは思いますし、(再びリンクを貼りますが)こういう記事もある中で、前述した被害者意識に基づく勉学の神聖視や絶対視で見落としていることはあるんじゃないか・・・?そう思うのです。今もXでちょっと検索すれば、(特に小~中学生くらいのあたりで)勉強ができて教養があるのに正当に評価されなかったという、恨みつらみを含んだポストが今もバズを稼いでいます。ですが、そこには勉強が嫌いなのはともかく、勉強が苦手だったり、LD(学習障害)だったり、受験に失敗したりする子への想像力が無いという点で、彼らが受けてきたという体育会系のいじめと同じじゃん・・・という考えがうっすらと浮かんでいます。ポストによれば、体操ができなかったとか逆上がりができなかったとかで恥をかいたということですが、今まで学力や学歴で相手に恥をかかせるような言動がどれほどネットの大海で行われてきたのか・・・そういう話なんですよ・・・。そこに目を逸らして、何故体育会系ばかりが悪魔化されるのかという・・・。
で、私は決して昔の安いドラマみたいに、エリート=悪、庶民=清らかみたいな幻想を披露したいわけじゃないし、教育による序列(とそれに伴う競争)も必要悪としてある程度は必要だという立場です。ですが、なんかそこら辺の成功者による(林 志弦氏がいう所の)「犠牲者意識ナショナリズム」にはちょっとな・・・と思ってたので・・・。
それと、なぜアスリートや体育会系と呼ばれる人からは、前者のようにネットで「お前はそんなこともできないのか」とか「 できないやつは落ちぶれて当然」みたいな話が余り出てこないのも、不思議な話だよね・・・とも・・・。
まずは・・・この記事を見てください。私もネットでちょくちょく事例を見てるので、記事における60%位の内容は正しいと思います。特に、最後の章はマジでそうだよなと・・・。
アートという冠がついた瞬間、敷居の高い場所でボス猿みたいに振舞う人はごく一部の極端な事例でしょう。まぁ・・・ああいう分野ってあんまし批判者もいないし、いってることが正しい事もあるんで発言者が更に(リンク先のタイトル通りに)暴走するという話は、結構あるかなと・・・。
まぁ・・・私だって会社(正規雇用という意味で)で働いていないのをいい事に、この公開日記で好き放題書いていますし、人にはそんなこというのかという自覚の上で敢えて書きますが、やっぱり同じレベルなら(特に)SNSにおける発信が安定しているギャラリーがいいよな・・・と個人的に感じています。
ここら辺・・・『謝るなら、いつでもおいで』と併せてもっと詳しく論じてみたい気がする・・・。
何か、Xで津波の観測装置を親の仇の如く敷設したので、すぐに警報を出せるようになったという趣旨のポストがバズっていました。一瞬、関係者のポストかと思いましたが違ったので、こういう比喩が独り歩きするのも・・・と正直感じています。被災者でもない自分がいうのも何ですが、こういう時に引用リポストが(テクノ・ナショナリズム寄りの)「感動」とか「誇り」で埋め尽くされるのも、どうなんかな・・・と・・・。何らかの対策みたいなものが、過剰な物語付けをされてバズるような事に、弊害はないのか・・・という疑問がうっすらとあります・・・。
それとこれとは性質が180度違うし、あんな結果をもたらしたイラク戦争を引き合いに持ち出すのはどうなんかね~というのは承知の上ですが、観測装置にまつわるTogetterの熱狂は、まさに同時多発テロが起きた直後のアメリカの様でした。あの刑事事件の処理能力を上回るような事件に晒され、パニック状態に陥っていたアメリカが、徐々にブッシュ大統領への信奉と、戦争(とビンラディンへの復讐感情)への熱狂にシフトしていく様子と、結構一致してるな・・・とか感じたり・・・。付け加えるなら、東日本大震災発生からちょっと経った時に、パキスタンに潜伏していたビンラディンが、アメリカの派遣した特殊部隊により殺されましたが、あの時の熱狂にも似たようなものを感じるというか・・・。
まぁ・・・あんましああいう※熱狂が気に食わんのは、実際エンジニアにに親の仇かどうかも聞いてないのに、人の努力を自分の物語として意味づけをして、(ネットの性質上)独り歩きさせてしまうような所があるからだ・・・と思ってます。
確かに観測装置の設置は称賛すべき話ではありますが、「親の仇」というキャッチ―な言葉に代表されるような過剰な物語化は、逆に観測装置における精度や限界とされるデータ、維持管理はどうなのか?などといった感情を排して向き合わなければいけない問題の本質を漂白し、劣化版プロジェクトXのような美談としての解像度しか対象に与えないという弊害があるんじゃないか・・・そう考えています・・・。今回のカムチャッカ半島の地震の際は上手く行きましたが、次の震災の時は・・・という事を冷静に、厳しく考えていかなければならないのだと思います・・・。
