正月も休めないので、明日くらいもちょろっと書くだけで終わりかな・・・と思います。
それでは・・・。
画家、藤高昇太の公開日記(ブログ)です。主に出展のお知らせや、近況などを書いていきたいと思います。なお、整理のために一部の記事が削除される事がありますので、ご了承ください。 ◎本ブログの文章の一部引用および画像の無断転載を許可いたしますが、以下の注意を守ったうえで、自己責任でお使いください。1.営利目的・非営利目的(何らかの収入を伴わない)に関わらず、出典の明記は大体わかる形でもかまいません。そちらのご都合に任せます。 2.政治的・社会的な信条にかかわらず、いかなる表現も許可いたしますが、最低限のTPOとモラルを守ったうえでご使用お願いいたします。なお、タイトルに◎がついた作品は、版権ネタですので無断転載をご遠慮ください。
『大久野島からのバトン』という児童書を読みました。その中で風船爆弾について触れられていますが、私は当時女工として風船爆弾を作っていた人が書いた児童書を読んだことがあります。ですが、内容がひたすら自己憐憫とあとがきに至っては、風船爆弾を作っていたということを誇るようなことさえ書かれていたので、かなり唖然とした記憶がありました。
で・・・本題に入りますが、日本の児童書というのは上に書いた風船爆弾の児童書のように、被害者の視点で書かれた作品ってすごくあると思うのです。立場が加害者だったとしても、「だまされていた」という開き直りや戦争そのものに、情を使って責任転嫁されていたり・・・。
ですが、『大久野島からのバトン』はそうした綺麗なメロドラマを許していません。原爆の被害が強調されがちで、ポスト8.6ばかりが声高に語られがちな広島にあって、その広島も原爆投下前は戦争加害者として機能していたということを正直に書いている所に、作者の誠実さを感じました。特にラストは・・・「やった方」が「やられた方」に出向くという、かなり鬼気迫る展開でした。
なお・・・こういう話になると、「アメリカ軍の方が日本軍より沢山殺してるから、そっちの方がギルティ!」みたいな話に持っていかれそうになりますが、精神的自立を成すためには、数の問題じゃなく日本も戦争加害国だったということをきちんと考えることが必要だ思うのです・・・。でも、こういう視点の絵本や児童書って、ホント少ないからなぁ・・・。
いよいよ、あやしの保健室シーズン2完結ということで、最終巻は人類存亡が絡んだ結構なスペクタクルみたいな話・・・になっていました。
ただ個性的なイラストのインパクトに甘んじず、リアルな子供の悩みや問題へと誠実に向き合うスタンスは健在で、 今回も結構刺さる話は多かったです。
ここで個人的な話になりますが・・・東日本大震災とコロナ禍を経てから、結構生きづらさとかマイノリティーの苦悩みたいなものを題材にした児童書が増えてきたな・・・と思います。アイデンティティ闘争めいた何かというか・・・。
本作も「協調性」とか「みんなといっしょ」みたいな結束が批判的に取り上げられているわけですが、私としては敢えて、「協調性」とか「みんないっしょ」の味方でありたいと思います。確かに、そうしたことが差別や格差(に声を上げること)などの問題をの矮小化することとして機能することは否めませんし、ネットの逆張り冷笑系の論客がしばしば使う手段でもあります。
ですが、社会がきちんと維持される為には、ある程度「協調性」に基づく「正しさ」や「規範」が必要とされるわけで、それらが揺らぐ事態があるからこそ、いきなり疑念を押しつけるような形ではなく、どうして「正しさ」や「規範」を守らなければいけないのかを(子供達に)説くことも重要ではないか・・・と思う次第です。それらがなきゃ、ヒャッハーな世界になるわけであって・・・。
「お互いを認め合い、尊重する」というのはあくまでも大人だからこそなせる世渡り術の一部であり、「ルール」や「義務」の功罪がまだ理解できていない子供にいきなり(これは色々覚悟の上で書きますが)大人の論理で体制に責任転嫁して、自由や権利の行使を教唆することは一種のトレンドになっている感がありますが、そんな善意は子供に対していくらどんな形で手渡されていても、歪んだ個人主義の敷衍にしかならんのんじゃない・・・?と考えています・・・。
『しょせん他人事ですから』の8巻を読みました。
これまで加害者にはある程度の救い・・・が与えられてきましたが、今回は本当にリアル(な生々しさ)かつ冷厳なラストが待ち構えていましたね・・・神奈川さん・・・。いつか母がカープ関係のブログを見ていた時に、選手に対して結構暴言を吐いているブログを見てドン引きしていたのを思い出しました・・・。まさに他人事ではない・・・。
ネットが普及してから、本来なら職業的な信用と責任の獲得&それに伴うTPOを守らなければならないような言動が、それらを得なくとも簡単にできてしまう状況ができ上ってしまい、神奈川さんはその鬼子みたいな存在かも知れません。
で、和解の後に保田弁護士がいっていましたが、「僕らは日本語でコミュニケーションしてるって思い込んでるだけで 実際は理解して合ってるって幻想の上で何とかやってるだけです」という言葉が印象に残りました。で、認知の話になるわけですが、それが人や社会にダメージを与えるような「ストーリー」であっても簡単に公共空間へと表明できてしまうのが、今のネット社会の功罪なんだなと思いました。
最も、関選手はファン(である神奈川さん)から愛と称して暴言を吐かれており、神奈川さんも何が悪なのか最初から最後まで理解できずじまいでした。個人的な意見ながら、それはネットに蔓延る数多の評論家気取りではなく、真の評論(と評論家)にも当てはまることかもしれません。以前にもこの記事をリンクしたと思いますが、リンク先のニコ氏が指摘しているように、そこら辺が行き過ぎて人格攻撃や中傷へとエスカレートしているような記事やSNSの投稿を目にしているので・・・。
線画が完成したので、そこから色を塗っています。
デジタルよりも手間はかかりますが・・・いや、デジタルも結構手間はかかりますし・・・。
もう一年がこれを入れたらあと5日です。でも、あんまし関係ないんですよね。最近は・・・。正月でも勤務しなきゃいけない人の気持ちが痛いほどわかる・・・。
昨日、高野山に行ったという内容の文章を書きましたが、その続きを書いていこうかと思います。
で・・・まあ、高野山へは南海の特急「こうや」とケーブルカーを乗りついでいったわけですが、何か特急の方はすごい昭和然とした感じだったのに、ケーブルカーの車両の方は最近スイス製の新型に更新されたばっかりだったので、その差がすごいな・・・と感じました。いや・・・どっちの雰囲気も好きなんですけどね・・・。
お寺へのお参りは・・・あまりにも多すぎたのでしなかったものの、ケーブルカーの山頂駅周辺を歩いて、神聖な雰囲気を吸収してきました(笑)
それと行きの特急は、最初から最後まで自分一人だけだったので、ちょっと不安でした。帰りはちらほら他のお客さんも同じ車内に乗っていましたが・・・。で、橋本から高野山までのラストスパートは結構凄かったです。ズームカーの本領発揮といわんばかりに、低速で鬼のような急勾配や急カーブを消化していく様は見ごたえがありました。広島にはあんましそんな凄まじい線形の鉄道が無いからか、個人的にそういう所に作ってある鉄道が好きだったりします。神戸電鉄とか箱根登山鉄道とか・・・。
最近、Blueskyで絵をアップすると、必ずコミッション詐欺系のDMが来るので、正直「うぜえ・・・」という気持ちになっています。あんまり公共の場所で使うような言葉じゃないですが・・・。
ていうか、なんか漫画とかライトノベルの新刊コーナーを見てると、どんどん社会、つまりリアルの方が2ch化してきてないか・・・?と感じることがよくあります。
一部の問題かもしれませんし、それだけ目立つんかもしれませんが、気に入らないことを言葉の暴力で処理しようとする作品がよく目につくんで・・・。
最近、飛行型メカをよく描いていました。下に画像をアップします。
一番下のやつ(作品)は、映画「ステルス」の給油シーンのオマージュです。
で、メカなんですが・・・これは・・・描いちゃっていいのか・・・でも、一応描いときます。ここでガンヘッドのプラモが、2本足型に改造されている画像がありました。その意表を突くようなアイデアに思わず「やられた!」と思い、悔しいのと同時にそれをベースにした空飛ぶメカを描いてみたいな・・・と思ってこっちも逆関節型にして描きました。で、色々調べてみると・・・ここであの改造モデルを作った方らしきブログを発見して・・・。
一応、これもオマージュ・・・のつもりですが、何かあったらきちんと受け入れて対処はしたいと思います・・・。
こちらで、「ジパング展」のことについて書きましたが、今日は本格的にそのことを書こうかと思います。目当ては、会田 誠氏の「灰色の山」が目当てでした。下に、その様子をアップしました。
話はそれますが、私は森 達也氏の『死刑』という本の文庫版を持っており、「灰色の山」が表紙のイラストに使われていたなと、本作を前にして感じました。アメリカと同じく、先進国では死刑制度を存置させてる日本。加害者家族・被害者遺族・そして死刑囚を巡る重たい言葉の数々を見ていくと、死体の山に(殺人事件の当事者としての)彼らのこれまで辿ってきた人生や念を感じます。
で、本題に戻りますが、結構会田誠氏はサラリーマンをイジるような作品を制作しています。まあ・・・企業戦士とか資本主義社会の弊害とはいいますが、私はその世話になっている身なので、まだまだケンカを売るには・・・という心情です・・・。
それから、「戦争画リターンズ」シリーズの一つである、「題知らず」という作品ですが、こちらも画像を下にアップします。
個人的には、画集や雑誌などでこの作品は何度か目にしたことがあります。広島育ちの私にとっては、原爆ドームというのは幼少期から観光や修学旅行ではなく、日常生活の一部として現在まで目にしており、やっぱり外部から見れば広島というのは一つの自治体ではなく、「戦争×核」の町なんだな・・・ということを感じました。だからこそ、もう少しセンシティブな表現で・・・という感じも正直あります。
そういう所から刺激を受けたのが、岩崎 隆宏氏の「リフレクション・モデル(羅生門エフェクト)」でした。
本作を見てからすぐに、「ダークなラピュタだな」という思いが出てきました。まるで、ラユタとゴリアテ(いわゆるムスカの願望か・・・?)を融合させたような・・・。
そして、キャプションを見てから重要なことが指摘されていました。広島や長崎の原爆投下は現代アートのみならず、様々な創作作品で題材にされてきましたが、「軍事都市から平和都市へ180度転換した史実」と書かれている通り、原爆投下の被害性ばかりを声高に語り、みんなが目を逸らしがちな(つまり、同じ立ち位置だった)ビフォア8.6について正直に表現している所に、本作の誠実性を感じました。
本展の会場を出てから思いましたが、ホント自分はそういう空気とか潮流に乗るのがヘタクソな人間なんだな・・・と思いました。まあ・・・もともと児童書とか絵本(という独り善がりな側面)がエッセンスだし、勉強不足だから自業自得という面だってあるじゃん・・・とも・・・。
でも、正直書けば事あるごとに震災とかコロナとかで、それをパフォーマンスにしたりするのも、どうなんねーと感じています。その度にちょっかいを出したりするような作品も見ましたが、できん所はできん分、いちいちニュースバリューに流されてたまるか・・・俺は津波とか原発事故とかいう空気に流されず、好きなもんを描いて、伝えることをしなきゃいかんのじゃ・・・という念も沸いてきたりするのでした・・・。
現在、ひろしま美術館で開催中の「ジパング展」に行きました。
会田 誠氏目当てだったのですが・・・。
詳しいことは明日くらいに書こうかと思います。今キャンバス画を描いてるんですが、小説オンチなりにバックストーリーを考えたりするのは、けっこうやり甲斐があったりします(笑)
去年くらいに、とあるロボットアクション系の漫画を買いました。はっきりいって、『シドニアの騎士』とか「叢」(というゲーム)のいいとこ取りの話かと思いましたが、中盤のDVが絡んだギスギス憎悪劇が生理的に合わず、やむなく売りました・・・ブックオフへ・・・。
まあ・・・あそこら辺に対して批判はあったみたいで、「ネトチン」と呼ばれようが私も何度かそういう表現の比喩として、「チョ・スンヒの戯曲」だなぁという考えが浮かんだのでした。再リンクですが、こちらをどうぞ。
あんまし自分の嫌い・苦手な表現を「チョ・スンヒの戯曲」といいよったら、その言葉に手垢がついてくることは自覚していますが、はっきりいえば私はバトロワの原作で千草貴子が新井田を痛めつけて殺そうが、「ガンズ・アキンボ」でニックスがチンピラを皆殺しにしようが、『ピュア・トランス』で残虐キャットファイトが描かれていようが、それらはあんまし気になりません。むしろ面白がってしまう何かがあります。
多分、それらは著者の殺意とか暴力への願望みたいなものをワンクッション置く形で、冷静に描かれていて、リンク先にあるようにただ「殺意がブチまけてあるだけ」じゃないから、どんなに容赦ない暴力もエンターテイメントとして楽しめる余裕があるんだと感じます。
ですが、そうじゃない作品っていうのは、作者の嗜虐性とか攻撃性みたいなものに直接晒され、引きずりこまれるような悪影響・・・つまり、(震災からさんざんいわれたような)共感疲労ならぬ「共感憎悪」にのまれそうになるから嫌というか・・・。何がいいたいかっていうと、暴力表現はある程度好きですけど、それそのものを煽ってくるような表現は苦手ということです・・・。だからバーホーベンとか北野映画とかはマジで・・・という感じです・・・。
昨日、歯磨き粉を買いました。なんか子供の時はメロン味とかイチゴ味の、刺激が弱いものを使っていましたが、今では・・・といった感じです。
もう正直、急上昇ワードとかAI検索結果とかウザくていらんです・・・。ただ、検索の精度だけを上げてくださいと思ってるんですが、利用者が簡単に減らないのをいいことに、独善的な改悪を続けるあそこら辺には、馬耳東風なんでしょうね・・・。
今日、昼食を食べるために寄ったラーメン屋さんのお座敷に、PCが置かれていて、その周辺にフロッピーがあったことにビックリしました。
フロッピー・・・それを見るのは何年ぶりか・・・。
そういえば、幼少期も父がPCゲームを色々やっていて、それもフロッピーだったなとふと思い出したのでした・・・。
森 達也氏の『死刑』という本を持っていて、その中で森氏と漫画家の郷田 マモラ先生が死刑制度を扱った郷田先生の作品『モリのアサガオ』絡みで対談する、という箇所がありますが、その中で森氏は郷田先生について、「何となく小柄で腺病質な人を僕はイメージしていた」と書いています。
ですが・・・と私は思うのです。単行本を読めばわかると思いますが、郷田先生は積極的に自分の写真、つまり著者近影を積極的に載せてる人です。だから、マッシブな体形をしてる人ということはよくわかる・・・はずなんですが・・・と私はちょっと訝しみました。
そういえば・・・今、Blueskyの人口がどんどん増え始めていますが、また変な軋轢が生まれるかも・・・という不安があったりします。まあ・・・私もXからの移住者なので共犯という自覚はあるのですが・・・。招待コード制の時代とはいえ、その廃止ギリギリの時だったので・・・。
でも、Xに比べたら治安ってすごくいいなと思います・・・。
今回はかなり実名で書いてしまいますが、最初、岡田 尊司氏の本は何冊か買っていました。『脳内汚染』なんかは、正直面白がって便乗して読み、色々批判はあるけど、正直一理あるんじゃ・・・とか思ってました。小笠原 慧名義での小説も結構面白く、ドクター・キシモトシリーズは結構好きでした。ですが、何か愛着障害あたりから段々何かブラックな感情が入り始めたんですよね・・・。岡田氏にには・・・で、最後には「もう、ダメじゃ」となりました。
で・・・。以前、Xのポストを色々読んでいて、星 新一氏の遺族がブチ切れていたのを見ました。それを見て、完全に愛想が尽きたというか・・・。そりゃ親のこと、しかも故人のことを勝手にそういわれたらキレるでしょう・・・。
(以下はちょっと内容違いかと思い、一部を書き換えました)
何か前にも書きましたが、メンタルヘルス関係の話はハードルが低いが故に、ゴールドウォーター・ルールもクソもない状況で、自称○○とか、ワイドショー受けするタレント精神科医の共犯関係のもと、いい加減な診断ごっこが流行りやすい状況だと思います。こういう所から星氏の遺族が、勝手に星氏を「診断」をした精神科医に声をあげるということが起きたわけですが、岡田氏に診断名をつけられた有名人の数を考えれば、そういう話は氷山の一角だなと感じることが・・・。
『いたずらきかんしゃ ちゅうちゅう』という絵本では、家出の途中でダウンしたちゅうちゅうを森(幼少の時、あの木の描写が結構怖かったです)の中から救出するために、通りかかった「さいしんしきの きしゃ」を使うシーンがあるのですが、それがこの車両です。どことなく・・・まあ、0系が後で製造されたのはわかりますが、なんとなく新幹線の0系っぽいなと感じています。
それと・・・なんか『シドニアの騎士』に出てくる、つむぎさんの触手部分にも似てるなと思います。前々から書こうと思っていたのですが・・・。本体じゃなくて・・・。
まあ・・・島根原発が再稼働ということで・・・なんか複雑な気持ちですよね。
あの過酷事故のことを中国電力さんが他人事と思ってないか、かといって電気をバカスカ使う生活からは逃れられないし、滅茶苦茶みんなパラドックスを抱えてると感じています・・・。
そういえば、Google検索のAIが邪魔だったんですが、解決しました。よかったです。ホンマいらんもんつけてからに・・・。しかもアンインストールしてもゾンビのように何度も蘇ってくるedgeのしつこさにもうんざりしています。あそこら辺のサービスにおけるアプデは、どうしてユーザーのニーズとズレてるのか・・・。
来年、つまり2025年の1月の上旬から、「ACT新春小品展 2025」(開催・会場:アートコンプレックスセンター様)に拙作を出展させて頂きます。販売作品は、キャンバス作品の他に、自作小説や絵葉書を予定しております。