※そうそう、こうした英雄化に基づく、当事者無視の物語化された熱狂は、福島第一原発の作業員達にも向けられていましたっけ・・・。
このままシリーズ化するつもり・・・いや、したいです。こうやって、一つの世界観の基に複数の作品を作って、後から物語を付け足していこうと思ってるのですが・・・あんましできてない・・・いや、全然できてない状況です。プロットは組み上がってるので、後は12ページくらいで書けばいいんですけど・・・ね・・・。
まぁ・・・次回は敷居かなんかについて書いていこうかね・・・再び・・・。
今日も、過去話の蒸し返しになりますが、リンク先の文章にあるように一部のギャラリー経営者が勧誘系ギャラリーはともかく、その出展者まで悪しざまにいうのは何だかなーという趣旨の事を書いたと思います。まぁ・・・あんまし特定はしたくないですけど、勧誘系ギャラリーへの出展歴がある作家まで、自分が主催してるコンペや展覧会に出すなというのは、批判の度を越した排斥主義だし、結局カタギのアートビジネスも含め、みんなが不幸になるだけじゃないのか・・・?とひっそり感じています。
例えるなら、「あの人は事件を起こした宗教団体の信者でしょ?まともな人間として、あの人には住民票なんか発行してほしくないし、この町に住んでほしくない!」とか「ウチらは信者じゃないんで、脱会する気が無いならさっさと出ていって、信者と仲良く毒ガスでも作ってろ!」みたいな暴力性を感じるというか・・・。まぁ・・・そういうギャラリーにわざわざ出展しなくても・・・みたいな感じはあるんですが・・・。
こうした一部の美術関係者が、排他的な選民思想をSNSで発信することは時々見かけます。 以前の文章でも敷居みたいな話は書いたと思いますが、敷居が高ければ高いほど、その集団の治安や純度が保たれるというメリットはありますが、逆に閉鎖性や(上に書いたような)排他性が強まり、要らん加害欲求を煽ってしまうというデメリットが存在する・・・そんな感じがするのです。ガンプラ説教おじさんみたいに・・・。
まぁ・・・勧誘系ギャラリーというのはどう見たって倫理的正義に照らしあわせて、100パーセント落ち度があるので批判は容易だし、「あんまし出展せん方がいいよ」という警告も有効なわけです。ですが、こちらが100パーセント正しい側にいるからといって、出展者まで口汚く罵るやり方は、逆に勧誘系ギャラリーのカモを増やすことにならないか・・・そう感じています・・・。
約1ケ月前のお話になりますが、この続きをしたいと思います。
かなり場違いな例えですが、池田小学校事件の遺族である本郷 由美子氏の本『かなしみとともに生きる:~悲しみのグラデーション~』において、東日本大震災の避難所で「こころのケアお断り」という貼り紙があったことを例に出し、自称専門家やボランティアの人達が一方的な善意で被害者に押しかけて、それが結局当事者を無視した押しつけにしかなっていないという痛切な問題提起がなされていました。まぁ・・・今から私が本題に出したいのは、絵師応援という全く類の違うものなのですが・・・。
私だって、誰かにプレゼントするのは好きです。知人にお菓子を上げたり、両親に誕生日やクリスマスなどに映画のDVDとか漫画とかをしょっちゅう送っています。で、問題とされるのは結果なんですよ。こんないい方は好きではありませんが、私がこれまでやったことは余り人の人生を背負うという責任が伴わない気楽なものですが、前リンクにおけるあの観賞魚の人が絵師さんに対してやろうとしている事は、必要とされる責任や配慮というものが、余りにも欠けていると感じます。
なんかnoteを見たんですが、好きな漫画家さんとタッグを組んでからコミックエッセイを作りたい・・・みたいな記事を見ました。どうも観賞魚の人は、応援する目的で絵師さんに依頼をして、有名にしたいという気持ちがすごく強く見えます。何か『七つの習慣:人格主義の回復』みたいにWin-Winを狙ってるかのような感じでしたし。でも・・・そういうのって、有名にしてハイ終わりじゃなくて、有名にした分その人の人生を負うような責任が生じると思うんですよ。プロの世界ならなおさら・・・それに、趣味で静かにやっていたいし、そんな時間もない(本業に忙殺されてる)絵師さんだっているかもしれません。だからこそ、最初に『かなしみとともに生きる』を引き合いに出して書いたように「有名にしたい」という自分の都合、つまり善意だけを押しつけていませんか・・・?みたいな感情が頭をちらりとよぎりました。それに、「有名になることや、それに伴う莫大な収入」が必ずしも作家にプラスになるとは限らない場合だってあるわけで・・・私の美大の若い先生も、そんな事をいってましたっけ・・・。
まぁ、善意でやっていることに冷水を浴びせることはあまり書きたくないし、観賞魚さんの心理も結構わかります。でも、善意だからこそ、「有名にしたい」という気持ちに、相手がどういうこたえを用意してるかも、きちんと耳を傾けておくべき・・・そう感じるのです。