なお、私は1月9日(木)から12日(日)まで会場に常駐させて頂く予定です。どうかよろしくお願いいたします。展覧会の詳細に関しては、こちらをご覧ください。
ここで『トモダチブルー』の感想を書きましたが、『絶叫学級』もよく読んでることを承知でいえば、やっぱり子供にサイコホラーはまだ早いんじゃない・・・?と個人的に感じています。まだ精神がヤワな子供に狂気とか刃物とかは、正直にいえば百害あって一利なしだと・・・。あれはちゃんと意志力があり、自制が効く大人だからこそ想定された(ホラーという)エンターテイメントだと思うので・・・。
そういえば戒厳令のことに関して、あままこ氏の記事を読みました。(ぶっちゃけですが)いずみのかな氏をフォローしている身ですが、どっちも正しさはあるなーと、個人的には感じています。
で、児童書の話にまた戻りますが、そういう文脈、つまりキャラクターやシチュエーションを戒厳令に抵抗した市民のような描き方をしている作品って、結構あります。最近読んだ例だと、『ふたごチャレンジ!』の3巻でしょうか。校長先生に子供達が異議申し立てをするというね・・・。ふたチャレ自体は好きですし、扱ってるテーマもかなり意欲的なんですけど、正直「革命」とか「レジスタンス」とかいい始めた所で、なんか白々しい気持ちに・・・。あれは大人同士(校長の養護教諭に対するパワハラ)の問題なのに、子供がそれを背負うことが問題であって・・・という気分になりました。いや、七都氏の主張に正しさがあることは、百も承知なんですが・・・。
立場の弱い子供を逆手に取り、大人の戦いにおける代理人に仕立て上げる児童書は数多くありますが、それを疑いもなく肯定している人たちは、そんな戦いだからこそ子供が守られるべき存在だという「大人の責任」を放棄していると思います。この公開日記でもチマチマ書いていることですが、そういうことを「対等」という言葉で美化する向きもあるようですが、実際には都合よく子供の弱さに付け込んで使い捨てにする卑劣な悪平等だと、私は考えています・・・。
まあ・・・動画サイト、特にYoutubeを見ると明らかに無許可で絵本の読み聞かせをしている動画がアップされています。それは当然著作権侵害として問題視されているわけですが・・・ですが・・・私にそれを指弾する資格はないなと・・・。
なぜなら・・・私だって二次創作や模写をやって、それをSNSや公式サイトでアップしてるんで、同じ穴のムジナだからですよ・・・。そんなの意識の問題じゃないことはわかっていますが、ああいうのをちょろっと見たりして、やってる方はまっさらな善意なんだなとは思います。まあ・・・罪悪感があればいいってものじゃないですが、後ろめたさは持つべきじゃないのか?みたいな感覚が・・・。
私が作家(原作者かイラストレーター)の場合なら、別に目くじらは立てたくない・・・というスタンスですが、ほかの作家さんはそうじゃない人が多いでしょう。まあ、勝手な代弁ですが、10年、20年前に絶版になった作品ならともかく、現在刊行されているものだと、「アップしたらこっちの利益が減るだろーが!」と見做されると思います。それで収益化なら、マジで怒気が上がる話だなと・・・。
そんな目線を意識しながら、黒に近いグレーとか金のこととかについて、色々と考えています・・・。まあ・・・いわれりゃこっちが負ける。自業自得だよ・・・。
まあ・・・過去に引用としてちょくちょく取り上げたことがある、神宮 輝夫氏の児童文学の評論集『現代日本の児童文学』について、本格的に書きたいなーと思っていましたけど、故人をディスることになっても・・・という後ろめたさもあり、距離を置いていましたが、今日あえて一歩踏み込んでいきたいと思います。
現代日本・・・といっても本書が刊行されたのはずっと昔の話、1975年(の当時)ですが、やっぱり今の一部における児童書や児童文学作家の姿勢については、うなずける部分は多くありました。まあ・・・なんていうのか、児童書というフィールドで政治的問題や時代のトレンドを追うことが、作家のあざとい説教に堕していることはよくあり、SNSにおいても(多くの子供が見ているような状況で)政治的にどぎついポストを見境なくリポストする児童文学作家や絵本作家もいる中で、こうしたクリエイター達の独りよがりな正義感に冷水を浴びせる視点は令和の現在でも通用するものだと思います。特に幼年童話で戦争や差別などの社会問題をテーマとすることについての批判は、そりゃそうだなと思うし、一番同意している部分でした。
ただ・・・そういう所から、どうも社会の現実に対して理想を表明したり、求めること自体を腐しているような箇所があり、それがちょっとこっちをブラックな気持ちにさせたというか・・・。例えば、こうした文章です。
「職業、財産、生まれによる貴賎はなく、人間は協力し合うのが正しい姿である、といった考えは、だれしもその通りだと思うのだが、そうした美徳や正しい考えの大部分は、じっさいに効力をもっていない。やがて大人になる人たちに知ってほしいことを伝達する機能をリアリスティックな作品がもつべきであるなら、なぜ理想と現実がちがうかをえがいてこそ、文学である。ところが、じっさいは、その反対のことがうがかれるから、理想的な考えはすべて類型に堕してしまう。類型によりかかり、死んだ美徳をうったえる作家たちには、児童は向くな心をもち、その心に訴えれば、理想はいつか花ひらくという一種の信仰があると思う。」
・・・これは私見ですが、リアリストぶりながらリベラル寄りの考え方を腐すような文章に、私ははっきりいえば、ネットを中心に活動している逆張り冷笑系のルーツをちらちらと見ました。神宮氏はそういう所から、教育格差や世の中の裏表だけではなく、(当時の鉱夫という職業に無理解や偏見ともいえる私見を呈した上で)職業差別まで是認するようなことを書いていますが、これを一般作家はともかく、児童文学に携わる人間が発していたということに、正直見識を疑わざるを得ませんでした。
理論の飛躍かもしれませんが、理想に対して神宮氏は「じっさいに効力をもっていな」く、「死んだ美徳」と嘲るような書き方をしているわけですが、実際に「倫理的にそうあるべき」という考えの前で、いじめや差別、そして格差などが厳然と存在していることは、効力を持たないこととは別のことでしょう。
(もう昔の本なので今と比べても仕方がないのかもしれませんが)こうしたニヒリスティック寄りの態度自体、差別やいじめ等に真摯に向き合ってきた児童文学や絵本のみならず、社会運動やその当事者への侮辱だと思います。例えるなら、(論理が飛躍してることは自覚してますが)「差別はずっと存続してるのに、ブラック・ライブズ・マターみたいなことをやって意味があるのか?」という無神経さと同じでしょう。
だからこそ、単に微笑ましいワンダーランドではない、社会悪を(モラルや正義に基づき)告発する児童書や絵本の存在も、ある程度はまた必要悪だと思うのです・・・。正直、社会問題を描いた絵本や童話は存在しますが、その中にも名作があることもまた事実でして・・・。
今日はあんまし書くネタがないです。
まあ書こうと思えば書けるんですが・・・名指しはどうかと思って、ずっと我慢してきたことについて書こうかと思います。以前もぼかして何度かは書いてましたけど・・・。
もうなんか、公務員バッシングがしたいわけじゃないですが、某公共サービスの対応がかなり酷いと思います。同じ「やらかし」を何度もやらされ、これじゃツタヤとかブックオフの店員さんの方がまともに仕事してるじゃん・・・とイライラしながらそこを出ました。だってデータじゃちゃんと在庫あるのに、読みたい本が読めんというミスを8・回・く・ら・い・されてましたから・・・。
なんか公共サービスが民営化みたいな言葉のもとで、資本主義でシバかれることの批判はありますし、私もそれに同意はしますが、上に書いたような現実もあるわけで・・・とうっすら感じます。
ずっと前に描いたものですが、最近長谷川 まりる氏の児童書『杉森くんを殺すには』がバズっているみたいで、その便乗・・・というわけではないですが、ファンイラストをアップしました。ここでも本作のレビューを書いたのですが、「殺す」という言葉が象徴しているような、目先だけのインパクトありきの作品ではありません。読んでみればわかりますが、どうしようもない人間の心の痛みと、その克服を心が焼けつくような描写と、真摯な目線で描いた作品です。
で、私のファンイラストの話になりますが・・・典型的な例えですみませんが、ルネ・マグリットっぽいものを目ざしましたが、あんまし・・・と思います。まあ・・・去年描いたものだしなぁ(汗)それと、「死」がテーマになっているので、ドクロ・・・これも類型的だったかなぁと・・・空に関しても、もっとメリハリを出すべきだったと思います。
キャラクター(主人公のヒロ)は、イラストを担当されたおさつ氏の作品を参考にしています。おさつ氏・・・最近色々と作品を拝見しましたが、サーフィンのイラストが特に好きになりました。波の描写がすごくきれいというか・・・。
で、リンク先のレビューの焼き直しになるようですが、児童書でも結構「タブー」、つまり本作のように「殺す」みたいな言葉が象徴するタイトルや描写などで、良識に挑む作品は多くあります。ですが、大人目線の露悪趣味と、体制への独りよがりな逆張りでしかないような作品が殆どで、 『杉森くんを殺すには』は、そんな目先のインパクトを蹴散らすような重みがあります。ただ良識や社会規範に対して、逆のことがいえる自分が偉いと思っていることに終始している作品にウンザリしている人は、是非とも書店に行って『杉森くんを殺すには』を買いましょう。
で、拙作は湘南モノレールの大船駅を描いたものです。かつて、大船駅からは横浜ドリームランドへとモノレールが伸びていましたが、こちらは車両の欠陥が原因でたった一年半で休止、言葉の上では休止といえど施設は長年にわたって廃墟と化して放置されており、その末に解体されたわけですが、同じ駅を起点として現在に至るまで順調な営業を続けている湘南モノレールと比べると、なんか複雑な気持ちになります。
で、最初に書いた通り湘南モノレールは懸垂式なので、連結器や制御装置などがあべこべの位置についています。それが何か面白い構造だなーと思ったり・・・。それと、丘陵地帯に無理やり線路を作ったようにも見え、その為に2か所をトンネルでぶち抜いているのも、強引さ故(?)の魅力だなと感じています。終点からは、すぐ江ノ島電鉄に乗りかえられるのもいいし・・・。
最近、photoshop elementsのソフト通知をオフにしました。そんな所にあったのね・・・。
これで、こっちの怒気を煽ってくる機能が一つ減ったことになります。
今度はフォームに入力作業じゃ・・・。
昨日の続きですけど、上級国民の話でヘイターが社会正義や遺族心情をダシにして、罰せられる確率が少ない所から溜飲を下げようとする風潮はあると思いますが、あれ自体個人的には、平和記念式典で被爆者にフリーライドして大騒ぎするデモ隊と同じだと思います。
で、話は変わりますがまたBlueskyで・・・コミッションがどうたらというDMが来てました。早くBANされてください・・・迷惑だから・・・。まあ・・・いいねもつけられていて・・・。
そういえば、図書館の返却期限が来てるので、夜が明けたらさっさと図書館にいくつもりです。分厚い本だから、持ち歩くのがしんどいですが・・・。
(一部加筆修正しました)
あの池袋の暴走事故で捕まった高齢ドライバーが、亡くなったと・・・老衰、でね・・・。
まだまだ新型コロナウイルスのパンデミックが始まる前の2019年に、あの事故は起きたわけですが、結構(第3者から起因する)無責任で低俗な騒動がかつてのTwitterを中心に起きていたと思います。上級国民という言葉に筆頭される、セレブの年寄りがいい思いをしている!みたいな対立を煽り、そういう風潮に便乗する漫画があったり・・・。
で、Blueskyのポストを見た通り、本当にああいうのはノイズでしかないと思います。溜飲を下げるという目的ありきである限り、遺族心情をダシにした厳罰主義や処罰感情も、遺族へのセカンドレイプの一環だなと・・・。ていうか、あんな(加害者の)人が死んだことをゲーム感覚で無責任に面白がること自体、遺族をネットで罵倒した輩と同じものがあるでしょ・・・。そんなだから司法に民意を持ち込んだらどういうことになるかが・・・ねぇ・・・。
なんかこういう時だからか、マキタスポーツ氏の『一億総ツッコミ時代』とか、『しょせん他人事ですから』という漫画のドーナッツ屋さんのエピソード(6巻です)をぼんやりと思い出しています。保田弁護士の言葉を借りた実際の裁判官の言葉で、「人間には人の不幸に嗜虐的快楽覚える~」というのがありましたが、まさにそれかと・・・。
なんか色々これについては書きたいことって山ほどありますが、来年の出展準備をしなきゃならん上に、プリンターまで壊れやがったので多くはもう書きません(汗)
今更『ステイホーム』続きで『氷の海のガレオン/オルタ』を読みました・・・。ミーハーでもねえのに今頃読んだって俺も結構な頭の悪さだと自省してます(汗)まあ・・・『ステイホーム』から先に読んだしなぁ・・・。
以前Xで見ましたけど「小説好きにはほぼ礼賛されている」という趣旨の前置きと共に批判のポストしている人がいましたが、特定のメディアに対する無批判な礼賛の濁流に逆らう存在を見るとホッとするし、それこそ必要悪だろ・・・と感じています。読書メーターでもちょくちょくそういうのがあったから、安心しました。性格悪いな俺(笑)
だからこそ、同じく木地 雅映子氏が書かれた『ステイホーム』の続きで読みましたが、これまで学力に秀でた奴が逆差別されてきたからといって、同じことをやっていいんか?とか、他の子ができないことを色々できるからといって、見下すのがいいことなのか?とか・・・。正直、あの杉子が読んでた新書レーベルだって、ピンからキリまであると思うしな・・・。
それと、同時収録されていた『オルタ』もスカートめくり(!!)に授業妨害で、担任がのほほんとした態度で対応しているなら、そりゃお母さん学校に行かせたくなくなるでしょうねー・・・とか思うんですよ・・・。運よくそういう環境があったわけで・・・ね・・・。まあ・・・ちょっとアスペルガーとかスペクトラムといった言葉も引っ掛かったしなぁ・・・。
こういう所から、木地氏の学校フォビアがすごい『ステイホーム』と同じように表れていて、結果として『オルタ』では学校に行かなくてもいいということになるんですが・・・。でも、そこで「待てよ?」とか思うんです。気安く学校を止めるという選択肢とはいいますけど、それは一部のカネと運、そして環境に恵まれた子供達で、他の親はああした事態で保身を優先する教師と戦わざるをえない現実がある訳です。それと、運と金に恵まれたからといって、通学そのものを否定することが果たしていい事なのか?確かにオルタちゃんの受難には同情します。学級崩壊も事実です。ですが、どうも何というのか、今日受けやすい話の中には、自分の理想や自由に社会を引きずり下ろす(ことしか考えてない)というものがあるようですが、ある程度の強制や馴致がなければ、社会はまともに機能しないでしょう。度を越した個人主義の礼賛は一見心地いいモノに見えます。ですが、その先にあるのは強者が猛威をふるうという新しい修羅の国だと思うのです。
で、『ステイホーム』でも感じたんですが……、これもXの受け売りですが、優劣の概念を中・高等教育はともかく、初等教育に適用させたら新しいいじめの発生源にしかならんのんじゃないかと思います。自分が優れてるからバカより優遇せいじゃなく、初等教育は「万人には教育を受ける権利と義務がある」ことと、「生きていくためには、ある程度社会参画が必要になってくること」ことを体験と実践で慣らしていく場所であり、ある程度学力による進路選択が反映される(12歳はともかく)16歳からの教育と一緒にすんなや!と思ったり・・・。
でも、幼稚園から受験を科されるのが現実だったりするしなぁ・・・。
ある本の感想・・・を書きたいけど・・・明日くらいにします。
こっちも色んなお気持ちが渦巻いとるし、次の企画展の搬入準備とかバイトとかで結構・・・といった感じですので・・・。
私もちょくちょくYoutubeで「迷列車で行こう」シリーズは観てるわけですが、なんか評論家気取りでボロクソに貶してるものもあり、本当にそれが不快で敵わんな・・・と感じています。特にブログしかなかった時代でも、赤字ローカル線(とか3セクとか)が抱える問題に付け込んで、罵倒の限りを尽くしてるブログ主がいましたからねぇ・・・で、これを思い出すというか・・・。
まあ・・・鉄道ファン界隈には同族嫌悪というものがあるというか・・・。
で、最近新規開通した宇都宮のLRTに乗ってみました。地元では100年を超える歴史があり、どうしてもそこら辺のチグハグ感が否めず、旧型車両のことでバリアフリー問題も色々とアレな広電と比べると、かなり整然とした印象でした。
この度は、皆様のおかげで、アートコンプレックスセンター様にて企画・開催されていた「novae」に拙作を出展させて頂くことができました。
拙作を出展させて頂くにあたり、大変お世話になったアートコンプレックスセンターのスタッフの方々、共に出展された方々やご親切なご感想をお送りくださったお客様など、この場を借りて厚くお礼を申し上げます。
公募故に、結果は・・・競争社会の熾烈さを思い知らされましたが、本展で経験したことを糧に、結果にならなくとも、それを信じて更にチャレンジしていきたい思いです・・・。一握りの世界であることは承知ですが・・・。
あの時から、色々迷ってたんですが・・・まあ、イーロン・マスク氏がTwitterを買収してから危ない危ないいわれてて、さらに滅茶苦茶なアップデートに見舞われてから、もうこっちも吹っ切れてXのアカウントは削除しました。今後はBlueskyで本格的に絵や告知のリンクをアップしていきたいと思います。
でも・・・Xはまだまだ情報検索ツールとしては・・・とは思いますし・・・足を洗ったとしても、どっかでねー・・・とも・・・。
そういえば、昨日まで企画公募「novae」に拙作を出展させて頂いていたわけですが、帰りの夜行バスで消灯したにもかかわらず、隣の客がスマホをいじり続けてて・・・さすがに注意したものの、無視されました(笑)キレなかった俺は偉いです・・・。 それと途中までの運転手がマジで乱暴な運転だったので、ヒヤヒヤしました・・・。だって、スピードメチャ出してんですよ・・・?
現在、アートコンプレックスセンター東京様で開催中の企画公募「novae」にて作品を出展中ですが、詳しいことは明日にでも書こうかと思います。
すみません・・・勝手な理由で・・・。
そういえば、おしごとのおはなしという児童書シリーズがあって、前にもこんな文章を書いたことがあります。その中に『ゆめはまんが家!』という作品がありました。知人との話でもちょくちょく浮かびましたが、やっぱり早いうち(子供のうち)から準備しておかないといけない仕事があるし、歳によっては高校生でデビューする人もいる・・・という感じで、その決意とチャレンジは小学校から固まっている子もいるので、すごいもんだな・・・と感じています。
で、本題に入りますが、漫画家の西先生はちゃんとゆめちゃんにアシスタント代は払ってるんでしょうか?払っていると信じたいし、単行本のスタッフロールにも編集者やデザイナー等はともかく、その子の名前もちゃんと書いていると信じたいのです・・・。『ヤコとポコ』という漫画でも、スタッフロール関係でそんなシーンがありましたよね・・・。
で、西先生はアシスタント作業で簡単な仕事をゆめちゃんにさせていたわけですが、それが妥当であると私は思います。9歳でベタやトーン貼りは結構難しい・・・と感じるので・・・。ホワイト修正も・・・。
実際プロになる道が険しく覚悟が問われるといっても 、9歳の子供が対峙している社会と、やったことの責任がかなり問われる大人が対峙している社会は違うわけで、業界の厳しい現実をいきなり身をもって教えることは心理的暴力としてしか機能しないでしょう。それは、幼い時から覚悟や耐性があってもあったとしても同じだと・・・。『二月の勝者』という漫画でも、中学受験と大学受験でそれぞれ構える姿勢の違いを、主人公の塾講師が塾に(ただ)楽しんで行くことが許せない教育パパに説いてましたよね・・・。
そういう所から、漫画家はともかく、イラスト関連の仕事を(ぼんやりとじゃなく)本気で目指している子供がいたら、是非とも水沢 悦子先生の『ヤコとポコ』という漫画を読んでみてほしいと思います。児童書にも通づるファンタジックでカラフルな世界観、そして、絵を描くことを仕事にしている人達の心得・・・みたいなものが、結構子供(高学年くらい)にもわかりやすく描かれていると思うので・・・。
『デンキ街の本屋さん』という漫画をまた読んでいました。あれで女の子のキャッキャウフフしかなかったら、堕落しかなかったと思います。そこに漫画道寄りの、先生がデビューするまでの苦悩だったり、恋愛関係におけるジレンマや破局があったり、「良薬口に苦し」的なシーンがあるからこそ、フラッパーにずっと君臨できていたんだと考えていて・・・。すんませんね、漫画家でもないのにこんなお気持ちを(汗)
でもね・・・ なんか『デンキ街の本屋さん』ってかなり三角関係が描かれてますけど、そこら辺を(一部のウェブ漫画がやってるように)下品でスキャンダラスに描いてないのがいいんです。すぐ何か類型的な女性同士の憎悪劇として、失恋とか恋のライバルみたいなものを面白おかしく下品に嗤ってるような作品って結構ありますが、カメ子を迎えたつもりんとか、腐ガールを見たエロ本Gメンみたいに、ネガティブなことでも前向きに、健全な形で昇華しているような作品(特に漫画・アニメ)が好きなんですよね、私は・・・。すぐ「女は怖い」みたいなステロタイプで収束させるんじゃなくて・・・。
そういえば、北野 武氏の『首』という小説を読んでいました。結構残虐な表現がドライに描かれていました。
11月11日は、ゾロ目ということで・・・そういえば、2022年2月22日もちょっとした話題になっていたような・・・。この日は『昭和オトメ御伽話』の黒咲 常世ちゃんの誕生日じゃないか・・・どうでもいい話ですけど・・・。
で・・・昨日バスに乗っていたんですが、積極的に(棚上げであることを自覚して書きますが)下手糞なイントネーションで英語放送をやってくる上に、過剰な注意放送をしてくる運転手にまた会ったので、不快感MAXでした・・・。自動放送で流れたことをいちいち肉声でネチネチ注意してくるとか・・・幼稚園の交通安全教室じゃあるまいに・・・。 いちいち発車やバス停を通過するごとに放送するなんて甘やかしはいらんよ・・・。それと観光バスでもないのに名所なんかアナウンスしてくるなや・・・。
そういや・・・なんかできない立場で、「どうしてメディア上で、金持ちや勉強ができる奴がカッコ悪く描かれてきたのか?」という問題みたいなものを、ちょっと書いてみたいと思います。まあ・・・正直ネットで、特にスポーツや才能でトップに立っている人達を見ても、荒れがちな学歴の話題と比べると、そこまで過激な発言や対立を扇動をする人って、あんまし少ないなーと感じています。「Fラン」という言葉が象徴するみたいに、プロのサッカー選手がジュニアサッカーや弱小チームをバカにするのって聞いたことないし・・・せいぜいその類といえば、ずっと前に対戦相手を侮辱するパフォーマンスや発言などでひと騒動となった、ボクサー一家(或いは兄弟)のやらかし位かな・・・と・・・。
だからといって私は上に書いたような考えを擁護するつもりは全くないです。某児童書シリーズでも、「キザで嫌味な金持ちの子供に、零細商店街の子供達がバカにされる」みたいな類型的な(昭和寄りの)対立構造を疑いなく使ったので、いくら審査員から評価されても当の読者である子供達からはそっぽを向かれたのだと思いますし・・・。
難しい問題ですよ、これは・・・。学力や学歴って、才能より人生に深くかかわってるから、一層センシティブな所ってありますから・・・。
まあ・・・トランプ氏が再選とのことで、選んだ人らを差別しちゃいけんよ?というスタンスですが、やっぱり対象となる政治家や政党、その支持者達を批判することと、差別をすることがゴッチャになってる印象があるので、しょーもない左派叩きが生まれてるというか・・・。
私がXで見た中では、格差社会の底辺層と労働者をダシにして、彼らの悩みを見ずにLGBTQ(性的マイノリティ)や環境問題など、意識の高い話題ばかりに興ずる左派という(藁人形論法による)雑な対立構造が煽られてる感じがしますが、そういう所からレイシズムや不正まで正当化するような言動もあり、そういう所にもちゃんと冷たい目は向けていきたいな・・・と思います。まあ・・・自分も必然性がない所で意識の高さを見せびらかしたり、そういう所から格差社会の高みで野蛮人を教化するような言動をしている知識人は本当にイヤですが、労働者や貧困層を代弁するフリをしながら、自分の左派叩きの正当化に使う右派系知識人もそれと同じくイヤだなと感じています・・・。
(一部の表現を書き換えました)
ここでも、エピグラフとして紹介しましたが、香山 リカ氏の新書『いまどきの「常識」』で過去の経験と照らし合わせて一方的に自分語りをする学生へのお気持ちが書かれていました。
それと同様にネット、特にSNSでは分断語りがバズりやすい傾向にあると思われます。ていうか、極端な言葉で社会における格差みたいなものをしたり顔で語れば語るほどバズるという光景はちょくちょく見てるわけですが・・・。
で、『いまどきの「常識」』の話になりますが、香山氏は自身の講義から学生が自分の身の上話ばかり引き合いに出してくることを批判的に書いていましたが、今の分断語りにも同じような自己中心性が見られるような気がしてなりません。
お粗末な形でエリートVS貧困層(もしくは庶民)の対立を煽り、雑な能力主義批判やいかに自分の育ちがアレで頑張ってきたか、いかに公立がクソだったかを(視野の狭い経験談に頼ってるだけで)語るポストというのは、私からいわせれば傷の舐め合い以上の機能は持っておらず、多目くんを見下すのび太のような民度しか持ちあわせいないというのが現状でしょう。問題は、それらがあたかも真実や社会問題の一環として効用を持っている・あるいは持つべきかのように語られていることです。悪貨は良貨を駆逐するとでもいうのかな・・・?
ていうか、正直ああした系のポストの(被害者意識に基づく)リポストを見るにあたり、自分がそうした環境に置かれていたことを恨み辛みで振りかざす言葉を見る度に、『ヤッさん』という小説の「ありきたりな身の上話は終わりか?」という台詞がちらついてくるわけです・・・。
だからこそ、福祉や格差に絡んだ問題というのはそういうスキャンダラスな話に汚染されがちですが、そろそろ真面目な人(や当事者)がバカを見ないためにも、クオリティの高く、責任感のある議論が被害者意識を慰撫するだけの、インプレゾンビが群がりやすい議論より優先されるべきだし、後者にはそろそろ誰かが明確な批判を下しても・・・と日々考えています。そう・・・格差論でバズってるポストって、ロクなもんがないから・・・。
なんかBlueskyで絵をアップしたら、英語でコミッションできるか?みたいなリプライが来ており、どういうことかと思う間にアカウントがすぐ削除されてました。ていうか何のポストもなかったし、これは詐欺確定かと・・・。
絵を描く奴を食い物にするようなビジネスが一番嫌いじゃ・・・私ゃ・・・。
そういえば、プライベートでも実はちょっとキレました。歩道を自転車が猛スピードで、こっちに向かって走ってきたからです。どうしてああ自転車はマナーが悪い奴がマジョリティなのか・・・。 しかもそれが悪意からじゃなく、わかってないから天然でやるという所が根深いなと・・・問題として・・・。
水沢 悦子先生の漫画『ヤコとポコ』のファンイラストを制作しました。2作同時にアップします。下の方を見てください。
りんりん先生(上のイラストです)のイラストの左側に、ちょろっとバイクが出ていますが、ちょろっとしか出てない分、しっかり描かなきゃと思い、資料を漁ったりとかしたのです・・・。でも、りんりん先生の持っている鍋が小さすぎた・・・。鍋を被っている作家さんが出るのは3巻からですが、あれを読んだら果たして「私が許さない」といえるまで上達しているのか・・・不安になります・・・。
知人の話によると、「努力というのは本人は心の底から楽しんでやっていて、それを他人が努力と評するかどうか」みたいなことをいってたのをちょっと思い出しました・・・。
そういえば、トランプ氏が再選したようで・・・。私も色々と不安ですし、間違った政治判断をしている人に寄り添うことは、百害あって一利なしとは思います。ですが、(これは日本でもいえることですが)選挙で自分の思う結果が出なかったからといって、政敵や支持者への人格攻撃は慎んでいきたい所です・・・。
なんかここでも書いたことですが、自分が嫌っている政治家や政党の支持者を格差社会の底辺とみなし、自分より馬鹿な存在が選挙権を行使した結果という物語付けをして真面目に怒っている人達がいます。リンク先の文章でリンクをつけてるBlueskyのポストの通り、そういう考え方も本当に分断の一環だと思うんですよ・・・。
昨日、この公開日記の文章で『なんでも魔女商会』シリーズに言及していたと思いますが、その詳しい話をしようかと思います。
それが、『うわさのとんでも魔女商会』という巻なんですが、まずは読んでみてください。児童書だといって恥ずかしがらずに・・・。なんか、相手の言葉が悪い意味で刺さってくるんじゃないでしょうか・・・。徹底した悪気のなさ、そして、寧ろ著作権侵害ともいえる行為を正当化するその態度・・・。私もあんびるやすこ先生や、他の作家さんの模写をしたことがありますし、二次創作をしてない・・・という人は絵を描く中で少数派じゃないでしょうか?だからこそ、ドキッ!としますよね・・・。
ここでも書いたことですが、『なんでも魔女商会』シリーズを読んでいるとメッセージの裏付けのために、仮想敵(悪役)ともいえるキャラクターが登場することがあります。ですが、そうした表現を大人社会における怒りや恨みそのものとして、子供を捌け口にしていない所が児童書としてのすごさだと毎回思っています・・・。いや、私も模写をした身でいえることじゃないんですがね・・・。
で、話を水沢 悦子先生の漫画『ヤコとポコ』に移してみたいと思います。いきなりながら・・・。
なんか、作中で主人公ヤコ先生の作品を盗作したという疑惑がかかった作家さんに、編集部でヤコ先生はいいます。「頑張って描いたんですから…簡単に謝っちゃダメです」と・・・。『なんでも魔女商会』では簡単に人の成果を盗むことがうっすらと風刺されていましたが、果たして心を込めて努力したから許されるのか、それが無ければギルティなのか・・・かなり考えさせられる問題だなと思いました・・・。
今日はハワイアンレストランでオムレツとスパムを食べました。
むすびじゃないです。スパム単体です。
で、改めて『なんでも魔女商会』シリーズを読んだんですが・・・後ろめたさだよな・・・アレは・・・とんでも魔女商会はマジで耳が痛いよ・・・。二次創作やっとる身としては・・・。
最近、ちょくちょくイラストを描く際の参考資料として、あんびるやすこ氏の児童書を読むことがあります。『なんでも魔女商会』シリーズとか『ムーンヒルズ魔法宝石店』シリーズとかです。女の子や小物(アクセサリー類)の描き方が、めっちゃ上手くてメンタルが折られそうなくらい・・・で、すごいロングセラーなわけですよ・・・。あんびる氏の作品は・・・。ハードカバー作品であれなんですよ・・・?
で、どれを読んでみても、なんか物語が落ち着いたタッチで安心できるんですよね。静かな喫茶店にいるような気分で・・・。
確かにメッセージ性はあるものの、 大人の立場で不正や悪意などへの説教や(その辺から)仮想敵を糾弾したり、どぎついだけの(いじめや差別等に対する)問題提起など、独りよがりに堕しがちな部分を敢えて排除しているからこそ、子供のニーズに応えられたのだろう・・・と思います。
宮崎 駿氏は『本へのとびら』という新書で、「子供に向かって絶望を説くな」と書かれていますが、上記のシリーズを読むたびに、そうした理念の真摯な実践みたいなものを感じられます。敢えていえば、原発事故や新型コロナウイルスのパンデミックが存在するからといって、そこに大人の怒りや心情が優先されている限り、それがメディアとして子供に提供されることが正しいこととは限らないでしょう。寧ろ、子供にとって有害(&心理的暴力)であるとすら感じます。この公開日記ではちょくちょく書いていますが、闇バイトや裏金議員、反差別や反権力などをお粗末な形で道徳的感情に訴えるエピソードとして祭り上げ、※自分が正しい側にいるアピールをSNSでしている児童書作家を何人か知っていますが、まさにそうだという思いです・・・。
だからこそ、子どもの発達段階にあわせて配慮したり、優しくしたりすることは一部の(特にネットで評論家を僭称する無責任な)界隈から偽善とか甘やかしだと捉えられるフシがありますが、前者の目線で健全な情動や感性を育むことを、寄り添うように描ける作品は歪んだ個人主義や身勝手な生きづらさなどを大人の都合だけで振りかざしてる作品より遥かに強いと、私もそんな心情に絆されている分、素直にうなだれるしかないのです・・・。
今日はコインランドリーに行きました。
ていうか天気が変わりすぎです・・・。そう思いました・・・。
だって仕事に行く前はメチャクチャ降ってたのに、終わって外に出たら晴れだしたとか・・・。
そういやキャンバス画を描いていますけど、線画で使えるのはやっぱりデカい方だね・・・。
そういや以前、よく東京への移動に飛行機を利用していましたが、ちょっと考えた時にプロペラ機って乗ったことがないな・・・と思ったりしました。
まあ・・・羽田へ行く便はみなジェット機ばかりだったしな・・・。
ということで、明日はもう11月ですね。郵送の準備をそろそろ・・・といった感じです・・・。
今日はちょっと寝ていました。バイトの疲労かもしれん・・・。いや、これは甘えでしょう。フルタイムと比べたら、ちょっとしか働いてないわけだから・・・。昼食にちょっとソース系のものを食べたからかもしれん・・・。
で、こんな記事を見ました。 Blueskyが目指すものが、Xと化したTwitterの、滅茶苦茶で近視眼的な(改悪という)機能変更、そして悪化する治安に対する鉄槌になれば・・・と、Blueskyのアカウントを持つ私は考えています。
まあ・・・一つなんか話題にしようかと思うことはあったけど・・・もういいです。問題にしてもこっちがお気持ち表明するだけ無駄って話はありますから・・・。
「インサイド・ヘッド」や「エディ・マーフィの劇的1週間」等、多くの作品で空想の友達、つまりイマジナリー・フレンドが題材になっていますが、終盤で消滅したりお別れをしたり、そこで友達だった相手の精神的自立を謳うような表現で締めくくられています。「パンズ・ラビリンス」という映画でも、苛烈な現実だからこそ、甘い幻想でも逃げたくなるような世界が冷厳に描かれていました。
ですが、最近観た「ブルー きみは大丈夫」はそうではありませんでした。いささかネタバレになって恐縮ながら、最初に書いたような感じみたいに空想の友達を持つことは、子供だからこそ許されることであり、そうした世界を大人になっても有していることは能天気な楽観であり、甘えともとらえられがちです。だからこそ、最後に「捨てる」ことが自立の選択肢として呈されるわけですが、本作ではきちんとした説得のもとに、自立した大人だからこそ、その為に捨ててしまった概念は必要になるというメッセージが描かれていました。そして、空想は決して逃避の為の幻想じゃないという、作り手の強い意志も感じられました。
まあ、私が(ブルーの声を担当した)スティーブ・カレル氏が好きだったこともありますし、空想の友達が見えるカルというキャラクターに関しても、シックス・センス寄りの巧みな伏線が張りめぐらされていて、「なるほど!」と思いました・・・。
ですが、こうした「生きづらさ」 や「強さ」に対するアンチテーゼ的な作品は近年でかなり増えてきたように思われます。ですが、敢えて逆張り的な発言になりますが、こうしたメッセージは甘えを捨て、自立心を持って生きてきた人間だからこそ機能するものであり、もとからそれがない、育てようとしない人間には慰撫という害毒にしかならない、そういうリスクも孕んでいると感じています。実際、慰撫ありきの作品もあるわけだしね・・・。邦画なんかそうじゃないか・・・。
昨日はてっきり公開日記を更新したと思っていたのに、更新していませんでした・・・。
その埋め合わせとして、メカのポーズ集を描きました。 下にアップしておきます。
これは、水沢 悦子先生の漫画『ヤコとポコ』の二次創作小説に登場するメカという設定で、なんか女の子っぽいポーズをとらせたら面白いだろうなとか考えて描きました。後はイベントで売ればいい・・・という感じですが、加筆修正したものも出したい・・・そんな感じです。そして、中央の英文字は、「テトラポール」と読みます。ロボットのメーカー・・・という設定です・・・。
由来はニール・ブロムカンプ氏の映画「チャッピー」に出てくる企業、テトラバールと「デモニック」に出てくる企業、セラポールをあわせたものです。
闇バイトについて蔑称で呼ぶべきというポストがXでバズっていて、一連のソレを読んで見たんですけど、要らん差別感情を煽って拒絶感を育てるのはよろしくないんじゃない・・・?と思いました。そうした発想にも絶句しましたし・・・。大事なのは呼び名とか表層的なものではなく、地道な対応と実態把握だとは思います。でも、そういう支援者ほどネットではバズらないしな・・・。有名になったとしても、神輿に担がれるような増長はしないし・・・。
何かこういう混同はいけないとは思いますが、蔑称を舐めてはいけないと思います。 ルワンダの虐殺においてもツチ族を「ゴキブリ」と罵倒するラジオ放送の存在がありましたし、(敢えて書きますが)「不逞鮮人」という言葉が関東大震災後の首都圏でどのように機能したか・・・。虐殺ではありませんが、蔑称が実際に人権を阻害する正当化の手段になっていた例だってあるんですし・・・。
だからこそ、蔑称を安易に公共空間で使うべきではないし、闇バイトのいい換えであるウンコ役バイトにせよ、トー横キッズのいい換えであるこどもホームレス連合(!!)にせよ、蔑称でどうにかしようという発想は前者と地続きだと思うのです。ていうか、ホームレスに対する差別じゃないの・・・。なっちゃいけないというのであればねぇ・・・。それと、ウンコ役バイトにせよ、実際に排泄物を扱う仕事って、あるでしょう・・・。
こういう支援者みたいな存在が、反倫理的で過激な言動でネット民にチヤホヤされるのを度々見ていますが、弱者を使い捨てにしてインフルエンサーとして(君臨したいがために)振舞うような存在には本当に愛想がつきそうな気分ですし、そんな軽薄な態度で被支援者に優越感を覚えるような言動を繰り返していると、いずれどこかでツケをはらわされることになるのではないか・・・そう思うのです・・・。
そうそう、こういう所からアヌビスというゲームのワンシーンについて思い出しました。火星の街であるバシリアで、まだ民間人がいるという状況で戦闘が始まった時、ディンゴにそれを詰られたLEVのパイロットが「構ってられるか!どうせバシリアのクズどもだ」といい返すんですね。そして、「バシリアの人間がどうなろうと知るか!!奴らはクズだ」とも。
まあ・・・平等に人権が保障されているはずの存在が、「クズ」という言葉で矮小化され、差別どころか殺していい存在になってしまう・・・ なんかこれをやったのは中学生の時でしたが、色々考えさせられてしまう台詞でしたね・・・。前作の「エンダーの盗っ人どもが!」という台詞とあわせて・・・。
まあ・・・私もちょくちょく百科事典サイトは覗きますが、なんか(悪意のある)ヘイト記事とかいい加減な記事、それからコメント欄が・・・と感じています。
何かもう、正直百科事典サイトはWikipediaだけでいいんじゃない?と思います。あれも色々と問題があるにしても、断然他の百科事典サイトと比べたら治安がいいし・・・。
で、こんなポストを見ました。Blueskyです。 そりゃあそれで賃金上げろ論には私も賛成している部分はありますが、まさにそんな状況だと思います。
でも、『ハ○かわ』みたいな本がバズる背景を見ながら感じたんですが、 小学生にすら営業課の大卒サラリーマンのような、完璧なコミュ力と明るさ(といい印象を与える努力)を暗に要求しているのがこの社会であり、だからこそ「普通に働く」の基準はそりゃ高止まりするし、基準は厳しくなったんでしょうね・・・とも・・・。
それと、資本主義経済の外にいる人が声を上げる&企業や労働者が普通に働くことができない人の為に行動するというのも、この状況では絶望的かと悲観しています。
某六つ子のアニメや某農耕シミュレーションRPGのように、実態はそうじゃないのに、自堕落で働かない若者(つまり俗流ニート論)という藁人形を叩くことが地道な問題提起(と実態把握)より福祉や職探しの認識として受けやすい現実があるわけで、やっぱし自分も非正規雇用だし、バイトも色々変わってるから不安はかなりありますね・・・。
ああ、そうそう。木澤 佐登志氏の『終わるまではすべてが永遠』という本を読んでいて、なんかテレビ番組経由で紹介されていた、障害者の作業所に対して意見が書かれていましたが、あれ、絶対福祉ゴロだと思います・・・。
東京で電車に乗っていると、ドアの上にある(広告や駅名を表示する)液晶ディスプレイに、闇バイトに対する啓発広告が流れてきました。バイト生活一筋ながら、「こりゃ気をつけな・・・」と思ったりして・・・。ハローワークはともかく、ネット経由の職探しだとホンマ保証が無いからな・・・。
で、Xの観測範囲ですが、闇バイトを巡って雑な若者語りが横行しているのを見て、ちょっとブラックな気持ちになりました。高齢化するネットユーザーが 、尤もらしく若年層という藁人形を好きに叩いて、「若者フォビア」というコンテンツにおける相互承認のダシにしているという側面がないでしょうか?なんかあの手の議論って、他人事で自分はそうならんという変な優越感があるからアレだなぁと・・・。繰り返しますが、私も他人事じゃないのですよ・・・。
で、これもX経由の話ですが、もう1つ気持ちがブラックになったことがあります。
「左派政党支持の人達の投票呼びかけイラストはホント質が高い」とか書いて、右派支持でこういうのは見たことが無いと腐していたポストを見ました。今日ですが。自分も絵を描いてるので本当にブラックな気持ちになってしまって・・・ね・・・。リポスト先をアレを見たけど、(個人的な感想ですが)財源は造幣局で刷れば出てくるみたいな人が考えてるような発想だねと思いました・・・。
私も一応野党支持ですが、こういう自分たちのやってることを変に美化したり、歪な悪魔化をやってるから反権力とか反差別が絵に描いた餅、というかエコーチェンバーの燃料に成り下がってるんでしょうが・・・と正直感じました。大体、自分やその賛同勢力のやってることに無批判で賛成するのって、右派と同じじゃん・・・。ていうか同じ考えだからこそ、嫌いなものだったら惜しまずに理論を尽くして批判することも大事なんじゃないですか・・・?
ずっと前に、『まなびストレート!』という漫画を読んだことがあります。
なんかこれって、ネット世論の(リアルに対する)影響や海外の専門家の言葉を真に受けた政治家によって、教育に対する投資が大幅に減らされた世界なんじゃ・・・という思いが頭をよぎりましたが、Xを見るとまさにそんなことが政治家によって書かれていました。そんなに潰せなんていわんくとも、今後潰れるべき大学は潰れていくでしょう。選ばれない教育機関を無理に存続させる必要はあるのか・・・と思ってはいるので・・・。
ですが、政治家がそれをいうのか・・・と・・・。 ただ大衆受けする為に構造を(時には改革という美談で)ぶっ壊すアピールなら、政治家でも(そういう人たちに媚びる)ネット民でもどこでも見ますが、カタルシスだけを社会にもとめる議論は強引なこじつけですが、特定の弱い誰かを刃物で切りつけてピカレスクぶるような雑さと同じなんですよね・・・。これについては、後日書いてみたいな・・・。面白い小説だって書けるかもしれんし・・・。
期日前投票に行ってきました。
特にこれが悩みどころでしたが、リンク先のポスト通りの判断で何とか決めました。まあ、あの人の本をね・・・とは思いましたが・・・。
それと、同じ人のポストですが、ほぼ同意です・・・ 。あの庶民感覚を履き違えたDQN仕草にはもううんざりですし、正直駅前で街頭演説などするな・・・!という思いも・・・。
で、政治関係で一番ダサいのは(あの迷惑装置である)選挙カーみたいに人権意識の高さをSNSで連呼する人ですよ・・・ 本当の善意や正義は、日常生活における地道な行動で現れるものだと思っていますし、必要もなくそれをアピールでやる人間は、弱者を自己顕示欲の為に使い捨てにする人間とみなしていいと感じています。
こういう所から、ちょっと灰谷健次郎氏の『兎の眼』を引き合いに出してみましょう。
もし、小谷先生(足立先生でもいいです)が鉄三やみな子とのぶつかり合いで、周囲に「私は弱者の立場に立つ教育を目指しています!」とか「だからこそ障害児や貧困家庭の子供の痛みに寄り添うような教師になりたいんです!」とか、足立先生やバクじいさんに主張していたら、かなりカッコ悪い作品になっていたかもしれません。もしそういうスタンスなら、「塵芥処理場にいる労働者やその子供達を、どうしてみんなは労わろうとないんですか!?だから、社会の底辺にいる人達が犯罪を犯すんですよ!」とかいう展開になってそうで、(これは皮肉ですが)面白そうだなあ・・・とも・・・。ああ・・・そういう風刺なら、『先生なんか消えちまえ』でも見たなぁ・・・。
で、拙作の話ですが、スリップ姿の珠代さんで、寝起きをイメージしてます。絶対にみんなの前でやらんようなポーズをとらせました・・・。でもやってるんでしょうね・・・逆をいうと・・・。人間だもの・・・。
ああいう人が伸びをしたらめっちゃ刺さってしまうな・・・と思って・・・。珠彦や珠樹までじゃないけど、珠代さんは珠子とあわせてかなりスレンダーな体形をしてるので・・・。
『昭和オトメ御伽話』でも常世ちゃんのスリップ姿がありますが、やっぱりエロいのは珠代さんだな・・・と・・・。
北斗の拳という漫画ですが、どの作品でも登場は僅かながら、重要な役割を示す存在がいるように、ジードも同じかと思います。ジードも(ケンシロウによる)やられ役の一人ですが、短い間に作中世界がどんな状況なのか、北斗神拳とはどのような威力を持っているのかを読者にわからせる重要な役割を背負わされていたと思います。
何かジードとは違いますけど、映画やアニメ等で脇役ながら重要な存在を示すキャラクターやガジェットってありますよね・・・。
で、話は変わりますが・・・まあ、これについてはあんましなぁ・・・という感じがせんでもないです。やめとこ・・・。次は久々に絵をこの公開日記でアップしようかと・・・考えています・・・。
(一部加筆修正しました)
一時、ロストプラネットというゲームの設定資料集を持っていたことがあります。そこで、スタッフのインタビューが収録されていて、(ゲーム中の惑星で)平和に暮らしていた原住生物のAKを迫害することがいいのか?問題提起がある・・・みたいなコメントがありました。で、最近Xで外来種の観察会で子供にアメザリやミシシッピアカミミガメを殺させたり、子供が「駆逐してやる!」と叫んでアメザリを踏み潰すことがあるというポストを見て、VSで蹂躙されるAKを思い出した訳です。生き物をガトリングガンやロケットランチャーを搭載したロボット兵器で叩き潰していくのはゲーム中の絵空事だから許されるけど、外来種を面白半分で殺すような子供達はそんな感覚だったんだと思います。
前置きが長くなりましたが、そんな所から、『野生動物は「やさしさ」だけで守れるか?』という本を読みました。まあ・・・上に書いた子供達がアメザリを殺す件が書いてあったので・・・。本書は「外来種でも殺すのは可哀想じゃない?」といった、私達のような部外者が誰でも抱きがちな情を否定し、心を鬼にしてでも駆除しなければ自然環境が守れない現実や、当事者が抱える葛藤が淡々と書き連ねられています。ですがそこは岩波ジュニア新書で、(それこそ他の新興新書レーベルがやりがちな)一般良識(と稚拙な感情論に基づき駆除に反対する人)をネット受けする敵意で論難したり、そういうところからリアリストぶりながら排他的な優越感に酔うような表現が一切ないのが良かったです。寧ろ、「かわいそう」という感情を持つことにも一定の理解を示しながら、安っぽい論破ではない現実の重みと(想定される)読者層に対する思いやりを感じられる1冊でした。
そして、Xのポストの話に戻りますが、子供が生き物(虫とか魚とか)を遊びで殺してしまうことはしょうがないと思います。私だって同じ罪を抱えてますし。だからこそ、この文章で紹介した本に登場した外来種を駆除する大人達が有している、社会的責任や倫理観が育ち切っていないのは当たり前のことで、大人がそうした行為を推奨するのは問題だなと・・・。
まあ・・・こうした所の逆張りから、子供に何をやらせようが自由だという話は、一部の意識高めの層に受けそうな感じがせんでもない・・・。
なんか、今日は雨が降ってて、季節外れの雷まで鳴ってて・・・本が濡れました(泣)なので、本屋で買いなおしましたよ・・・。
明日はちょっと公開日記の密度を上げたいと思います。読んだ本の感想を書きたいので・・・。
明日は6時起きだというのに、呑気にブログなんかやっとる場合かいな・・・と思いながらも書いてます(笑)
で、未完だった小説の足りん所を完成させたんで、スッキリしました。後はちょくちょく肉付けを・・・といった感じでしょうか・・・神にかかわる所なんで、余裕があったら許しとか神について書いた本を読みたいな・・・と思います。
そういえば、愛国ポルノ関係の広告がウザいです・・・はっきりいって・・・必死で(鬼の首を取ったように)中韓製品を叩いて無理にでもこじつけを駆使して日本をアげたがる負け犬根性は、見とって嫌になる・・・。 ぶ〇こみジャパ〇ーズも大概だったね・・・。人に恥をかかせるために下手にやるなんて、侮辱もいい所だよ・・・。
来る2024年11月中旬に、「novae」(企画・開催:アートコンプレックスセンター様)に、拙作を出展させて頂きます。開催時期や時刻などに関しての詳細は、こちらをご覧ください。
なお、私は11月14日(木)から11月17日(日)まで在廊させて頂きますので、どうかよろしくお願いいたします。
(注意)出展させて頂く作品は、人体損壊や流血などの表現があるので、そのような表現が苦手な方はどうかご注意ください。
磁気嵐がどーなるかで、ちょっと不安な状態ですし、だからといって素人がオタオタしててもどうにもならないと思うので、ゴッホの「ひまわり」にスープがかけられた事件・・・についてちょっと描いてみたいと思います。
これについてはここやここにあるような擁護意見(正当化)もいくつかあるわけですが、私はふと『善悪の屑』という漫画をうっすらと思い出しました。その中で主人公の復讐屋が犯行を自慢するようなターゲットに対し、「頭も努力も要らないバカでもできる事」と切り捨てています。復讐屋の言葉は殺人という行為に対してですが、名画にスープをかけるということ自体、「頭も努力も要らないバカでもできる事」ではないでしょうか。そんな事に理由付けや理念、それから捕まる自覚さえあればアートとして昇華される、これは現代アートの病巣なのかもしれません。もっとも、私もそうした潮流に乗っかってしまっている・・・という(それこそ)自覚があるし、作品や活動の一部には一理はある・・・と思っているのですが(汗)
ですが・・・リンク先のように、理念さえあれば(非暴力で)法を逸脱しても構わないという考えには判官贔屓的な同情が寄せられやすいですが、司法の手続きをバカにし、直接行動で社会に訴えるというやり方は、本当に権利や自由にアクセスできない層を抑圧に繋がっていると思いますし、その先にあるのはネオリベ化した個人主義が社会に振りかざされる修羅の国・・・だと憂慮しております・・・。
今日は図書館に行き、B-29関係の本をいくつか借りました。これから描く作品の資料集めのためです。で、どうでもいい話ですが、「あの花の咲く丘で、君とまた出会えたら」の映画(こちらでレビューしました)を始め、原作小説も漫画版も読んだクチですが、ちょっと気になる箇所がありました。原作小説の方で、B-29が「戦闘機」と書かれているんですが、正しくは「(戦略)爆撃機」ではないでしょうか・・・?いや、これはお互い様で、結構私も本業でキャプションの記載を間違えたり、正しい価格設定をしてなかったり、恥ずかしいミスは色々としてるので・・・。
そういや、またコインランドリーに行かなきゃいけないし、ラフをキャンバスに書かなきゃいけないしで、結構ビジーじゃなあ・・・。寝たいというのに(笑)
久々のキャンバス画「放課後ウォータイム」を描きました。
下に画像をアップしました。
拙作は、現在制作中の小説・・・といっても、もうPDFデータを作成して、印刷屋さんに持っていけばいい段階なんですが、その表紙イラストで使用するために制作しました。くわしくは書けませんが、一人の女の子(小5です)がとある事件をきっかけに、宇宙戦争の悪夢を見始めるようになったことから話が始まり、宇宙戦争に登場するロボット兵器と女子小学生の日常・・・みたいなものが上手く交わるように表現した・・・つもりですが、左下の少女漫画誌はもうちょっとクオリティが・・・と思いました。
自分の小学生時代を振り返ってみても、あんまし空気や流行に乗れてなかった所があるので、そこら辺が・・・とも・・・。ゾロリもあんまし読んでなかったし、ジャンプすら読んでなかったんじゃ・・・。
昨日、こんな記事をX経由で読みました。おいおい・・・マジかよ・・・。そりゃ遺族の激おこ案件かなと・・・。
自分も脳内汚染から不信感は抱いていたのですが、小笠原 慧名義での小説は面白かったのでよく買っていました。 でも、これで止めを刺された感じ・・・でしょうか・・・。冒涜と詰られても仕方がない気も・・・。
こういう偉人はADHDだの発達障害だの、ナンタラ障害だのといったマスコミへの露出が多く、書籍を多数出版している精神科医がリンク先の記事のような文章を手当たり次第に書いているのをよく見ますが、果たして許されることなのでしょうか?これだけではなく、一部のそうした精神科医が出演料や印税の為に、まるで前者の病名を無責任に特定の人間が有する特性につけて、自著やウェブ記事などで差別や偏見を煽るような言動を繰り返すのも見ていますが・・・。
メンタルヘルスというのは非物理的な側面が多い分、その性質上において素人でも語れるような敷居の低さがあるのだと思います。たとえそこら辺に関しての学識がなくとも、「コミュ障」とか「アスペ」とか、他者を認定できるような現状があるわけで・・・。
なんでも敷居を高くすれば、その分独り善がりな権威主義や排他的な選民思想によるエコーチェンバー現象が発するという弊害はありますが、必要悪として特定の職業や発言権への敷居は(※TPOと併せて)高くすべきだ・・・という考えが正直私にはあります。 以前の文章と併せて、巷にあふれるメンタルヘルスへのいい加減な概念が差別や偏見で巷に流布(だって、同人はともかく、商業出版されている漫画で「チー牛」という言葉が使われていたんですよ!?)しているのを見ると、そろそろ専門家による明確な鉄槌がタレント精神科医や障害名を乱用するポップカルチャー界隈に下ってもいいのではないか・・・そう感じています。
※当然、発信する側には「大いなる力には、大いなる責任が伴う」という自覚が必要とされるわけですが・・・。
こないだブックオフで、(当然)中古のサーフェスを買いました。
物理的な話ですが、ミニノートPCでも携帯するのは重いと感じてきたので・・・。
まあ、歳のせいじゃろうか(笑)でも、キーボードとかUSBハブ等の周辺機器を買ったせいで金かかりました。 安物買いの銭失いじゃ・・・。
で、今日は久々に宮島線を使いました。混んでる方向とは逆というのが、せめてもの救いでしたね・・・。
昨日の夕方、とある小学校の校庭の横を歩いていると、野球部の子供達が必死で練習をしていて、結構顧問らしき先生がパワハラチックな言葉をぶつけていました。聞いてる自分まで嫌な気分になって・・・衝動的に、『ラベンダーとソプラノ』という児童書を思い出しました。ああ、あと、この記事も・・・。
で、なんだか・・・勝利至上主義やお金の問題という点では同じなのに、フィクション上では(雑な比率ですが)どうしてスポーツやお絵描きはいつでも肯定的に描かれて、勉強や教育ばかりが批判的に取り上げられるのか・・・。と、攻撃的な言葉遣いをしている先生を見ながらぼんやりと思いました。あれじゃ子供が可哀想だ・・・。まだ発達段階上、そんな耐性ができてないのに、大人の立場から怒気に晒してたら、精神に悪影響が出るんじゃないのか・・・。
それから、本屋に立ち寄ったわけですが、新刊の漫画を漁っている中で、ちょっと衝撃を受けるものを見てしまって・・・だって、裏表紙の作品紹介で「チー牛」ですよ?ネットの日影でしか通用しない差別スラングが公共の場所で使われているという光景・・・。何かウェブ漫画に関するお気持ち表明系の動画と、そのコメント欄を見てて、やっぱりね・・・とか思ったわけです。いわんだけでみんなも思ってたじゃん・・・みたいな・・・。
単なる消費者でしかないのでもうずっと我慢していましたが、今までアレコレに関して腹の底から思っていたので敢えて書いてみます。まあ・・・「チー牛」という言葉が公共の場所で使用されていたというナーバスさも併せて・・・なんですが・・・。
あの動画と照らし合わせて、なんかネットで差別とか誹謗中傷を脊髄反射的に消費しているどうしようもない層と、そういう層に爆買いさせるために、 2ch寄りの動物的な刺激を「エサ」として提供する作り手がいて、あそこら界隈は本当に治安が悪いなー・・・とか感じたりするわけです。ウェブ漫画じゃなくとも、児童文庫も結構インフレーションは新書ブームよろしく起きてるし、さすがに一線は超えてはないものの、危なっかしーな・・・と思う所があったり・・・。だって、『推しの子』のノベライズだよ・・・?そして塗り絵コンテスト・・・。作画担当の横槍 メンゴ先生もX上で注意喚起はしてたし、それを裏切るようなことやってるじゃん・・・。
太陽フレアのことが心配ですが、ヤフコメでも指摘されていましたが、オーロラ程度の騒ぎじゃすまなくなることもあるわけで・・・。
で、ここで「生きづらさ」について書いていきたいと思います。
生きづらさ・・・そこら辺を取り上げた漫画とか小説が今、かなり人気ですが、どこかネオリベ化した個人主義の一環ではないのか・・・と感じたり・・・。私が『リベラル再生宣言』を読んだ影響もありますが・・・。
これは個人的な意見ですが、私も色々あって社会の「規範」や「正しさ」についてしんどさを感じることはあります。トータルで見れば、社会の方で(弱者やマイノリティに合わせて)是正されるべき部分だってあるでしょう。ですが、自分の「しんどさ」ばかりが主張され、それにただ寄り添うことは果たして正しいのか・・・という思いもあります。
色々そんな作品を見てきて(特にモヤモヤしたのは『ステイホーム』という児童書でしょうか)、なんかそこら辺を自分より不幸な人への同情に向けたりせず、寧ろ自分の生きづらさを主張する為に後者への加害すら容認してしまうような環境すらあるわけで、そういうことが社会の運営や個人の精神の健全化に、ちゃんと繋がるのか?という疑問があったりするわけです。
だからこそ、やっぱりどこかで「生きづらさ」を抱えた個人に対しては、ただ優しく同意することだけでなく、社会に馴致させるほのめかしや、疑問を呈することも必要ではないのか・・・と感じたりします。
乱暴な括りで本当にすみませんが、こうした慰撫の一環が安倍氏を殺害した犯人や、京王線で乗客を切りつけるような犯罪者への同意へと繋がっているような気がしてなりませんし、上に書いたように「生きづらさ」についての色々な作品を見てきたことと、『ステイホーム』を読んだことからしても、社会に対するしんどさが認められるというのは、他者への想像力を行使して初めて生まれるものじゃないんですか・・・?と思ったりします・・・。
まあ、ちょっとでもそこら辺に責任概念を向けたら、色々とアレな人達から右派扱いされるんでしょうけど・・・。
最近では、音楽はAmazonでダウンロード購入していますが、久々にタワレコでリアルなCDを買いました。PS版「攻殻機動隊」のサントラが再版されたとネットで知ったので・・・。
話は変わりますが、昨日は余計なことを書いてしまい、相手を傷つけてしまったかもしれません。ですが、実際に画廊に作品を出展していた身としては「どうよ?」的な部分が沢山あったので・・・。パトロン・・・ アートコレクター・・・もう無理じゃ・・・。
で、話をサントラに戻しますが、特典が2点ついてきたのが嬉しかったです。今日書けるのはこれくらいかな・・・。
もうあの話題に関しては一回きりで、もう蒸し返すのはやめようかと思っていましたが・・・(好きなフリゲ製作者さんも関わっていたことですし・・・)やっぱり気になってnoteとかXとかをちらちら見てしまって・・・ね・・・。オンライン美術館を開きたいという方の・・・。クラウドファンディングで・・・。
んー、自分も就職してない分、経済的にかなり劣った所はあるじゃん・・・とか思ったりするんですけど、その分絵画作品の売買とか画廊批判について、「こりゃダメじゃん・・・」と思ったりしました。正直・・・。俺だってハローワークすごい通ってるけどさぁ・・・。その間紙屑になった履歴書が何枚もあるわけだし・・・。
で、最初に書いておきますが、世の中には職がない、生活保護をやむを得ず受給する、経済的自立もままならない(ありていにいえば貧困という名の)極限状況を送っている人がいます。貧困じゃなくとも、努力が報われずに無職になったりすることだってあるわけです。だからこそ敢えてお気持ち表明しますが、働いてお金を頂く行為をバカにしておいて、むしろそうした生活を疑問なく享受しておきながら、どうして人にアドバイスしたり(ズレた視点で)偉そうに画廊批判ができる立場なのか?そんな状態で、オンライン美術館みたいなビジネスみたいなものを始めるのも・・・と正直思いました。前にも書いた通り、ニーズに合わせて依頼・・・という方が印象がいいですよ・・・。応援したいからといってニーズもないのに依頼というのは、憐憫でしょ・・・。
まあ・・・自分だって社会不適合者な部分は色々あるし、でもこの公開日記で身の程をわきまえんいっちょ噛みや説教モドキはやってきたわけだしなぁ・・・人のことはそんなにいえんよ(汗)でも、画廊出展者の経験から照らしあわせて、オンライン美術館なるものにすごく疑問はあったので・・・。
一昨日、ここでイヤミスについて書きたいと意思表明していましたが、まあ・・・腹の底に溜まっていたものは出したいと思います。その道のプロでもないので、エラソーなことはいう資格はないので我慢すべきだと、ずっと自分にいい聞かせてきたことですが・・・。
保坂 和志氏の『書きあぐねている人のための小説入門』という小説技法を書いた本なのですが、本書は2003年と20年以上前ながら、今日のイヤミスブームの本質を見事にいい当てているなと感じる箇所がありました。4章の「ネガティブ人間を書かない」という所なんですが、(当時における)最近の応募小説や創作学校における被害者意識の強い登場人物然り、ネガティブ人間を描くことへの批判然り・・・。
私だってどっちかというと、正邪でいえば「邪」の方が多くてスキャンダルとか不幸話とかに耳をそばだててしまう弱い部分があります。そういう話だって好きですし。ですが、上に書いた保坂氏の指摘通り、スキャンダラスで露悪的な作品がミステリのメインストリームとして持て囃されるのも・・・と感じていることは事実です。
正直ながら、私は「イヤミス」と銘打たれた小説を数冊読んだことはありますし、宣伝方法から健全な効果を狙ったものではないことぐらいわかります。寧ろ、イヤミスに正義や美徳を求めろということ自体が空気を読めていません。ですが、基本的に(もうこれは個人的な私見になりますが)イヤミスというジャンルは、ファミレスの片隅や道端で他の家庭の不幸、つまりダレソレさんの家が破産した、旦那がDVをした、息子さんがいじめで自殺したとかいった話題を俗悪に騒ぎたてる主婦達みたいな層と、そういうどうしようもない層と同じ感性を持つ作り手との商業的な共犯関係で成り立っているのだと思います。受け手は手っ取り早くチョ・スンヒの戯曲よりもインスタントに人の不幸で歪んだ心理を慰撫されたい。作り手は受け手に爆買いさせるべく、皮相で安っぽいヘイトを提供すればいい。結果として、『バトル・ロワイアル』の大ヒット以降雨後のタケノコのように現れた(過激で不快なエログロありきの)デスゲームものと同じ轍を踏んでいるとうっすら感じています。ああ、そうそう。お手軽な右派知識人の対談とかIDW崩れの左派叩き、芸能人のエッセイでもってるような新書の新興レーベルもね・・・。
前にもここにリンクを貼ったと思いますが、(津波に伴う)原発事故やコロナ、ガザ虐殺など現実があまりにも単純化できない上に悲惨なことばかりなので(これは『小説の神様』シリーズでも指摘されていたことですが)社会や人間関係は正邪入り混じったグラデーションで、自分もどこかで責任を科されているという、ある程度は思考力や教養、耐性を要求される「線」は無視され、「少年犯罪者でも死刑にすべき!」とか「アイツはいじめの加害者だからクズ!」みたいに、シンプルな「点」で理解出るものだけが好まれるでしょう。リンク先の記事のように、ビッグブラザー抜きで2分間憎悪を自分達で実現してしまった現代の申し子の1つが、イヤミスなのかもしれません。
はい、今回は最初から最後までハルヒちゃんオンリーの巻でしたね。
で、まあ、黄泉が遂にハルヒちゃんに目をつけるわけですが・・・。今まで、他人の悪意に晒されていないかったからこそ、善意を貫けていたハルヒちゃんですが、トータルで考えたら結構黄泉のやってることはエグいよなと・・・。どうあがいても(いささかネタバレになりますが)死ぬ運命にある少女に、人の善意を試すわけですから・・・。
だからといって安直に闇落ちせず、成長の機会を示唆するラストは流石だな・・・と思いました。ハルヒと楽シリーズはこれでいいんですよ・・・!
そういえば、楽さん黄泉と二回くらい直接会ってるんですよね・・・。
(一部加筆修正しました)
ここでも書きましたし、25日分の更新をうっかり忘れていたので、その補填という意味もあり、今日は二回更新にします。
本日、『トモダチブルー』という児童書を読みました。なんか、オソロがエスカレートしていく恐怖というのは、『同居人求む』というサイコサスペンスを思い出さずにはいられませんでした。確か映画化もされてましたよね・・・。まあ、あの調子でいけば・・・結末はああだよねーとか思ったり・・・。
で、何かリアルだけでなく、多くのSNSに代表されるようなフォロワーとかいいね!機能にもいえることですが、好意や友達の数の多さが本当の友情なのか?という問題提起、全てがわかった時に反省のかけらもなく、また新たなバッシングをし始めるクラスメイト達の愚かしさ、そうした所からまず精神的自立をすることの大切さが、いささか苦みを持った風刺を含んで描かれていました。それと、子供のことを軽はずみにネットで配信することも・・・。
で、巻末にいしかわえみ先生と作者である宮下 恵茉氏の対談が収録されていますが、「女の敵は女」とか「女は怖い」といいますけど、肉体的か精神的かというだけで男だって結構苦労してたんだぞ・・・と正直感じました。男子も男子で、結構いじめとかもあったしな・・・。まあ、最近だって自分も嫌がらせを受けてたわけだし・・・。バイトの現場だって、そういうことが渦巻いとったし・・・。本人がいない時にずっと悪口いっとったり、人を選り好みして怒鳴りつけたり・・・。
いしかわえみ先生との対談が収録されていたという所から、本書は「そういうこと」を狙っていたのだと思います。私自身も絶叫学級シリーズは好きですし、露悪的な話が嫌いなわけではないです。寧ろ勘違いしている大人が猫撫で声で、いつまでたっても子供をおもちゃの国や人魚の住む島に誘う方が、弊害があると思いますし。ですが・・・ちょっと小鳥ちゃんの描き方を見て思ったのですが、精神的病理を抱えた人物を煽情的に描くことに対して、私達は大人だから分別がつくのですが、やっぱりまだまだ世間やその実態を知らない子供に向けてそれを提供することは、精神的な障害みたいなものに余計で要らん偏見を植え付けることにならないか・・・?という不安が頭をよぎったりもしました。
それと、人間関係というのは悪いばかりではなく、良いことだってある訳で、ただヒリヒリするだけではなく、思春期だからこそネガティブなことがいい方向で本人の成長へとシフトするという部分がないでしょうか?「インサイド・ヘッド」というアニメ映画でも、カナシミの存在を通じてそういうメッセージが発せられていたと思いますが・・・。
それと、混同しちゃいけないとは思いますが、『謝るなら、いつでもおいで』とか『マコちゃん絵日記』とかの影響を受けてるせいでしょうか、子供が抱えている人間関係の悩み・・・みたいなものを大人の目線ありきで加担したり煽るだけではなく、真菜ちゃんが晒されていた脅威とか、小鳥ちゃんが抱えていた精神病理とか、単純明快ではない現実を公平な視点でジャーナリスティックに掘り下げてみたいな・・・という欲求もあったり・・・。すみません、場違いなことを書いていることは百も承知なんですが・・・。
これが本作の読解力のなさというのであれば、ちゃんと責任は受け止めるつもりです・・・。
ヒマがあれば「イヤミス」というジャンルについても書いてみたいなと思います・・・。
『絶叫学級 転生』の23巻を買いました。
感想は明日書きたいと思います。何か色々なことが周りで起こってると思います。17巻と同じように、ハルヒちゃんオンリーな巻でした。やっぱり本編の毒々しいエピソードもいいですが、ああいう救いは必要だよね・・・。それで中和されてると思ってるんで・・・。
次回、川上 幸之介氏が企画された展覧会・・・あのことも含めて正直どうすれば・・・と感じています。 次からはそこも考慮した上で、慎重にいっていかんといけんのんかな・・・。
「安物買いの銭失い」という言葉がありますよね?
で、ずっと前にここで書きましたが、敷居が高ければ高いほど、その集団の治安や純度が守られるのは事実です。ある程度は。それは価格を安くしすぎると・・・にも繋がる所はありますが、どこか低所得層へのうっすらとした差別意識を感じるんですね、ちょっと・・・。引用リポストも、そういうものが殆どだったし・・・。確かに、最初に書いた敷居と同じく値段を高くすれば、享受する側のクオリティは上がる所はあります。ですが、資本主義カーストの中でそういう所から、自分がどれだけ下位層を排除できたかという自慢大会や、貧乏人への蔑視の目線は、某メンタリストによるホームレスへの発言と紙一重だと思います。ああ、メンタリスト氏は殺人も示唆してましたっけ。
なんか自分が被害に遭ったことを一般化し、特定の層への憎悪を向けてるような煽情的な言説ってXでめっちゃ受けますけど、正直そういうことが(今の所)殆どないBlueskyに移住して本当によかったなと思います。フォロワーも少ないですが、精神衛生上いいです・・・。ていうかこの発言も矛盾してるよなぁ・・・(汗)
話は変わりますが、川上 幸之介氏と一部におけるパンクスのアレコレは、本当に予想通りの展開を迎えていると思います。正直、どちらとも擁護するつもりは毛頭ありませんし、感じる所があれば徹底的に批判すればいいわけですが、批判側のあの言葉遣いを見ると、何かあった時に向こうから訴えられても知らんぞ・・・?と正直感じています。Xの性質上仕方ないのかもしれませんが・・・。
本来なら、絵を描く環境はファミレスとかマクドナルドみたいな所がいいんですが、キャンバス画だけは・・・と感じています。だって、そんなものを店内に持ち込んで作業する馬鹿な人っていないでしょ・・・。迷惑だし・・・。いや、前者だってそうだということは自覚してるんですけどね・・・。
そういえば、列への割り込みを昨日2回くらいやられました。注意しようかと思いましたが、暑い中を歩いて疲弊してたので相手に任せました。許したというわけじゃないです・・・。
今日はドラッグストアで薬を買いました。鼻のやつです。
で、最近なんか懸念していることを書いてみます。Xを見てみると、結構サイコホラーっぽい児童書が刊行予定みたいな宣伝を目にしました。自分も(買うかどうかもわからないし)読んでいないので恐縮ですが、あのアカウントが百合とかホラーとか、それから露悪趣味とかで気持ち悪い上にさもしい騒ぎ方をギャーギャーやるのが目に浮かび、クラクラしてます・・・。百合とか露悪が好きなのはわかるけど、不必要にまき散らさないでください・・・結構迷惑だから・・・。
オタクの無自覚な荒らしを容認すると、どんなジャンルでも殺されつつあるというのは、一緒みたいですね・・・。私もプチオタクみたいな所はあるので、気をつけな・・・。
ていうか児童書でサイコホラーとかイヤミスの文脈を取り入れるのは・・・まだ早いと思うんですよ・・・個人的には・・・。だって、「何で人を殺してはいけないのか、悪いことしたらどうなるのか」がわかっていないローティーンの子供なんかと、それをわかっている大人との間では理解度や区別に雲泥の差があると思うので・・・ね・・・。イヤミスについてのお気持ちは、また書いてみたいなと思います。
そういや線画がまたでき上がりました。本当ならその過程をアップした方が・・・と思いますが、なんか恥ずかしいので・・・。
昨日の文章で「ファランジェ」や「PUNK!」展に行ったことへの情けない弁明・・・みたいなことを書きましたが、「ファランジェ」にお邪魔する際、倉敷についた時にまだ時間があったので、水島地区まで行ってきました。その時の風景画を下にアップいたします。
全体的に慣れてはきたな・・・という感じがするのですが、そこで満足してはいけないと思います。どこまでいってもまだまだ・・・ということを肝に銘じて頑張っていきたいと感じます。
まあ・・・水島臨海鉄道だったら、ずっと学生時代によく使っていたなと・・・。
まあ、先程の「ファランジェ」や「PUNK!展」等にお邪魔させて頂いた身としては、ああいう批判が起きてしまったことをどう考えればいいんかね・・・と色々悩んでいます。パンクスではないことは百も承知ですが・・・。ですが、実際に会場に行って感想を書いたりした身としては、自分も問題の共犯者ではないのか・・・?という自責の念があります・・・正直・・・。『DEBACLE PATH』をも読んだ身としては・・・。
何か、あの(結構強い調子で書かれてた)はてブロの記事を読んだ身としては、ネットの性質上エコーチェンバーみたいなものが起きて、やったほうがいつまでも批判側に反応せずに「聖域」から出ず、批判側もどんどんやったほうへの憎悪を募らせていく・・・みたいな展開になりそうで正直不安です・・・。そこら辺でお互いがエスカレートするのがネットの怖さとでもいうんでしょうか・・・。
まあ、怒られることをやったんなら誠心誠意そこに関して説明すべきだとは思いますし、問題に関してもちゃんと対応すべきでしょう。ですが、これは経験から絞って書きますが、権威とか後ろ盾とはいいますが、ああした(川上氏が勤務されてるような)いろいろアレな小規模大学で働くというのは、結構ハードですよ?大学教員=いつも涼しい研究室でお高く止まっているというイメージがありますし、実際に大学職員は楽で高給なんて嘘八百を垂れ流すXアカウントもありますが、それは一部の一流マンモス大学の話であって、社会的立場はそりゃ上でしょうが、実態は「下」と同じようなブラックで、50歩100歩の関係でしょう。
それに、剽窃かどうかは「地べたにいる側」が行うから許容されるのではなく、司法による判断では?自分は下だからよくて上にはアカデミズムが控えてるからダサいという正当化は、自分達は散々プリキュアとかおジャ魔女どれみのエロ同人を描いておきながら、村上 隆氏やカオスラウンジの作品を剽窃だと叩いているオタクたちを思い出しました。そういう所で、あの界隈で巻き起こる二次創作批判は受け入れられんなと・・・。
こういう所はトータルすると、当事者たちの「犠牲者意識ナショナリズム」みたいな所もあるな・・・とちょっと感じたりしました。
ですが、これはブログのリンク先を見ただけなので恐縮ながら、「そりゃあ、そうでしょう・・・」とは思いました。 こういう所、つまり紹介されていたBAD BRAINSのアレコレで知らないというのは確実にまずいと思いますし、フェミニズムやクィアに言及するのであれば、知らなくてやりましたは本当に論外だと・・・。こんなパラドックスが起きている現実だからこそ、本当に現場の声から発せられる批判をブロックやスルーじゃなく、本当に向き合ってほしいなと、強く思います・・・。
それと、アカデミアがアンダーグラウンドに接近する際の礼節などについては、本当にそうですね・・・と感じるわけです。パンクだけではなく、何らかの権威が何かを発見した気になり、当事者を天然で毀損するようなことがあるわけで、そこら辺の意識高めな風潮に関してはこの公開日記で何度も批判的にネタにしてきた分、外部からのアプローチで文化にどのような影響が出るのか、そうした責任も込みで向き合う能力について、再び襟を正される気分でした。最初にも書いた通り、私は川上氏がキュレーションされた展覧会に行き、好意的な感想も書かせて頂きました。だからこそ、ちゃんとした所に問題が収まって欲しい・・・そう強く願っています。
最近、Xを見ていて、桃太郎の家来が感染症にかかっていて、それを凶器にするという設定のパロディを目にしました。なんていうのか・・・これって「チフスのメアリー」じゃない?と思ったりしました。なんかリプライや引用リポストを見ても、公衆衛生という「正義」と俗情の結託で、コロナを始め、感染症の被害そのものを茶化すような投稿が沢山あり、本当に胸が痛くなったというか・・・。コロナの感染者が後遺症に絶望して自殺したり、5類になって支援も補償も検査も打ち切られている状況を考えると、簡単に笑えんですよ・・・こういうのは・・・。コロナ禍は終わったわけじゃない、「終わった気にさせられている」というのが実情ではないでしょうか。
以前もこんな記事にリンクを貼りましたが、 日本でコロナ感染は自業自得と考える率はアメリカの10倍で、そうだったら感染者をバイオテロと罵ったり、凶器として扱ったり、その状況自体を面白がるような風潮はあって当然・・・なのかもしれません。こうした攻撃的ユーモアはオタクの暗い情念と癒着したインターネット(特にSNS)では相性がいいらしく、感染症だけではなく、福祉叩きとか貧困叩き、それから障害者叩きでウケを狙うような投稿、そして投稿者を神輿にかつぐようなリプや引用リポストをXでどんだけ見たのか・・・。
どっちかというと、みんな公衆衛生や感染症の被害なんて関係ないのかもしれません。 ただ、安全圏から社会の差別構造の中でインフルエンサーになりたい(もとから何らかの嗜虐性のある)人達が、人が死んだことが楽しくてたまらない、その被害に喘ぐ人間をどうやって嘲笑してやろうかという話というだけなのでしょう。
ああ、そうそう。最初の方で5類移行と書きましたが、情けないことにその空気にすっかり流されている私がいます・・・。もちろんワクチンはちゃんと打ちましたし、マスクもちゃんとしてはいますが・・・。
「スライム娘は人間と友達になりたいようだ+」を早速プレイしました。といっても発売からちょっと経ってますが・・・。
なんかアウラちゃんは(フランシスのせいで)闇落ちしても可愛いなとか思ったりしましたが、正直純粋無垢な存在が大人の暴力に晒されるのを再び見るのはキツかったし、しかもそれが増えていたので、正直「ちょっとな・・・」と思ったのは確かです。ですが、リョナではないということで・・・。
そういえば、線画なんですけどレイヤー選択を間違えていたせいで、ペンの線を写真から直接描いていて、一からやり直しました。自業自得じゃ・・・。
ネットで広電宮島線の混雑率が全国2位・・・という記事を目にしました。まあ・・・ラッシュアワーの宮島線に乗ってみればわかりますが、結構な地獄です・・・。JRに比べると、車両のサイズが小さいので・・・ね・・・。以前はよくバイト先の行き帰りに宮島線を使っていたので・・・。
まあ、狭い車内で人があれほど押し込められている光景は、まるで猿団子じゃないか・・・と感じたりします・・・。インドの列車程じゃないですが・・・。でも 移動もできないし・・・。そういえば、東京でラッシュアワーの山手線に乗ったことがあります。すると、サラリーマンらしき男の人が駅に止まった時に突撃してきて倒された経験があるので、なんとか相手への怒りを抑え込んでいました(笑)
まあ、ミニ画集がちょっと売れてたのでささやかな幸せを感じています。皆さまどうもありがとうございます・・・。
水の入ったコップのデッサンをしました。霜がウロコ・・・みたいだなと思い、まだまだだなと感じています。水の揺らぎもうまく描けたかどうか・・・。
そういえば、キャンバス画における線画の70%が完成しました。ホワイト修正・・・なるべくかけんようにできれば一流なのですが・・・。
最近、X上で性犯罪の漫画を読みました。多くの引用リポストの通り、そういうことだなと感じました。どうして加害者が知的障害者なのか、そこら辺が雑でSNS受けする知的障害者叩きに「忖度」したものでしかないと思ったし、それで女児が犠牲になることを批判するというのなら、もっとまともで誠実な作品があると思います。障害者の犯罪=無罪放免というわけじゃないですし。
それと、一番共感したのがBlueskyのポストです。自分だってそれを守れてるかどうかわからないし、同様の失敗をしているかもしれないという自戒で書くのですが、「結果として作品の面白さを損なうにしても、「社会」を扱うのなら、しっかりとした取材を重ねてそれを反映させるべき」というのは、もっともな指摘だと思います。
ですが、この作品ばかりではなく、日本のポップカルチャーにおいて福祉バッシングや底辺嘲笑など「正しさ」と「俗情」の結託に基づく作品は散見されているわけですが・・・。ああ、そうそう、引用リポストの中にも批判だけではなく、悪平等のもとに障害者差別を正当化しているポストがありました・・・。なんか「障害者を聖人君子視することの方が差別だ!」みたいな、お粗末なノーマライゼーション観というか・・・。
それからまたX上の話ですが、川上 幸之介氏の『パンクの系譜学』が批判されているというので、興味を持って『DEBACLE PATH』というミニ雑誌を買いました。『パンクの系譜学』を持っている身なので、敢えてという感じでした・・・。
まあ・・・感想としては「どっちも正しい」という感じでした。正直、バンクスでもないので恐縮ながら、だからといって当事者性ありきで外部のアプローチを排他するだけでいいのか、アカデミズムが論じるからこそ、必要悪として文化が育ってきた所もあるとは思いますし・・・。 ですが、フィールドワークや一方的な美化の面に関しては、そりゃ私達が陥りがちな部分ですよね・・・耳が痛かったです・・・。
昨日Xを見ていると、児童文学作家の浜たかや氏が亡くなられた・・・というニュースを見ました。私が特に浜氏の作品で影響を受けたのは『先生なんか消えちまえ』と『ぼくんちのゆうれい』でした。やっぱりフォローしていた人が亡くなるのは、やっぱり・・・と思います。人は永遠に生きられない・・・ということは理解しているはずなのですが・・・。
だからこそ、「アンドリューNDR114」とか「グリーンマイル」とかいう映画を思い出したりするんですよね・・・。 永遠の生に近いものを得て、それがない知人がどんどんこの世を去っていく悲しみというか・・・。それすらもひたすら続く役所手続きと金に左右されるという、現代社会と資本主義の呪いみたいなものを、最近灰になった身内を見て思い知っています。
で、最近は500円で定食が食べられるところによく行っています。ですが・・・あんまし客層が(個人的に見て)よくないんで、行くのは今まで控えてたんですが、しゃーないね・・・。
「ファイブ・ナイツ・アット・フレディーズ」、略して「FNAF」の映画版を観ました。
ゲーム本編は全部(!)やったことがないので恐縮ですが、やっぱりこういうホラー映画と私はつくづく相性がいいんだな・・・と思いました。相手を不快にさせることと恐怖を履き違えた流血残虐シーンがなく(あっても間接的)、シチュエーションをメインに恐怖を演出する。私が「FNAF」だけでなく、「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」とか「ホーンティング」、そして「クリスティーン」とかが好きな理由なのですが・・・。
やっぱり、主人公という「大人」が超常現象に立ち向かう時に、感受性の強い子供が重要なファクターを示すホラー映画はいくつかありますが、 本作もその一つだと思います。だからこそ、ジョン・ソール氏が好きだったりするのですが・・・。
で、怪奇現象を通じて、忌まわしい過去に囚われているだけの主人公が、色々な試練の上に子供を守る大人へと成長していく・・・そういう要素もあり、「FNAF」は単にアニマトロニクスの殺戮劇にとどまらないポジティブな気持ちも味わえる映画でした。
今日を含め、二日続けてプリンタのインクを補充しました。
キャンバス画にも取り組みたい・・・のですがいかんせんホワイト修正がめんどいです・・・・。ホワイト修正・・・ホワイト革命・・・あそこら辺にはちょっと批判的な目で見ていました・・・。
先日、川上 幸之介氏が開催されている企画展「ファランジェ」にお邪魔いたしました。
基本的に、生きていくためにはカネにも行政にも頼らざるを得ない現状がありますが、一定の社会批判が何らかの媒体でないと不健全であると考えています。こういう所から、自分の政治的な心情と現代アートのスタンス・・・とでは相容れない部分もちょろちょろとあるのですが、学生時代を過ごした街に再び行けたということと併せ、最高の日となりました。
会場はKAG様で、倉敷駅近くにある古くて小さなビルの3階にありました。基本的に、私はこうした雰囲気の場所にあるギャラリーも好きでして・・・。多分、銀座の奥野ビルに2回ほどお世話になってきたからでしょうか・・・。広島の廃墟ギャラリー様にお邪魔したこともありますし・・・。
では、下の方に会場の写真をアップいたします。
色々と展示された作品を見てから、やっぱり感じたのはファシズムとか資本主義の弊害、歴史修正主義とかいった「いま」(の悪い部分)を構成している断片を、いかにうまく作品として抽出できているのかがカギとなっているように思われました。そこだけをただ強調していくと、独りよがりで適当なものになりがちですが、作品として成立させなければいけない分、皮相な反権力や震災観やコロナ観にも疑念の眼は向けていきたいな・・・と個人的には考えています。最も、会田 誠氏の作品でゲラゲラ爆笑していた自分にいえる道理などないのかもしれませんが・・・。
特に印象に残ったのは、DASの作品でした。サイケな絵柄が目を引いたのかもしれませんが、毒気のこもった初代シムシティ・・・みたいな感じがしました。そこにあるのは街をパソコンにインストールしたソフトウェアが生み出す電子空間で構築していく楽しみではありません。上から見下ろした視点で描かれた、きめ細かい町の絵を見ていると、寧ろ、そんな狭い空間に押し込まれてアクセクしている(そういうものを作った方の掌で見事に遊ばれている)現代人への冷たい視線を浴びているようでした。
それと、マルコ・ラコウィッツ氏のパラサイト・シェルターでしょうか。私も大して社会的弱者にロクな助けができていない分敢えて書くのですが、当事者を置いてけぼりにして、評論家と作者の言葉遊びで弱者をダシにしている作品(パフォーマンス)もある中で、こうした取り組みは本当にまともだなと思いました。
SNSのぬるま湯でホームレスを始め、社会的弱者を「志〇どうぶ〇園」のような感覚で消費し、好き勝手に社会を腐しているようなオンラインユーザーがいる中で、当事者を対等に見ているからこそ、アートという安全圏に逃げることなく、問題に現実的なアプローチができていると感じました。
それに比べれば、本当に自分が作品の文脈としているものは弱い・・・のかなとか思ったり・・・。今の自分の立場で、こんなことは絶対に書くべきじゃないですが、まあ児童書原作のアニメだってすごくあるんだから、児童書でも・・・みたいな考えがあります。でも、なんかどっかでアプローチに失敗し続けているというか・・・。これは自分が世間知らずなのが悪いってことでいいでしょうか?色々と悩んでいます・・・。
で、話は変わりますが某本を読んでいて結構ムカつくことがありました。道徳について書かれた本だったと思いますが、なんか現代アートを思い付きで叩いているような箇所があって、真面目に向き合っていることを知りもせずに、感覚のズレた社会不適合者のなれ合いみたいないい方をされると、「ちょっと待てや!」と思ったり・・・。確かに、そう取られても仕方のない作品があるのは事実です。ですが、みんな楽々とやってるわけじゃないです。
例えるなら、ピアニストや指揮者と違って、DJというのは適当にターンテーブル回すだけで大金貰えるし、リスナーと併せて音楽的素養のない人達の方が評価されがちでしょ?というのと同じかと・・・。
最近の時間帯に比べれば遅くの更新になりますが、今日に描いておきたかったことは先延ばしにします。プリンター関係で色々せんといけないことがあるので・・・。
まあ、昨日は倉敷に行くと書いてましたが、実際に倉敷のギャラリーKAG様にて、川上 幸之介氏が開催されていた企画展「ファランジェ」にお邪魔いたしました。ああした古いビルの中にある小さなギャラリースペースって、雰囲気がいいなと個人的には思います。
くわしい感想はリアルのことを優先させたいので、明日にでも・・・。
『デンキ街の本屋さん』で、先生の漫画制作を(カメ子や腐ガール等、いつものメンバーと一緒に)手伝っていたひおたんが、うっかりミスでインクを先生のペン入れが終わった原稿にぶちまけてしまうシーンがあります。で、それを見た先生が赤ちゃん返りをして癇癪を起こし、みんなにそれが伝染していくんですが、カントクに期待されていた海雄まで赤ちゃんになってしまい、ひおたんや先生達が正気に戻ります。
私がこの一連の流れを見て思い出したのは、『おばけのコッチ あかちゃんのまき』 でした。『魔女の宅急便』や『わたしのママはしずかさん』等で知られる角野 栄子氏を代表する児童書シリーズのひとつですが、赤ちゃんの世話をしようとしたら、その癇癪と駄々に振り回されるおばけのコッチの結末を見ると、最初に書いた先生のシーンを見るよう・・・でした。立場が逆転・・・というか・・・。
なんか本作に限らず、『いやいやえん』とか『宇宙人のいる教室』みたいに子供や幼児の描き方が上手い児童書はありますが、なぜそこに惹かれるのかといえば、子供をただ可愛らしい存在として描いていないからでしょう。ペットブームに便乗したバラエティ番組のように、子供をただ天使のように描くことに対して香月 日輪氏も度々苦言を呈していましたが、子供を巡る数多くの美談をきちんと退けている作品だからこそ、共感を集めやすいのだと思います。
そこら辺については、いしかわえみ先生の育児エッセイ漫画『食べて産んで寝て描いて』 でも思ったのですが・・・。『絶叫学級 転生』でもその経験が反映されているエピソードをちょくちょく見かけたしなぁ・・・。
話は変わりますが、今日はもう一つの故郷とでもいうべき倉敷に行くつもりです。 奴のやらかしで愛憎入り混じった記憶がありますし、新幹線を使えば一発なんですが、金の問題で朝一の高速バスとJRを使います。だからあと2時間しか寝れないのですよ・・・。
昔出版された小説が復刊される時に、現代向けにリライトされることがありますが、ここではつばさ文庫の『トンデモ探偵団』シリーズについてちょっと書いていきたいな・・・と思います。学生時代もつばさ文庫はよく買って読んでいたのですが、『トンデモ探偵団』はもともと依田 逸夫氏の『いたずら校内探検クラブ』」シリーズの一部を現代風にリライト、イラストも現在の児童書で主流のライトノベル寄りのものになっていました。で、原版とつばさ文庫版を読み比べてみて、その違いを楽しんでいたりしました。もう10年くらい前の話ですが・・・。
で、後者のイラストを務めた福田 岩緒氏のイラストも結構味があって好きだなと感じています。特にタイガーマスクを被ったDQN中学生のイラストは強烈でした・・・。
昔のファインアート寄りの児童書の挿絵は結構廃れた感じがあり、そこら辺で萌え絵はどうなのかと議論が起きたりするわけですが、私はどちらとも好きですし、絵本コーナーを見るにあたり、まだまだ子供の本においてファインアートは死んでないのではないか・・・と思ったりします。
ああ、そうそう。好きな絵本作家をここで挙げておきたいと思います。いもと ようこ氏とか、武田 美穂氏、それから山本 忠敬氏とかです・・・。
もうね・・・Xにおいて、喫茶店の経営者がインボイス制度の影響でネルフィルターを縫う職人の廃業が決まったので、底辺と呼ばれる人達が私達の生活を支えてくれるのに、底辺切り捨ての政治を続けていいのかという趣旨のポストを見て・・・あの、自分が世話になっている職人に「底辺」ですよ?低賃金労働といっても、これはあんまりじゃないでしょうか?なお、ここでインボイス制度のアレコレは敢えて書かないことにします。(恥ずかしながら)そこら辺に関して自分の解像度がまだまだ低いことに加え、労働者を雇う側が、相手を天然で「底辺」と書いたことに焦点をしぼりたいので・・・。
私もダメ人間だからこそ承知で描きますが、きつくて金銭的に報われにくい労働で世の中を支えている労働者達がいることは事実です。ですが、それを享受する側が感謝の念として「底辺」という言葉を出すことに、驚きを感ました・・・。私も創作において、目立たない場所で、絵具やキャンバスなどの画材を作ってくれる人や運送会社さんにお世話になっている身ですが、そういう発想は正直なかったんで逆に感動しています・・・。もちろん皮肉の意味ですが・・・。
まあ、私も食品工場やドラッグストアなど、就職せずにバイトを転々としてきたクチですが、こういう思考回路の経営者に製品を提供してきた労働者達は、怒ってもいいのではないかと思います。もう店の名前もわかっているので、そっちは利用したくないなと思ったりします・・・。もうこっちには怒る気力もないし、立場でもないので・・・ね・・・。
こういう所から、ネットのウォーク系の言説はなぜ高い確率で、知能や学力のある犠牲者については対等に扱うのに、(特に社会のボトムにいる)当事者を高みから天然で傷つける発言が横行しているのでしょうか?なんかリアルで地道な活動をしている人達がいて、自宅の近くにも複雑な事情を抱えた子供達に無償で食事を提供するNPOがあります。そういう団体に限って、教育困難校とか底辺とかいった言葉を振りかざさないのはなぜでしょうか?少なくとも、後者の方がはるかに誠実な姿勢で問題(とその当事者)に向き合っていると思います。SNSも事務的で、いかに自分達が相手を助けているかを自慢げに書いたりしているポストは殆どありません。自分のメソッドを金儲けや承認欲求に使う意志を露骨に見せることだってないですし。
まあ、あの手の言動がアレなのは、社会批判の為に自分より弱い存在を好き勝手に扱うような高慢さがあり、『だいすき!』とか『灰谷健次郎-その「優しさ」と「文学」の陥穽』で指摘されていたような、相手の尊厳を奪うような形で美化するような言葉遊びがあるからでしょう。しかも自分に差別意識は無いというグロテスクさ・・・。
自分だってこの公開日記というネットのぬるま湯の中で社会や色んなことを好き勝手に腐してるので同じ穴のムジナかもしれませんが・・・。
-だいたい、犯人たちが「誰も傷つけない犯罪を目指す」とか言っているのがお笑い草です。(中略)そんな連中に「こんな悲しい過去がありました」と同情させてどうするんですか。そんなの、矛盾してるでしょ?
山本 弘『料理を作るように小説を書こう』より
世の中に流通しているフィクションには盗難や殺人などが、一定の正当化を持って表現されている作品があると思います。戦争行為はともかく、ターゲットが悪徳政治家(及び経営者)とか不起訴の犯罪者とか、ああいったやつです。
まあ・・・「昔はよかった」という文脈で、暴力や犯罪が語られることがよくあります。詐欺師は富裕層を対象としていたのに今は弱者をターゲットにしている、今と違っていじめが陰湿化している・・・それって、寺村 輝夫氏がきっぱり否定していましたし、誰が持っても金は金という具合に、動機が何であれ、犯罪は犯罪なわけです。昔殺人犯は金持ちをターゲットにしていたけど、今は通りすがりの人を狙うからダメなんて理屈が通ると思いますか?
で、話を戻しますがそういう所から溜飲を下げるようなフィクションがいくつか見当たるわけで、面白いっちゃ面白いんですよ。日頃から何となく享受している話への問題意識を高めるチャンスを与えてると思いますし。
ですが、多くの人は社会をよくする・・・というよりかは、自分より醜い存在が特権を享受し、それが叩き潰されることに心のデトックスを放出させること「だけ」しか期待してないのではないか・・・とレビューを色々見て感じます。こういう所から、政治家や企業の諸々の不祥事を上級国民の問題に矮小化し、自分達は清らかな存在としてそれを成敗するストーリーが望まれる傾向があります。ですが、そんな願望は上に書いた通り単に嫌な奴が滅んでほしいという個人的なモノに過ぎないので、いつまでも需要と供給が生じるというわけです。
何ていうのか、稚拙な「弱気を助け、強きを挫く」みたいな皮相な反権力に基づく願望だと思われますが、こういう発想って安倍氏を殺害したり岸田首相に爆弾を投げつけた犯人や、相手に同情するどうしようもない層とほぼ同じだと思います。
そして、こういう所から生じる意識というのが、裏金や森友・加計学園問題、万博や日大みたいな個別の極端な事例(仮想敵)を面白おかしく叩くことだけに堕していたりするので、誤解を恐れずに書けば、こういう時に使われる弱者という言葉も方便だな・・・と感じる次第です・・・。
最も、私は「面白いっちゃ面白い」と書きましたが、こういう系で私の好きな作品は「嫌いな奴がいなくなってハッピーハッピー、悪徳理事長とかブラック企業に痛めつけれられていた私可哀想」というものじゃないです。寧ろ、そうした悪は受け手にもあるということを突き付けているような厳しさがあるからこそ、社会問題を自分事として受け止められる力を与えてくれる力があるんです・・・。
-こんなやつもいるんだから お前は今の環境を後ろめたく思わないでいい
つるまいかだ『メダリスト』より
まあ・・・学歴の話って結構デリケートな部分はありますよね。スポーツとか芸術とかの分野で努力の末に成功する話は素直に受け入れられるのに、勉強になるとみんなが腫物に触るかのように目を背け始めるのは何故でしょうか?金の問題とはいいますが、前者だって同様のはずです。
私も高校時代に色々あって地方の私大に甘んじており、対照的に親戚に東大生がいたからこそ敢えて書くのですが、あの署名運動に関しても 本当に皆にとってプラスになるのか・・・?と問いたくなるのです。逆に社会にとって悪影響でしょ?とも・・・。
世の中、もっと単純にいえば日本社会の格差構造の中で低俗な格付け番組のような足の引っ張り合いが(特にXみたいな所で)あり、あの東大推薦への反発に関してもそうした言葉遊びの一環でしかないと思います。どうも教育や生活環境については「酸っぱいブドウ」で終わるどころか、先天的にブドウを獲得できる努力を与えられた人間に、色々と理由と難癖をつけて足を引っ張ろうとし、真面目な格差論ですらそうした心情の慰撫に回収されていると感じています。あんまし書きたくないことですが、私もそういう考えでモラハラ紛いのことを受けたことがあるので・・・。
第一、推薦入試は(総合型選抜と同様に)インチキではないですし、それだって教育ジャーナリストである石渡 嶺司氏が指摘している通り、単におべんちゃらで入れるほどの甘さではありません。全員が悠仁様という藁人形を劣等感や敗北感の為に殴っているにすぎず、様々な格差への問題提起が彼らへの肯定(燃料)にすぎないのであれば、そこら辺にどう楔を打つか・・・も重要だなと思います。要するに、純粋な犠牲者として彼らを扱う限り、不毛なルサンチマンにより真の被害者が生まれ出るということで・・・。
これについては明日に持ち越してみたいな・・・。ヤフコメも結構見苦しかったし・・・。
昨日の文章で、メールアカウントの設定が・・・みたいなことを書きましたが、ちょっとそこら辺について謝罪をしておかなければ・・・と思います。
なんか恥ずかしい話ですが、(今のご時世で!!)私は大学卒業間近までメールでのやりとり・・・というのをまともに使ったことがありませんでした。もっぱら、電話連絡という形です。それにデジタル音痴ということも加わり、アドレスを書くだけで精一杯・・・という所がありました。 だから、アカウント設定の名前という所がよくわからず、名前をちょっと間違えていたりすることが過去にありました。最近では、エイリアスを増やしたので、そこら辺でも設定がわからずにミスをして、名前を書いてなかった・・・ということもありました。
この度はマナーに抵触するようなことをしてご不快な思いをさせてしまい、大変申し訳ありませんでした。
なんか・・・さんざんオンライン美術館にあれこれ書いてからこのザマとは・・・。
そういえば、こんな記事を見ました。 別世界に住んでる身としては、身に染みる内容でしたよ・・・。これはVtuberだけの問題じゃないと思います。それこそ論点がズレることを承知でいいますが、自分達は全然文化的特権階級ではなく、絶対に許されてはいけないことを楽しみ、だからこそ怒られる立場であることを自省して生きていかなくちゃ・・・ということを再認識させられる文章でした。
フランスのアーティストで、JRという方がいます。JR・・・日本人にとっては、切っても切れない関係にあるんじゃないでしょうか?すみません、また私の悪癖が・・・アーティストではなく、西日本の方ですが・・・。もう私が生まれた後は国鉄は民営化された後なんで、日本国鉄というものに乗ったことがないんですよ・・・。ですが、國鉄広島からいつ脱せるのかと思って生活していて、その時が来たのは大学卒業後ですからね・・・。
で、フランスだったらJRじゃなくてSNCFですよね・・・。
ごめんなさい、こんな風にこじつけを・・・ああいう人らの1人としての、悪い癖です・・・。
で、ちょっと明日はメールのアカウント設定について書こうかな・・・とか思います。よくわかってなかった部分があり、人様に失礼になっていたかもしれないので、お詫びと報告もかねて・・・。
とあるニュースサイトで、街路樹が伐採されたという趣旨の記事を色々読んでいました。
はっきりいえば、温暖化に伴って植林の意義は大きくなっていると思われますが、こういう所から日本の醜い都市景観、つまり花より団子主義が優先させられた結果かな・・・と思います。なんか外国の街をそこまでつぶさに見たことがないので恐縮ながら、日本の街づくりというのは日常生活をひっくるめて本当に無頓着だなと思います。統一感がなく、本当にグチャグチャというか・・・。
どうして原爆ドームを含めて、平和記念公園のすぐそばに同人誌ショップや模型屋などが並んでいるのか、日本車のクラクションはなぜ鼓膜を割るようなトーンなのか、なぜ自転車は道交法を守らず猛スピードで走るのか・・・そこら辺からトータルして、日本の街というのは人の神経を逆撫でする乱雑なエレメントが、余りにも揃いすぎていると感じます。
ああ、それと昨日は反ワクチンのデモを見ました。警官の姿を何人か見たので何事かと思いましたが、トラックを先頭にして、後ろから何人もプラカードを持った人たちが、列をなして歩いていました。で、トラックの上で拡声器越しに女性が金切り声でがなりたててまして・・・。ちょっと考えれば政府やWHOに騙されてるなんて言うのは妄想だということくらい、誰でもわかるはずです。問題なのは、こうした天邪鬼の一線を越えた駄々を、いい年をした大人達が大真面目にこねていることでしょう。
私も大して社会貢献できてないし、時として駄々をこねてしまう身だから敢えて書きますが、多数の警官に守られているということは、そうした自身の行為に公金が投入されているということです。だからこそ、自分の行いについてきちんと考えてみる必要があるのではないでしょうか・・・?
まあそれが間違いだといっても、妄想じみたことを事実として認識している人には、話が通じないと思いますが・・・。以前書いた文章の使いまわしになりますが、彼らは社会や権力と戦っているように自己演出しているフシがありますが、彼らの社会に対するスタンス自体が社会への幼稚な挑戦だと思うので、別にわざわざトラックに乗って金切り声を上げたり、行進したりする必要はないのです。
こういうの、『コメンテーターエンドウさん』あたりで論難されてそうだよなぁ・・・。
「Locomotion dance」を描きました。もともとはロバート・F・ヤング氏の『特別急行がおくれた日』のファンイラスト・・・というつもりで描こうとしましたが、やっぱりそういう風にはならなかったので、カイリー・ミノーグ氏の※「ロコモーション」という曲をイメージして描きました。SAW時代のミノーグ氏が一番好きなので・・・。
で、拙作の蒸気機関車はかなり変わった形をしていますが、これはガーラット式といわれるもので、 フローティング構造にしたボイラーの前後に、カーブにあわせて回転可能な動輪が置かれており、それぞれが炭水車となっています。
個人的には、(失礼ながら)殆どが喪服のような黒一色の日本の蒸気機関車より、海外の形状やカラーバリエーションに個性がある蒸気機関車のほうが好きかな・・・?と思ったりします。とくにイギリスの蒸気機関車はカラフルであるばかりか、レトロフューチャーな雰囲気を放つ流線型の車両も数多くあるので、見ていてウットリします・・・。
そういえば、昨日は台風10号接近ということで、殆どの公共交通機関が動いておらず、車だけが道路を行きかっており、かなり異様な光景でした・・・。早く過ぎ去ってくれるといいのですが・・・。
SF作家ロバート・F・ヤング氏の短編『特別急行がおくれた日』では、(いささかネタバレになりますが)とあるキャラクターが集電用のレールをうっかり踏んで感電死し、その仲間が「くそったれの第三レールめ!」と毒づくシーンがあります。
そこで思い出したのは、『ロアルド・ダールの鉄道安全読本』なんですよ。あの本でも第3軌条に接触すると感電する危険があるから、絶対線路に入ってはいけないという趣旨のことが書かれていましたが、まさにそれだなと・・・。Xにおいても、過去にモノレールや地下鉄のホームから線路に降りて写真をアップしたおバカな子達がいましたからね・・・。まあ、私もおバカゆえにそこまでではありませんが、過ちを犯すことはあるので自戒もこめてそう書くのですが・・・。
日本においては地下鉄や一部の私鉄路線が、線路の横に設置された第3軌条から集電しており、その殆どはホームドアでがっちりガードされています。それでも、ホームドアが整備されていない所もありますが、個人的にはインフラ頼りだけでは限界があるかな・・・と思います。要するに、線路には絶対降りてはいけないという、日頃からの意識の徹底も必要要素ではないかと・・・。
同じく、(こちらは児童書ですが)筒井 康隆氏のSF『うちゅうをどんどんどこまでも』では、(これもちょっとネタバレ)で恐縮ながら大人の教えに背くことが教唆されていましたが、実際にそれを実行すれば社会や親に多大なツケを払わなければいけないという冷厳な現実が待ち受けているだけでしょう。こういうことは文化的な特権意識を持つ大人達にとってありがたがられるフシはありますが、ルールを守るのがつまらないからと不貞腐れた子供と、そんな大人の共犯関係に待ち受けているのはパラダイスなどではなく、後者なのです。
いや・・・たかだか鉄道ネタでこれだけ愚痴れた自分に感動するわ・・・。もちろん、自画自賛じゃなくて皮肉の意味で・・・ですけどね・・・。
昨日はちょっと北上しました。新幹線の車庫がある所くらいです。その近くにはイオンモール広島府中があるのですが・・・昔はダイヤモンドシティ・ソレイユでしたが、昔はよくいってたな・・・と思いました。
で、以前言及したオンライン美術館の話ですが、どうなんかね・・・?と余計な憶測を・・・してしまいます。多分、クラファンが成功してプロジェクトが遂行できたとしても、個人的には間違った方向に進みはしないか・・・?と思います。だって、ギャラリーを経営するのって、そういう話じゃないでしょ・・・?みたいな感じがせんでもないんです。
うーん・・・やっぱりちょっと気に障ったのは、金ですよ、金の話・・・。自分だって正直、現状お金に困ってるわけじゃないです。ですが、これまでコツコツ貯めたバイト代で出展料(と、旅費とか宿泊費とか、それから作品の輸送費とか)を収めてきた身としては・・・何か認識が違うでしょ?みたいな・・・。
まあ、86人の絵師さんの面倒を自腹で見るといったからにはもう引き返せないでしょうし、お互いが不幸な思いをせんようにとは思います・・・。
最近、近所に押しボタン式の信号があるのですが、それが普通の信号になっています。寧ろそっちの方が使いやすい・・・というか・・・ね・・・。
そういえば、『メダリスト』の11巻を読んでいて、かなり印象に残る・・・というか、刺さるセリフがありました。環境に恵まれてるやつ・・・の所なんですけど・・・。かなり考えてしまいますよね・・・。
まあ・・・創作界隈でも実際に「知らない」、「わからない」人がいて、個人的によく目にするのは、(いるかちゃんの受け売りになりますが)「環境のアドバンテージに気づかずにすべて自分の実力だと思ってるやつ」だったりするんですが・・・。それが一番見やすいですよね・・・。
で、なんか『もしもし、てるみです。』で「牛田さん」が出てくるじゃないですか・・・。あれ、「うした」って読んでたんですよ・・・恥ずかしながら・・・。
何故かというと、広島に同じ名前の地名があり「うした」という読みでしたから・・・。
フォト絵本『こんにちは どうぶつたち』(作:とだきょうこ氏 写真:さとうあきら氏)より、ゴリラの写真をデッサンしました。下にアップしましたので、どうかご覧ください。
で、デッサン関係で、『うまく描くの禁止!』で、ちょっとショックを受けることが書かれていまして・・・。目的がないデッサンはただの逃避行動・・・なのか・・・。いや、私としては自分の得意分野ばかりじゃなく、寧ろやらないから必要ないとしている対象こそ挑戦すべき・・・という考えでやってたんですが・・・そうですよね、好きなものも好きでないものも、平等にやるべきだったというか・・・。
話はまた大きく変わってすみませんが、結構耳の痛い話題も取り入れるべきだ・・・と思い、群像の今月号を買いました。なんか私の大学の先生が、デッサンについてお話をされていたので・・・。こんなコンクールが開催されている(正直、定員割れとか学校法人のことで含む所は色々とありますが)地元の高校生達は、結構恵まれてるなと思います。で・・・色々考えてしまいました。単に逃避行動になっているのなら、私のやってきたことはもしかして、作品への学力になっていないのではないか・・・とか・・・まあ、間違ってきた努力だったら、どうすりゃいいんかね・・・とか・・・。オンライン美術館についてあれほど書いといて、これだからな(汗)
(一部文章を書き換えました)
なんか最近、木澤 佐登志氏目当て(と長期主義批判みたいな特集に興味を持って)で現代思想の最新号を買ったんですが、Xを覗いてみて、同じような発想に基づく(社会に対しての)提言じみたものなら山ほど見るじゃないか・・・と思ったりするわけです。最近の例でいえば、とあるフリーゲーム制作者でした。
で、木澤氏と言葉がダブるようですが、社会が平常運転されているそうじゃない時に、デスゲーム寄りの極限状況を突き付け、非情ともとれる二者択一を適応すべきだという話ですが、現実においても大規模な災害や戦争、そしてパンデミック下のように同様の状況は発生しており、どっちかといえば苦渋の決断として、トリアージ寄りの冷たい決断が行われることがあります。前者が本当にタチが悪いな・・・と思うのは、誰かがやむなく死ぬという状況で、良心のジレンマ(もっと雑にまとめれば、心の痛みとか後ろめたさ)に悩むことがなく、むしろ善意や逆張りの優越感として、リベラリズムへの愉快犯的な態度でその理念を振りかざしている所だと思うのです。
世の中にはネットのぬるま湯で好き勝手に過ごしながら、人権や福祉の理念、倫理的なことを理性派ぶりながら腐し、自分に関係ない所で誰かの生き死にを選別するようなことを、社会の健全な運営として堂々と主張できないことに被害者意識を抱いているネット論客崩れを大勢見かけます。トロッコ問題とはいいますが、多分彼らが線路上にいる作業員になることを想定はしてないんでしょうか?だからこそ、余計に声がでかくなるというか・・・。
不勉強な立場で色々余計なことを書いてしまったかもしれませんが、私からすれば命や生活の安全が保障されている中で、自分が有している特権が他人にも保障されていないという状況を自覚せず、寧ろ「なぜ人を殺してはいけないのか?」と大人に真顔で問う子供を想像してしまうのです・・・。
まあ・・・現代思想のみならず、『デジタル生存競争』を読んだからということもあるからでしょうか、色々書いてみたいな・・・という思いがありました・・・。
「どうせ殺るなら・・・」を描きました。
最近プライベートで色々あり、ちょっと気が立っているせいか、なんかそこら辺でのお気持ちがダイレクトに反映されています。つまりダイレクトな残酷描写や性描写があるので、それでもいいという方は、「続きを見る」をクリックしてから見てほしいということです。
今日は・・・2回目の更新となります・・・まあ・・・やっぱり書きたいことがありまして・・・ですね・・・。色々こっちも覚悟はしています・・・。
こちらの話ですが、オンライン美術館を開きたいという趣旨のポストを目にしたので、それについていっちょ噛みしたい・・・ということを最後に書いたと思いますが、試しに公式サイトを見ました。
・・・まあ・・・私もあんましクラウドファンディングがまだ始まってもない、サービスが開始されてもない状況で、足を引っ張るようなお気持ち表明するのは・・・とは、思いましたが、色々なギャラリーの企画展に出展・個展を開催させて頂いた身としては「ちょっと待てよ」と感じることが色々ありました。なんかそちらに出展される絵師さん達の心情を傷つけてしまうかもしれないし、そこら辺から生じているクリエイタースピリットみたいなものに冷水を浴びせてもいいのか・・・そんな後ろめたさや背徳感もありますが、やっぱり自分としては考えてしまうことは色々とあったので・・・。
(すみません、ここら辺の文章はこっちもオンラインイベント関係について無知だったので、一部を書き直しました)
これ、正直にいいますが、ネット上ではまともな組織が提供している作品販売・発表サイトも色々とありますし、リアルでも、(貸・企画を問わず)真っ当な運営のもとに成り立っている画廊や、オンラインイベントに関してもしっかりした主催者さんが数多く存在するので、創作作品をお客様に発表したい・売りたいというのであれば、そうした所をちょっと苦労をしてでも探した方がいいと思います。そっちのほうがハードルは高いし、コストも当然ある程度はかかりますが、それがなくてお金だけがもらえるという方が闇が深いと思います。
現代アーティスト崩れの自分がこんなことを書くのは果たしてどうか・・・と思いますが、現代アート業界やギャラリー経営に関して間違った認識で「夢」とか「情熱」とかいう言葉を声高に語り、結果として絵師さんとのアレコレ(金銭関係とか報連相関係とかです)で何かあったら責任とれるのか・・・?とか、 問われてるのは「覚悟」ではなくサービスを享受した側に対し、ちゃんと義務を果たせる能力(を備えている)の証明なのではないのか・・・?とか色々疑問が湧いてきまして・・・。なんか一番私の癇に障ったのは、そういう所からズレた画廊批判をしてたことですよ・・・。「そのお金(筆者注:作品売上ののマージン)があるなら画材購入やほかのことに使ってほしい」みたいな言葉は、「財政赤字なら紙幣を刷れば解決じゃん?そんなこともわからないのか?」と真顔でいわれてる気分になりました。ギャラリーは絵を借りている立場とか・・・アートコレクターになりたいとか・・・。当事者にいうたら、ちょっと怒られそうな感じですよ、これは・・・。
私だって大して学もないし就職もしてない分、色々とフラフラしている部分があります。人様に迷惑をかけてしまったことも色々あります。ですが、やっぱし(無償であれ有償であれ)仕事というのは信用とか責任とかをお金で買う部分が生じるし、それを親に借金(!)とかクラウドファンディングで開催して集金とか・・・。だからこそ、マージンや出展料はきちんと頂きますということなのに・・・。
でも、だからこそ、自分の「夢」を人を巻きこんで叶えようとする前に、その人にはちょっと踏みとどまって再考してほしいかな・・・と個人的には考えたのでした・・・。絵師さん達と万が一変なことになる前に・・・。すいません、(最初にも書きましたが)まだまだ始まる前からこんなこと書いちゃって・・・でも、私としては、色々違和感があったので・・・。
最後にもう一つ。絵師さん達に金銭的な支援がしたいというのであれば、普通に作品を買うかニーズが生じた時に依頼させて頂くというだけでいいと思います・・・。
なんか・・・政治家が「記憶にございません」ということを、「認知機能の低下」と揶揄するポストを見ましたが、こういうのってホントに脳機能関係の障害に対する侮辱に繋がるということをわかってないと思うし、本当にあそこら辺(特に創作系)の愛国有理と紙一重の、独りよがりな正義感と攻撃性に愛想が尽きそうというか・・・。まあ・・・安倍氏の持病である大腸炎についてもそれを免罪符にして、安倍氏の不祥事そのものを擁護するポストがあり、「なんだかなぁ~、それとこれって違うでしょ」と思っていたわけですが、右派のモラルハザードを批判する際に、同じ(差別や人格攻撃などの)モラルハザードを犯すことには寛容な一部の先鋭化した左派には正直、そうした右派と同じ穴のムジナとして扱いたい気がほんのり燻っています・・・。
DNAを炙り出すとか人間の血が流れてないとか、今みたいに認知機能が低下してるとか・・・それ、移民問題や性的マイノリティ、ジェンダー等に関して差別的な言動を弄してきた人らと同じ民度じゃないですか・・・。なんか、(こんなこと書きたくないですが)洋介犬先生あたりの漫画で揶揄されそうな感じが・・・せんでもない・・・。
そういえば、矢玉 四郎氏のことですが・・・そうですか、私も矢玉氏の作品は「はれぶた」以外にもたくさん読んでましたよ。あんびるやすこ氏や大海 赫氏など、児童文学作家の中には自分でイラストも担当される作家さんもいましたが、そうした作家さんと同じように、「はれぶた以外」と書きましたが、「その人の絵じゃないと・・・」と思わせる強さを、矢玉氏は持っていました。「ねこの手もかりんとひとつ」や「どこでもでんしゃ」、「しゃっくり百万べん」とかも、すごく楽しませてもらいました。
で、こういう所から『まんだくんとマンガキン』で井上 洋平氏がイラストを務められた時に、ちょっと違和感が湧いたんですよね・・・。別に悪いという意味では全然ないのですが・・・。
それから・・・オンライン美術館・・・やっぱり何かを失う覚悟で、明日あたりに書いてみたいな・・・そんな感じがします。だって、絵師さんのお仕事にあんな形でお金を出すってのは、理想における認識と責任感が釣り合ってないでしょ!?と思ったりして・・・。
こういう所から、noteとか公式サイトととかを見て・・・正直頭を抱えてしまったもので・・・。
なんか、トラウマ児童書なるものが時折ネット上で話題にわりますが、小学生のころに木暮 正夫氏の児童書『一丁目のおばけねこ』がかなり怖い・・・というか「幽霊(オバケ)」そのものではなく、社会問題とかそういう悪意の描き方に対する胸糞の悪さの方が強く感じられる作品がありまして・・・。
(いささかネタバレになりますが)本作は真犯人が最後まで明確に成敗される様子が描かれず、やり場のない怒りと痛みだけが残った状況で幕を閉じるのですが、安直なお仕置きが描かれるより、悪は時として逃げ得を味わうというリアリティを突き付けることが、寧ろ読者の倫理観を醸成する大きなチャンスになっていると思います。
本書が刊行されたのはもう30年以上前のことですが、小市民的存在が相手の非につけこんで振りかざす排除の理論、正体を明かさない卑劣な悪意など、今の社会にも十分通用する風刺が込められています。
なお、『一ちょうめのおばけねこ』から始まる『おばけ横丁シリーズ』では、幽霊はただの復讐者や友達として描かれるのではなく、犯罪や戦争などのバックグラウンドが、作者のまっとうな倫理観と怒りに基づいて描かれているので、安直な「おばけもの」にはない重みがあります。こういう所で、どこか西 尚美先生の漫画『あかりとシロの心霊夜話』のような雰囲気を感じますね・・・。
この度、短編アニメーション映画「Garden of remembrance」目当てに、「ひろしまアニメーションシーズン 2024」へと行ってきました。
なので、本作のファンイラストを下にアップいたします。
最初に「Garden of remembrance」の感想を書いておきます。あまり書くとネタバレになってしまうので詳しくは語りませんが、「喪失」に対する当事者の想い・・・みたいな描き方は、どことなくウルフ・スタルク氏の絵本『おねえちゃんは天使』とか、「ラブリーボーン」や「オールウェイズ」という映画を思い出しました。そこら辺は一歩間違うとケータイ小説的な、皮相な死生観に基づいたお涙頂戴に堕してしまうことがありますが、そうした偽善が付け入る余地のない重みがありました。なお、拙作の話になりますが、なぜミニチュアの機関車(決してあの3人が巨大化したわけじゃないです。念のため・・・)なのかというと、これは「きみ」がエレキギターを嗜んでおり、同じ音楽関係ということで、音楽プロデューサーのストック・エイトキン・ウォーターマンのメンバーであるピート・ウォーターマン氏が熱烈な鉄道模型マニア(結構大きなものがありました)という所からのオマージュ・・・みたいなものを目指しました。果たして作品の空気にあわせられたかどうか・・・。心配です・・・。でも、ストック・エイトキン・ウォーターマンは好きなんで・・・。
まあなんていうのか・・・ファンイラストといっても、私の場合は焼肉にジャムをかけました・・・みたいなものが本当に多いです。独り善がりだということは自覚していますが・・・やっぱり観たという意思表明は・・・やっておきたいじゃないですか・・・一応・・・。 それに、一番前の機関車の窓は・・・許してください(泣)
なんていうのか・・・産経新聞の「新テロ時代」という連載を読んでいて、ローンオフェンダーなんて英語で呼ぶ必要はなく、単純に「単独型殺人犯」と日本語で呼べばいいんじゃない?と思いました。
それと、 とあるネット上の記事でこうした所から(安倍氏の国葬や新興宗教が孕む問題などの)社会問題が露呈されることが、「とっくにテロに屈している」と指摘されていましたが、正にその通りだと思います。模倣犯にしても実際に、岸田首相がターゲットにされた事件がありましたし。
判官贔屓にすぐ流される国民性もありますが、動画の違法アップロードということにもかなり考えさせられるものがありました。私もアニメやドラマのMAD動画をゲラゲラ笑いながら見ていたクチですが、こういう時だけデイリーモーションに番組の内容をアップしたことを、権力と戦っているという認識であれば、そういう人間性自体が社会との戦いだと思います。やった本人は反権力という「偉業」を成し遂げたつもりでしょうが、私個人から見れば、漫画やアニメを違法アップロードしているセコい輩とほぼ同類だと思います。
で、「新テロ時代」の話に戻ります。こういう所から治安が非常によく、テロ空白地帯の日本があのような事件に右往左往し、(社会との折り合いをつけ、犯人を社会に曝け出す道を閉ざした外国とは逆に)責任概念のない報道の自由ばかりが振りかざされて、結果として凶悪犯罪をダシにしたお粗末な政権批判や社会批評がネット上で繰り返されているわけです。
これだけ(いささかな皮肉も込めて)日本が平和な証拠だということかもしれませんが、テロの実行者に寄り添いながら国家権力と戦うような姿勢を見せるような人達は結構卑劣だなぁと感じています。みんな、殺される側に入ることを勘定に入れてない・・・そのぬるま湯の中から、関係ない誰かが仮想敵を殺すことを期待している・・・そんな特権意識みたいなものがチラチラと見えるというか・・・。
今日は色々と覚悟を決めて、(朝になったら)外出しようかと思います。
・・・なんか結構プライベートではちょっと動きがありそうなので、そっちを今度は大事にしていきたいかな・・・とも・・・。
今日の文章はこれくらいにしておきます。なんか緊張の方が大きいので・・・。
0時を超えたばかりですが、 (だからこそ)昨日のことについて書きます。
なんか・・・プライベートで・・・もうちょっと考えてからやれよ・・・みたいなことがあって、結構猛省しております・・・。そりゃ昔のことがあったからといって、疑ってかかるのは・・・かなり大人げなかったなと・・・。つくづく、自分が嫌になる・・・。
で、これなんですが・・・終戦のタイミングを狙った、というわけじゃないですけど・・・。
確かに、「やられたこと」ばかりが強調され、「やったこと」をあやふやにし続けてきた所は、結構問題があると思います。自分だってこの文章で最初書いたように、自分の非にアレコレ言い訳したり、棚上げしたりするようなことがあるからこそ・・・なんですが・・・。
で、そういう所から「戦争反対」を叫んでも、加害国として近隣アジア諸国から(時として)冷たい目を注がれているという事実に照らし合わせると、被害者意識ありきで醸成されてきた反戦観に、果たして現実に起きているジェノサイドや侵略に対して効力はあるのかどうか、正直疑問に思っています。1945年の夏で止まったまま、そのテンプレで今の複雑化する戦争の事情を語ること自体も、(かなり酷い例えですが)T型フォードしか知らない人がテスラを同一視して語るようなもの・・・だと感じたり・・・。
そこら辺から、ウクライナやガザに広島や長崎、東京大空襲などの無差別爆撃を重ねることはあっても、(かつての)南京や重慶にそれらを重ねて考えることって、果たしてきちんと私達はできていたのかな・・・と考えるわけです・・・。
今から台風が首都圏から東北にかけて上陸するみたいで・・・、結構それが心配です。自分事じゃないのに・・・。
それはそれで、長尾 充徳氏の児童向けノンフィクション 『ゴリラのきずな』より、ゲンキというゴリラを描きました。私も京都の動物園には2回ほど行ったので・・・。で、下にその画像をアップしておきます。
まあ・・・顔だけのデッサンですが(汗)、それでも毛並みとかは頑張りました。
「モンスターズ・インク」ではサリーの毛並みを表現することに力が割かれていると、どこかの解説本で読んだことがあります。で、ゲンキの顔まわりのフサフサを描いている時に、それが頭をよぎったというか・・・。何か最初はニホンザルっぽいな・・・と思いましたが、それを打ち消すために、ゴリラ特有の顔のゴツさを描きこんでいきました。なので、(自画自賛は論外だと思いますが)ニホンザル化はかろうじて避けられたと思います(笑)
で・・・ちょっとしたお気持ち表明をしておきたいです。本文章で「モンスターズ・インク」について触れましたが、ピクサー(とディズニー)は滅茶苦茶凄まじい表現力を有しているのに、そこら辺を爆発とか銃撃戦とか、ニッチ受けする所にすぐ使わんのがいいと思います。どっちかというと、そこら辺とは対極にある分野で最高の技術を提供しているのがいい・・・というか・・・。ニッチ受け・・・まあ、私もそういうのは好きなんですが・・・。
最近、なんか財務省が能登半島地震の復興関係でなんかやらかしたみたいで、ネットが荒れてますね。「コスト削減」・・・そりゃ怒るわ・・・。
まあ・・・私も地方都市在住者としてかなり溜息は出ましたし、東京という場所の立ち位置や、 そこに住んでいる人(だって、私と同じように生まれた場所で想いを持って生きているという点では、全く同じでしょう)を非難するつもりはありませんが、財務省が被災地に向けた言葉を見ると、関東大震災100年とか、東日本大震災10年とかいった所で発生するムーブメントに素直に乗れない自分がいます・・・。東北地方の太平洋側が主な被災地だった東日本大震災でも、首都圏に住んでいる人や周辺自治体自体にも、自分事(東日本壊滅の危機や計画停電等)として降りかかってきたので、そうなるわけで・・・。
ああそうそう、公金投入に関してのアレコレですが、 経済オンチの自分がこんなこというのはなんだとは思いますが、万博はともかく、政治家の私生活や自衛隊の戦闘機(あるいはミサイル)と庶民や貧困層を比較した上での権力批判をよく見ますが、それも個人的には雑な概念だな・・・と感じています。格差は是正されるべきですし、権力者の間違いは糾されて当たり前です。ですが、そこら辺が「恵まれた人間」を攻撃するという、溜飲を下げるための(内輪受けする)犯人探しに堕している場合があるので、そっちにも含む所はあります。元ソースはき○こ氏だったしねぇ・・・。
まあ・・・「恵まれてそーに見える人間」への敵愾心を煽る言説なら、ネットで色々と見ますね。なんか『フローラとパウラと妖精の森』という児童書を久しぶりに思い出すよ・・・。
まあ、南海トラフ地震のことがあるので、色々どうしようかねぇ・・・と思うことはあります。外出だったり、行きたい所だったり・・・。もし何かあったら100年とか10年とかいう境目で、あんな風に騒いでくれるのか・・・みたいな・・・。
で、 ちょっとある漫画家さんのブログ記事を見て・・・確かに、そうだな・・・と感じました。確かに、承認欲求とかお金の関係とかを正しく理解しておかないと、(漫画家さんのいう通り)そこら辺をつけ狙うビジネスがかなりあるので、気をつけておかねば・・・と痛感しました。
前にもちょくちょく書きましたが、私が見ている分野の限りでも、ギャラリーが高額な出展料とひきかえに海外の企画展に誘ってくる・・・みたいなものがあるので、そこら辺を・・・みたいなものがあります。そこまで悪質ではありませんが、1回くらい関係を持った自分もバカかもしれんな・・・。
なんか、広島とは違ってイスラエルを招待しなかったので、長崎の市長さんがXで絶賛されていたのを見ました。でも・・・結局こうじゃん・・・と・・・。ミャンマーとかシリアとか・・・。東大法学部とか関係ないだろ・・・。こういう所から、リベラル勢の悪い癖が露見してるな・・・とも・・・。
それが現実だからそういう発想で臨めというわけじゃないですが、結局は、みんなが期待しているような「情」ではなく、政治的なアレコレは「打算」でまわっていることが事実だったりします。だからある程度は政治家であれ政治的問題であれ、理想のシチュエーションや(支持に値する)人物が現れた時こそ、距離を取って冷静に考えることが必要だ・・・と思うわけです。
こういう所から、右であれ左であれ、感情的に政治的トレンドを持ち上げている風潮には冷水を浴びせることも必要かな・・・とも感じています・・・。
水あさと先生の漫画『デンキ街の本屋さん』からファンイラストを描きました。
なんか・・・あれは辛かったし、水先生は泣き顔がすごく上手いので、マジでヒリヒリしちゃいました・・・。その距離感を何とか描こうとしたかな・・・とも・・・。屋根のトーンを描くのが地獄でしたが・・・。
なんかこれが女の子同士の「きゃっきゃうふふ」ではなく、きちんとキャラクターが自立した個人として、時には「優しくない、厳しい」ことをはっきりシチュエーションにあわせていう・・・所が好きなんですよね・・・。大体は上手くいくんですが、やっぱりつもりんのように「負け」を認める描き方も・・・と思いますし・・・。「インサイド・ヘッド」というアニメ映画でも、「悲しみ」という感情はなぜ本人の成長に必要なのか・・・きっちりと「ヨロコビ」の独善を通じて描かれていましたし・・・。
さっき書いた、「優しくない、厳しい」ことですが、私だって癒され系の漫画やアニメは好きです。あんまり辛口でシリアスな演出だけが先行しているのも・・・とは思いますが、そういう都合の悪さもストーリの良さとして取り込める耐性がないと、結局は(また同じリンクを貼りますが)こういうスパイラルに陥ってしまう・・・そう感じます。